師は語る
新新市街に到着した僕たちを待っていたのはロジ主任だけだった。エフミシアさんの姿がないかとあたりを見渡してみたけれども、目につくドラコの中にその面影はなかったし、空気中に漂う雰囲気の中にエフミシアさんの感じがなかった。
僕の視線があからさまだったようで、
「エフミシアなら新市街。人手が足りていないからね。追加の人員もいずれ到着するだろうが、それまでは辛抱」
とロジ主任。
そうして僕たちが乗っていた馬車に乗り込んできたのである。入ってくるなりトバスを見つけて挨拶をしていた。
「それでどうして馬車に乗り込んで来るのですか」
「これから連れて行く場所があるのだよ。君も待望だったろう? 質問の時間と行こうじゃないか」
馬車に揺れてしばらく、街の外れにまでやってきた。外れとはいえ、周りはすでに街の面影を失っていて、停車した先にぽつんと高い建物そびえていた。
森の中、世の中から距離を置いている感。
ロジ主任はためらいもなく出入り口の戸を開けた。ロジ主任の家でないだろうに、あたかも我が家であるかのように扱っていた。
「いや、ヒトの家なのではないですか」
「いいのいいの。ここのは昔からの馴染みでね、他人行儀なんて今更できないさ」
ロジ主任は階段の前に立つなり、僕たちを手招きした。我が物顔なのだから階段も上がっていってしまえばよいだろうが、あえてそうしないで人間を待っていた。
僕たちが追いつくとロジ主任はゆっくりと魔力を放ち出した。どこに向けているのかわからない、ただ雰囲気で気づく程度である。
次の瞬間、地面が動き始めた。
正確には、三人が同じように浮いて、階段を滑り上がっていった。
自身の意思とは関係なしに体を浮き上がらせられる感覚。一切の予告もなしにやられたものだから、僕も体の中が縮み上がる思いだった。トバスも同じらしい、僕にしがみついてきた。
一方のロジ主任は慣れた様子で、僕たちに向けるのはいたずらを企てた悪童の顔だった。
「いやあすごいでしょうこれ、前は階段を一段一段階段を上がらないといけなかったけれど、これのおかげで楽ちん」
「それならそうと予め言ってくださいよ」
「いや、いきなりのほうが面白いかなと」
悪びれもせずににやけるロジ主任。ふざけているのか真面目なのかが良く分からない。
螺旋の階段を何回もぐるぐる回って地に足を下ろすことができたのは階段の終わりだった。目の前には両開きの大きな扉。はじめの街でロジ主任と話すことになった部屋のそれに比べれば大したことないが、それでもただならぬ雰囲気を醸し出していた。
ロジ主任はためらうことなく扉を開けた。
廊下、なのだろうか? しかし壁のように本が積まれていてかなり狭くなっている。途中の平積みに至っては言葉通り崩れかけだった。無理やり状態を固定して本が散乱しないようにしているのか。
それにしてもこの本の量。大きな家を何軒も立ててもお釣りが来るぐらいの量だった。いくら進んでも壁が途切れなかった。
本の壁で縁取られた格好になっている出入り口に入ると、本棚に誰かがへばりついていた。棚の段に足をかけて、左手でつかみ、右手は本の背や巻物の題目を探していた。
「ルフィー、前に話した客だ」
「ん? ああ、準備はできてい……るよ……」
僕たちを見下ろした時。
本棚に張り付く女性が、手を滑らせた。
空中の姿勢は完全に崩れていた。受け身を取れる姿勢じゃなかった。
体が動く時間さえなかった。
落ちる。
しかし、落ちなかった。
既のところで中に漂う女性は、ゆっくりと大勢を立て直して直立したではないか。見えない綿に腰を沈めて、それから立ち上がったかのようだった。ドラコや人間の枠にとらわれないような動きである。
「ディルフィール、アントワーヌのディルフィール。あなた、たち? が瘴気のことを知りたいって?」
「うんや、男の子のほう。女の子は、訳あって一緒にいる」
「まあ良いでしょう。こんなところに来るような人間だもの、知っていて損はない」
「やっぱり分かっちゃうのだね、説明もしていないのに人間だって」
「ロー、私を誰だと思っている」
ロジ主任は何事もなかった家のような調子で話をしていた。
「さて」
するとどこからともなく酒瓶とグラスが空を漂ってやってくる。どこかで見た覚えのある光景だったが、トバスは釘付けになっていた。初めて見るとあれは確かにびっくりする。
「間違えた」
ディルフィールさんは小声でぽつりつぶやくと酒瓶に対して追い払うような仕草をした。それだけで酒瓶ははたと宙で止まり、来た道を戻っていった。一方でグラスはそのままこちらの方へ近づいてきて、机の、本で埋まっていない一角に着地する。天板とガラスがぶつかる音すらしない、静かな振る舞いだった。
酒瓶の代わりにやってきたのは、デカンタだった。水の中に薄切りの果物が浮かんでいた。
デカンタは誰に言われるでもなくグラスに水を注ぐ。
