5.風邪
翌朝、美琴はスマホのアラーム音で目が覚める。いつもセットしている時間の6時なのだろう。だが、今日は休みだから二度寝ができる。うるさいトランペットのファンファーレを消すために美琴はもそもそと枕元を弄り、スマホを探しだして画面をタップする。すると、視線の先、ベッドの下にある布団の盛り上がりに気づき、昨夜の宿泊者のことを思い出した。
「あー、ごめん、うるさかった?」
「…。」
どうやら宿泊者は先ほどのファンファーレでは起きることはなかったようで、美琴はほっと一息つく。二度寝をしようと起こした頭を再び枕に沈め、美琴は瞼を閉じる。
「…ごほっ……。」
「…?」
しかしながら、その布団の盛り上がりから聞こえてくる苦しげな息遣いに美琴はばっとベッドから飛び起きた。
「え?大丈夫…?」
「…はぁ…ごほっごほっ。」
紅潮した顔に寒そうにプルプル震えている身体。そして、苦しそうな息遣いと湿性咳嗽。
【アセスメント結果:風邪】
(…って、じゃなくって…!)
「一ノ瀬君、大丈夫?」
ついつい仕事のように頭を働かせてしまった美琴だが、ここは病院ではなく自宅だ。ベッドから降り、一ノ瀬少年の額に触れる。
「あちゃ~。まぁまぁありそうだね~。」
それにシバリングもしており、寒そうだ。これからもっと熱が上がる可能性が高い。美琴は自身がかぶっていた布団を一ノ瀬少年にもかけると、少年の瞳が重そうに開いた。
「…ん、…美琴さん…?」
「あ、ごめんね、起こしちゃった?」
「…寒い…。」
「ごめんごめん。暖房、もう少し上げるね。お熱測れる?」
「…熱…?」
気怠げに上目遣いをしてくる一ノ瀬少年には悪いが、あんたは風邪をひいていても可愛い。って、じゃなかった――
「そう。絶対風邪ひいたよ、君。」
「…。」
気を取り直して、美琴は少年に体温計を渡す。渡す際に触れた手はやはり熱い。体温計が合図を出す前に、美琴は収納ボックスの中を弄って冷えピタを探す。病院には氷枕があるが、うちにはそんなものない。しかし、冷えピタならあったはずだ。がさごそと収納ボックスを漁っていると、背後で電子音が鳴りだした。
「何度だった?」
「…37.6度」
「あ、まだそんなもんか。…でも、今から絶対もっと高くなるよ。ちょっと辛いかもだけど、もう少し様子見て、あとで解熱剤の飲もうね。」
「…何でもいい…。」
「ふふ…、だるいからどうでもよくなっちゃうよね。今は休みな。」
冷えピタを見つけ出した美琴は、一ノ瀬少年の布団の横に座ってそれを額に貼り、頭を撫でる。可愛らしいからついつい幼い頃弟にしていたように接してしまう。
「ベッドで寝る?お布団辛くない?」
「…大丈夫…………。」
「…ん?、なに?」
「…いや、…何でもない…。」
「じゃあ、早く寝なさい。あ、何か飲む?」
「いらない。…寝る。」
頭を撫でていた美琴は、一ノ瀬少年の視線に気づき、声をかけるが、何もないようだ。熱でぼーっとしているのかもしれない。少年が目を閉じた後も、しばらく美琴は彼のやわらかい髪を撫で続けた。
◆◆◆
いつもより重怠い身体で一ノ瀬慶太は目が覚めた。汗ばんだスウェットが気持ち悪いが、身体が床に張り付いたみたいに動けない。視線だけを動かすと、台所に先日出会ったばかりの女性、岩永美琴が料理をしているのが目に入った。包丁で何かを規則的に切っている音が部屋に響く。
「あれ?目が覚めた?うるさかったかな?」
「…大丈夫。」
ずっと見ていたから視線を感じたのだろうか。美琴が声をかけながら近づいてくる。重怠い身体をゆっくりと起こすと身体の動きと共に頭がぐわんぐわんと揺れ、頭痛がひどい。
「大丈夫?頭痛い?」
「…ちょっと…。」
「汗かいてるね。少しは熱下がったかな…。体拭いて、お着換えしようか。」
「…。」
さすが看護師と言うべきか、手際が良い。脱衣所から持ってきたタオルを濡らしたと思えば、ポリ袋に入れて電子レンジで数秒温めて持ってきた。
――…持ち方がだいぶ熱そうだが…。
「ほら、上脱いで。」
「え?」
「汗拭いてから着替えようよ。」
