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イノセンタ、インセンタ

 思うように動かない自身の体を呪いたい。


 たとえ淀みの炎を宿した矢を放ったところで、とてもじゃないが安心できる状態にはなかった。僕の体も限界を向かえつつあるが、しかし、進むのを辞めるわけにはいかなかった。休まなければ進められない。けれども、休んだら動けなくなる。


 走りたくても、僕に走れるだけの余裕はなかった。気持ちは走っているつもりだったが、重い脚は上がらず、弓銃は方に担いでなんとか持ち運べている状態だった。


 歩いて。


 立ち止まって。


 淀みの炎を放ち。


 索敵の矢を放ち。


 歯を食いしばって一歩を踏み出す。


 淀みの炎を放つようになってからエフミシアさんの魔力は小康状態を保っていた。索敵の矢は着実にエフミシアさんが近づいてきていることを知らせてくれる。何も頼るものがない状況では唯一の救いだった。


 日は沈み、二匹の魔物を相手にして、気がついたら空は白んでいた。何度撃ったか分からない矢を今一度放ってみれば。希望が持てぐらいの距離のところに反応を見つけた。


 しかし、妙だった。初めて感じる反応があったのだ。極めて微弱、虫が発している魔力と考えてもおかしくない弱々しさだ。


 だが、魔力の雰囲気は虫ではなかった。ドラコが放つ雰囲気でもない。僕は知っていた。ほとんど生命力が失われている感がするものの、間違いなく人間のそれだった。


 エフミシアさんのそばに人間がいる? ヒペオの地で?


 日が昇ってきた。周りが明るくなって初めて気がついたが、周りは完全にヒトの住まう雰囲気ではなかった。あらかた普通とは思えない色合いをしていた。地面は紫色か黄色。草木が生えているようだが、もはや原型すらとどめておらず、魔物と言われたほうが納得するぐらいである。


 異様な世界。これが瘴気に汚染された場所。


 エフミシアさんはこんな場所にまで足を踏み入れてしまったのか。危険地帯へ何をしに来てしまったのか。近くにある虫の息の反応は。


 矢を放つ。狙う先はすでに目で見える距離にいた。


 地面に横たわる蛇と、ヒトらしき姿。僕は疲れはてた頭の中で無駄にもある日の言葉を思い出していた。エフミシアさんはヒトの姿を失っていないだろうか。危険地帯に長い時間いたのだ。瘴気に曝露してヒトの姿に戻れなくなってしまいはしないか。


 嫌な想像ばかりがたくましくなってしまう。気が急いても、脚は言うことを聞かなかった。そう言えば、いつの間にか僕の周りに炎が噴き出すようになった。予兆があるわけでもなかった。突然、何もないところから炎が噴き出すのである。橙色でない。青白くもない。白く輝く、僕にとっては見慣れた炎だった。


 一帯に広がる瘴気に対して反応しているのか。僕の体に異変が起きているのか。考える余裕はなかった。意識を失っているようにしか見えないエフミシアさんを前に、体のタガが外れた。


 走った。これほどの力がどこに残っていた? 走っている僕が信じられない。でも、余計なことはどうでも良かった。


 エフミシアさんの元へ。連れて帰らなければ。


 時折噴火のように現れる炎はいつしか、僕の体を包み込んでいた。熱くない。全身ギュウギュウ詰めになった疲労が溶け出してゆくかのよう。


 エフミシアさんがどんどん近くなってゆく。


 もう少し。


 もう少し。


 もう少し――


 信じられない体の力も限界だったらしい。急に脚がもつれたと思ったらそのまま地面に滑り込んでしまった。ちょうどエフミシアさんの体を捉えるような格好だった。


 エフミシアさんの体はひどく熱かった。僕がぶつかっても気づいてくれない。息はしているものの、荒くて浅かった。


 もう一つの奇妙な反応を気にかける余裕は全く無かった。エフミシアさんのもとにたどり着くだけで心がいっぱいだった。まだ行きている! あとは、あとは、連れて帰れれば。


 気持ちばかりが先走って、体が全く動いてくれないのに僕は気づけていなかった。エフミシアさんの元に近付こうとしたつもりだった。けれども、体は動かないし視界は境界線を失ってぐにゃりと曲がりくねるし、口からはいつ食べたか分からないものを吐き出してしまった。


 世界が暗転する。黒い瘴気に飲み込まれたかのよう――


 にもかかわらず、僕は白い空間にいた。どこにも影が生まれない、果てのない世界だった。肌に触れる風の心地よさ。程よく涼しい空気。程よく乾いた、程よく湿った空気。どこからともなく漂うのは花の香りか?


