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1.出会い

 

 今朝はだいぶ冷え込んでいる。冬が立ってから一週間程が過ぎたためか、日に日に寒さが増しているようだ。夜勤を終えた目には、雨でどんよりしている空であっても光が染み入るように感じる。


 岩永美琴は、病院の裏手にある職員用玄関の扉を開けると、同じく本日夜勤明けの先輩に声をかけた。



「げっ!桧山さん、雨降ってますよー。」

「えっ!?嘘ー…。はぁ…、帰ったら子どもたちの服洗濯しなくちゃだったのに…、コインランドリー行きだわー…。眠いんだけどなー…。」

「今日休日ですよね?旦那さんに頼んだらいいんじゃないですか?」

「ダメダメ。旦那も休日だからってなんもしないから。」


 家庭を持っている先輩のそういった発言を聞くと大変そうだなぁとは思うが、どの家庭もいろいろな事情を抱えているのは分かっているし、それでも幸せな家庭も多い。事実、桧山さんが旦那さんのことをのろけるように言うのを聞いたことだってあった。あれは何だったか…。…そうそう、結婚記念日に花をもらっただかなんかだった気がする。


「美琴ちゃん傘持ってる?」

「あ、はい。置き傘が。」

「んじゃ大丈夫だね。私も置いてるー。はぁ…帰るかー。」


 先輩からの声掛けで美琴は思考を停止させる。考えていたのか、それともぼーっとしていたのかも分からない。とりあえず、夜勤明けで頭も身体も疲れている。美琴は早く布団の中に入りたかった。


 岩永美琴の家は職場から何回か電車を乗り継いだところにある。なぜそんな遠いところにしたのかというと、交通費が全額支給される範囲内で家賃の安い良い物件を探したからだ。なかなかきれいで広く、住み心地の良い優良物件を見つけ、交通の便は悪いが美琴は大変満足していた。

 眠くてぼーっとしていても自分の足は自宅まで勝手に動いてくれる。いつものマンションの前の公園を突っ切る時になってやっと、『あぁ、もうここまで来てたんだ』と少し意識がはっきりしてきた。

 今日は雨だからか子どもたちの姿は見当たらない。いつもなら夜勤明けのこの時間帯は子どもたちの笑い声であふれているのだ。


 しとしとと降る雨が水たまりをつくる程度には雨量が増している最中、公園のベンチにパーカーのフードを深くかぶった男が地面を見つめたまま座り込んでいるのに美琴は気がついた。


「……。」


 そして、思わず足を止めてしまった。こんな寒い中、傘もささずに公園のベンチに座っている男など明らかに不審だ。相手の視界に入ってしまっては何か危険な目に合ってしまうのではないかと、嫌な想像が頭をよぎる。

 美琴は緊張しながら止めた足を、あたかも『あなたに気づいていませんよ』と言うように不自然にならないよう再びゆっくりと動かした。そう。何事もなかったかのように。







「……。」







 無事男の前を通り過ぎて、マンションの前まで着いた美琴は男を振り返る。なぜだか今度は心配する気持ちが勝ってくる。何か落ち込むようなことがあったのだろうか。不審だと思った男が、今は悲壮感漂っているように見えて仕方がない。


 おせっかいだとは分かっている。分かっているが…――






「…あの…。」

「…。」

「あの!」


 美琴が強めに声をかけると、その時美琴の存在に気づいたというように男は顔を上げた。マスクをしており、顔がほとんど隠れているが、長めの前髪から覗く長いまつ毛に縁どられた左右対称な瞳は、美琴が思っていたよりは力強い生命力を感じさせた。


「…こんなところで何してるんですか?…濡れてますよ…?」

「…あー…、本当だ…。」


 優しく穏やかな声色に安心するのと同時に、美琴は相手の体調が本気で心配になってくる。

「…大丈夫ですか?調子悪いとか…?」

「いや、身体は丈夫なんだよね…。」


――身体は…?