「あの、これは一体、何をしているのですか」
「何をしているって、魔法だよ。あなたは見たことがないのかね」
「いえ、魔法なら私も使います。ですがこのような使い方は。どうやっているのか見当もつかないです」
「慣れと経験でできるようになるだが、このようなことを聞きに来たのではないだろう?」
誰に言われるでもなく、いや、ディルフィールさんによるものだろう、小さな椅子が二つ動いた。ほんの少し動かして主張させて、座ることを促してきた。
腰を下ろした僕は、本題を切り出す。
「そもそもの話ですが、瘴気とは何ですか」
トバスの不審な目が僕に注がれる。そう言えば、トバスには瘴気のことを一切伝えていなかった。何も知らなくとも瘴気という言葉は不気味であろうから、いいものではないとは気づいているだろうけれども。
「瘴気とは古くは神々の怒りだとか、神々が悲しみで流した涙と書物には謳われている。中には神々の排泄物というものもあったな。いずれこの世界に漂う毒、淀みとして描かれるようになる。だがより正確な定義をすれば、瘴気は魔力だ」
「魔力ですか。僕たちが魔法で使うものと同じだと?」
「そう、ただ、異常な魔力。魔力のあるべき姿から外れた、壊れた魔力というのが簡単だろう。強い毒性を持つ」
「どうしてそのような異常な魔力が湧き出してくるのですか」
「分からない。近づいたら皆おかしくなるか、最悪魔物になる。書物の中では、せいぜいその問いかけの答えを得ようとして死にかけた記録しかない」
「じゃあ、瘴気を消した、というようなことは過去にないと」
「そういうわけでもない。興味深いことがある。瘴気そのものは言い伝えや伝承の中に、『我々』と『我々でない者』という区別が現れるようになってから現れるようになってくる。その中でも初期の頃、まだ明確に言葉で区別されていない頃の文献では何度か瘴気を消し去っている」
「どうやって」
「私が持っている文献では二件。一つは、瘴気の根源を壊すこと。ある男がヒトに裏切られた悲しみから瘴気を放つようになってしまって、解決を任された狩人が男を殺して体をバラバラにしたところ瘴気がでなくなった、と」
瘴気の根源という言葉に森の中の男、野宿のときに燃やした石を思い浮かべた。昔の人も僕と同じように瘴気と戦ったのだろうか。
「もう一つは、燃やした」
「燃やす? それだけですか」
「燃やすと言っても普通ではない。私の仮説ではおそらく、瘴気の根源を壊す方法の一つだと考えているが。言い伝えの中でいくつか『神々から賜った炎』や『神々から授かった白き炎』という似通った言葉が見られる」
「その炎について、具体的なものはないのですか」
「なかった。言い伝えでは炎そのもののことを言うだけで、炎がなんたるかはあまり記述がない。魔術書にもあたってみたが、同じものと考えられるものは見当たらなかった」
炎。
白き炎。
僕が何となく抱えていた炎へのイメージが、その輪郭を一段階はっきりさせたような気がした。淀みの炎。白く輝く炎は、昔の文献に出てくるようなものだったということか。僕が知っている淀みの炎と、ディルフィールさんが示してくれた炎のことが同じかどうかは調べようがないけれど、僕の直感は同じものだと言っている。
あの魔法なら、瘴気を破れる。
「ヒペオの瘴気は、いつ頃から現れるようになるのですか」
「ちょっと待ってノグリ、ヒペオの瘴気ってどういうこと?」
割って入るはトバス。その場のみんなの視線が集まってくる。
「ヒペオのことを僕たちは聖地って聞いて育ってきたけれど、そんな良い場所じゃない。ヒペオは、聖地は瘴気に溢れていて危険な状態だ。下手に近づけば瘴気のせいで命を落としたり魔物になったりする」
「瘴気のことも初めて聞いたし、それが聖地に溢れているだなんて。人を魔物にしてしまうだなんて、そんな場所が聖地であるはずない」
「そう。聖地なんかじゃない。危険地帯だ。どういうわけか人間はそこを聖地だと考えている」
「それだけじゃないよね。人間は聖地を自分たちのものにしようとしている。ほら、斡旋所で見たことあるじゃない。『聖地奪還』って銘打っているやつ」
「人はまだそのようなことを」
ディルフィールさんの囁きに僕はびっくりして当人を見上げた。本人は聞かれていると思っていないのか、僕の動きを気に留めている様子はなかった。
ディルフィールさんはおもむろに近くの本を手にとった。
「ヒペオが瘴気に覆われた時期は分からない。ただ、ドラコの領域の中でも最古の部類に入ると考えている。文献に初めて出てくるヒペオは、すでに瘴気に覆われていて、新市街がまだ賑わう前だった」
「瘴気を消した事例もあるのですよね。ヒペオではそのようなことはなかったのですか」
「文献の内容から考えるに、当初から相当濃い瘴気に覆われていたらしい。『近づくのすら困難』と記されていた」