 僕はこの場所を知っている。けれども、僕が知っている場所に比べるとかなり五感に訴えかけてくる。


 そして。


「良かった、ついに来てくれたのだね」


 やや響く声は、僕の正面から聞こえてきた。輝く霞の向こう側から姿を表したのは、男だった。血まみれの男だった。顔は鮮血で真っ赤になり、服は赤とどす黒い色合いに染まっていた。暴力的、攻撃的な色だ。元はそのような色の服だったとは思えなかった。服装の縫い目や飾りには力に訴える色とは全く異なる気品さが宿っていた。


 僕の顔を持った男だ。僕と瓜二つの顔を持った男が暴力と気品をまとって、僕の前に現れた。


 僕の魔力と同じ雰囲気の男だ。僕と瓜二つの魔力の雰囲気をまとった男が、僕の前に現れた。


「あなたは誰ですか」


「僕の姿を見ても思い出さないの?」


「僕の姿に似ているのは分かるのですが、誰かと言われると」


「魔力の雰囲気も分からないの?」


「さっきから感じ取れてはいますが、しかし」


「ノグリは鈍いよね。本当、鈍くて仕方がない。僕はね、兄でも、弟でもあるのだよ」


 男は依然として体から血を流していた。依然として? 違う、より状態が悪くなっていた。服の赤く染まっている箇所が増えていた。白い空間、白い床に血溜まりができていた。


 口角から血が流れた。


「僕には名前なんてないよ。名前がつけられる前に、君と引き裂かれてしまった。だから僕たちは、イノセンタだった」


 イノセンタ。この音を聞くのはいつぶりか。言葉を聞いた途端にドードの叫び声が頭に反響する。しかし、僕が知っているイノセンタは毒だ。ドラコを蝕む毒だったはずだ。


 『僕たちはイノセンタだった』。彼が口走ったことの意味が理解できなかった。


「僕が言うイノセンタというのはね、古い時代の意味だよ。それもはるか昔、おとぎ話や神話の世界の言葉だ。僕はずっと淀みに触れてきたからね、昔のことのほうが頭に入っているのだよ」


「理解できないです。古い意味のイノセンタって何ですか。淀みに触れていると昔のことが分かる意味だって分からない」


 名前のない男は血まみれの手を僕の肩に乗せてきた。


 よく焼けた鉄を押し当てられたような激痛が肩を襲うと同時に、何かが頭を蝕んでゆくのを感じた。言葉に絶する気味の悪さ、辛さ、無念さ、苦しさ。間違いなく正面の男のものではない。無数の人物の無念な思いが肩を通じて僕に迫ってきた。


「淀みにはその地の過去が混ざっている。こうやって淀みを流し込まれれば、かつての人々の思いが蘇るのさ。まあ、ここはひどい目に会った場所だから半分以上は嫌なものばかりだけれどね」


「それとイノセンタがどう関係しているのですか」


「淀み読み。イノセンタの古い意味は、この淀みを読み解く力や、その力を持つ人物を指していた。ただ読むことしかできないから、なにかしてあげることもできない。今のヒトは、感じ取ったところで読むことはできない。正確に言えば、無意識のうちに読んではいるけれど、理解できないからただただ体の負担になるばかり」


「じゃあ、僕はイノセンタが毒だと聞いたのは」


「体が無理をして限界を超えてしまったのだろうね。はたから見れば見えない毒にやられてしまったと思えても仕方ないね」


「そのせいでヒトの姿を失ってしまう?」


「そう、読めないものを無理やり押し付けられているから。だったらどうすれば良いと思う?」


「無理やり押し付けられないようにすれば」


「その通りだね。でも、どうする?」


 僕の顔が目前にまで近づいた。口だけではない、鼻や目からも血が流れ出していた。何も言われなくとも、限界が近いことを悟った。でもどうにかしなければ、という思いは不思議と湧いてこなかった。


 もう、どうにかなっている、という感覚しかなかった。


「燃やせば、淀みの炎で。あなたが教えてくれた」


「そう、消してあげれば良い。でも、僕たちの力――いいや、ノグリの力はそれだけじゃない。淀みの中にくすぶる毒を、理解できるものにしてあげれば良い。無理を強いるものでないものにしてあげれば良い」


 どうしてだろう、初めて聞く話であるのに、僕の中ではすっと腑に落ちるのである。読むことしかできない『淀み読み』が淀みを消す。『淀み読み』が淀みを書き出す。掻き出す? どちらでも良い。


「インセンタ」


 似ているけど異なる。聞いた記憶のない言葉。しかし、僕は何故か知っていた。淀みを読むイノセンタに対して、淀みをかいたり消したりするそれ。


 インセンタ。


 すると男が血を吹き出した。口からもだし、頭からはより一層激しく血が吹き出した。血は当人のみならず、僕の体をも濡らした。


「よく知っているね。そこまで分かってくれたなら、もう大丈夫なはず。僕は、ようやくノグリと一つにに。あるべき姿へ戻ることができる。僕たちは引き裂かれたのだから、元に戻るのは当然のこと」


 僕のもとに倒れ込む彼を、しかし受け止めることができなかった。まるで僕の体をすり抜けるように消えてしまったのだ。後ろを振り返っても彼の姿はない。ただ、ここにいるという実感だけが残っていた。目には全く見えないのに、いるのだけは分かるという不思議な有様だった。


「大丈夫。淀みに耳を傾けてみれば大体のことが分かる。僕たちは知らない間に巻き込まれていた。もはや人智を超えた争い。大丈夫、僕はインセンタだ。乗り越えられるよ」


 彼の言葉が消えるのに合わせて押し寄せるのは、引き裂かれた側の僕の思いや記憶――淀みだった。


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