「……じゃぁ、心…?」

 ついつい入り込んだ質問をしてしまった。目の前で男が目を見開いたのを見て、美琴は焦る。

「あ、いえっ、ごめんなさい…。これ、使ってください。私の家、あのマンションなんで。」

「…。」

「身体が丈夫だとは言え、こんな寒い中雨に濡れたら死んじゃいますよ、マジで。早くおうちに帰った方がいいですよ。」

「…。」

 美琴は失言をなかったことにするようにまくし立てる勢いでしゃべり、男に傘を押し付けた。

「…では!」


 夜勤明けの変なテンションだったのかもしれない。見ず知らずの男に声をかけ、おせっかいのごとく傘を押し付け、余計なおしゃべりをしてしまうなど。

 美琴は自身の部屋に入り、シャワーを浴びる。夜勤明けに湯船に浸かる勇気はない。美琴の睡眠欲はすさまじい。夜勤明けで寝て、起きたのが翌日の朝だったということも度々あるほど良く寝るのだ。明けで湯船に浸かるなど、美琴にとっては溺れに行くようなものだ。

 シャワーから上がり、軽く食事を摂り、目は閉じてしまうが、かろうじて動く手で歯磨きをして布団に入った。そのころには睡魔が強く襲い、先ほどあったことなど意識の端に追いやられていた。


















◇◇◇◇◇

 ふと寒さで美琴は目が覚めた。辺りは真っ暗だ。スマホを探して時間を確認すると、20時を過ぎている。10時間ぐらいは寝たようだ。

「…さぶっ…。」


 暖房をつけ、二度寝をしようかとも思ったが、腹の虫が鳴っている。食欲か、睡眠欲か。今寝ればお腹がすいていることなど忘れて寝れそうだが、良い時間帯に起きたのだ。食事を摂って、日勤の時と同じように0時ぐらいに寝るのも悪くない。


「…起きるか…。」


 部屋の電気をつけ、美琴は身体を伸ばす。一応、鍋でも作ろうかと食材は買っていたのだ。基本美琴は節約のため自炊だ。料理が好きかと聞かれれば好きではない。ただ、必要だから料理をするだけ。それに比べ、職場の先輩で3児の母である桧山さんは料理が好きなのだという。素晴らしい。天晴れだ。

 とりあえず、ご飯がなかったので米を研いでいると、寝る前の記憶がよみがえってくる。

(…そういえば、彼はいったい何をしていたんだろう…。)


 家と職場の行き来だけの生活であった美琴にとっては、職場の人物以外の人と久しぶりに会話をした。ちなみに分かってはいると思うがコンビニやスーパーの人は例外だ。


 5合炊きの炊飯器できっちり5合の米を研ぎ、スイッチを入れ、なんとなく公園側の窓のカーテンを開けた。本当になんとなく。



「…!?」


 美琴はカーテンを閉めることも忘れて部屋を出る。弟の勧めでオートロックのマンションにしたため、部屋のカギは忘れない。



(何なの、あの人馬鹿なの…!?)






「ちょっとっ!?」

「…。」

 美琴の声が大きかったからか、今度は男は一回目の声掛けで顔を上げた。

「何してんですかっ!?」

「………さぁ、何って言われても…。」

「はぁ!?」

「…何してんだろうね…。」


 美琴が渡した傘を律義にさしてくれてはいるが、もともとびしょ濡れだったし、日が暮れて先ほどよりも気温はぐんと下がっている。


「…あぁ、お姉さん、傘返すよ。濡れちゃってるよ?」


 そう言って美琴に傘を傾けて、美琴だけが雨に濡れないようにしてくれる男の爪色や指の色はすこぶる悪い。


「…ちょっと、こっち来て!」

 なぜその時、見ず知らずのその男の手を取ったのかは分からない。

 傘を持つその手を引き、二人して濡れながらマンションへと向かう。その男は意外にも抵抗しなかった。静かに美琴に導かれるまま、まだ温まりきっていない3階の角の部屋に入っていくのだった。


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