「…自分で出来るからいい…。」
彼女はそういうところがある。俺だってもう18歳。さすがに女性に裸を見られるのは抵抗がある。しかし、彼女はあまりそういうところは気にしないみたいだ。まぁ、俺のことを男として見てないから一緒に居て楽なのもあるのかもしれないんだけど…。
「そう?じゃあお願いね。冷ますからちょっと待って。」
「…。」
そう言って「あっち!あっためすぎた!」と言いながらタオルに空気を含ませる彼女は少し面白い。今しがた流石看護師と思ったばかりなのに。
「はい。すぐに冷たくなっちゃうから、身体が冷えないようにしてね。で、お着換えはこれね。」
手渡されたホットタオルは少し熱いが気持ちがいい。台所へと向かった美琴に隠れて着替えまで済ませる。なぜ彼女の家にはこうも新品のトランクスまであるのかがいつも謎だ。彼氏でも居るのだろうか。いや、彼氏がいたら男を家に泊まらせないか…。
頭痛と倦怠感と戦いながらだったが、着替えて正解だったかもしれない。だいぶすっきりした。
「着替え終わったらもう一回お熱測ってね~。」
台所でコンロを見つめたままの美琴が声をかけてくる。布団を敷いたことで部屋の端に寄せられたこたつ机の上に体温計が転がっていた。それを手に取り脇に挟んで、ベッドに背を預ける。風邪を引いたのなんていつぶりだろうか。いつも気を抜かないように生活してきた。そうしなければいけないと思っていた。
――身体はだいぶ怠いが、遠くで鍋がグツグツいう音と、食事のいい匂い。それと人の気配。
(…心地いい…。)
ふと、母親がいたらこんな感じなんだろうかと、ありもしない想像をしてしまった。
◆◆◆
「はい。ねぎたっぷりの卵粥つくったから食べよう!」
美琴は何となく少年からの視線を感じながら作った卵粥を、部屋の端に寄せられたこたつ机の上に乗せた。美琴は我ながらおいしそうに出来たと自画自賛する。いや、料理は得意じゃないけど、その割にはうまくできたという意味だ。
「何度だった?」
「38.2度」
「うーん、汗かいてそれか~。解熱剤飲む?」
「飲んだ方がいい?」
「もう少し様子見てもいいかなっては思うけど、だるいなら飲んでもいいかな。」
「じゃあまだいい。」
「水分は摂ってね。汗もいっぱいかいたし。」
「うん。」
ベッドに背を預けて会話をする様子はだいぶ怠そうにも見えるが、我慢強いのか。少年の頭を優しく数回撫でて額に手を添える。うん。冷えピタがぬるくなっている。
「本当に大丈夫?薬飲まなくて平気?」
「…うん。…美琴さんの手が気持ちいい。」
ぬるくなった冷えピタをはがして直接額に手を添えると、少年からの熱が直に伝わってくる。美琴の手は先ほどまで水仕事をしていたため冷たくて気持ちいのだろう。目を閉じてその冷たさに浸っている少年は幼子のように見えてくる。
「怠いだろうけど、ご飯食べて休もう?」
「ん…。」
食欲はかろうじてあった様で、器に盛った卵粥は完食してくれた。しかし、やはり怠かったみたいで、食事を摂ると少年は布団に倒れこんだ。
「大丈夫?」
目を閉じて怠そうな様子に、美琴は再び額に手を乗せる。
「熱上がっちゃうようならお薬飲もうね。」
「うん。…美琴さんの手って気持ちいいね。」
「ん?」
「おでこに手があるのがなんか気持ちいい…。」
「ふふっ…。…治療するって意味の手当ってさ、手を当てるって書くでしょ?痛いところとかに手を当てるだけでヒーリング効果があるらしいよ。詳しくは分かんないけど。」
「へぇー…。」
眠いのだろうか。ぼーっとした様子に美琴は母性本能をくすぐられる。ついに安心しきったように寝息を吐き出す少年に美琴は思わず身もだえてしまう。額に当てていない反対の手で少年の頭を撫でる。
(…でも、幼い頃から家政婦しかいなかったって…、風邪をひいてしまった時はどうしてたんだろう…。)
今のように、額に手を当ててくれる人は居たのだろうか。頭を撫でたり、心配してくれる人が周りに居たのだろうか。
そう思うと美琴は胸が苦しくなり、それを払拭しようと頭を撫でることに集中した。