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やがてヨアヒムが声をかけた。
「イアイン・ライント、ようこそ。母上との挨拶は済みましたか? できればさっそく重要な話をしたいのですが」
さっきとはまったく違った冷静な口調で超AIが話している。今までの自分の発言をまったく覚えていないようだ。それを無視してアーイアは娘を抱きしめたままだった。
いい加減にこの状態から脱出したかったイアインは、両手で母親の体を突き放した。
「私、今のことはもう一生忘れられない。何だかわからないけど、あなたにはもう会いたくない。親とも思いたくない。説明もしてくれないようだし」
そんな言葉を母親に投げかけているとき、彼女の目からは意に反して涙がこぼれ出たが、怒りにまかせて止めることができた。母親が目を見開いた。潤んで赤くなっている。
「さようなら」と言い残して背を向けたとき、
「あなたはあなたの使命を果たしなさい。私は私の使命を果たします。あなたはまだ知らないけれど、人類にはまだ希望が残っているのよ」という弱々しい声が聞こえてきた。
イアインは振り返ってその意味を訊きたかったが、気持ちを抑えて扉に向かった。すぐに銀色の壁が茶色に変わり、扉が横に開いた。
廊下の床にはナビしてくれる光点がなかった。どちらに向かったらいいのかわからない。彼女はあてもなく歩いた。早くあの部屋から離れたかった。
ところがラナンのことを急に思い出した。荷電粒子を浴びて卒倒してまった小型AIをすっかり忘れてしまっていた。それほどイアインの心が受けた衝撃は大きかった。
とって返そうと思うと、武装した警備員が五人ばかり走ってきた。後ろにはAIも二体従っている。
さらにその後ろからはカートに乗った首相も大急ぎで近づいてきた。
警備員たちは彼女を素通りしたが、首相が目の前で止まった。カートから素早く降りると「何があった?」と問いかけてくる。
「何だかわかりません。ラナンが母に撃たれました。そして……」
動揺して言葉が出てこなかった。さきほど起こったことを伝えようとしても何をどう話せばいいのか。
「ヨアヒムの通報では、君の母親がAI一体を破壊したということだ。それ以上の事実はないようだが」
「それは間違いありません。ラナンを治してください」
「わかった。なんとかする。しかし君にも事情を聞く必要があるようだな」
首相は脳内で応援を呼んだらしい。すぐに二人の看護師がカートで到着した。イアインはその二人に導かれて居住区画の部屋に向かった。そこでしばらく休んでから事情聴取が行われる予定だったが、イアインは疲労を理由にして固辞し、帰りのシャトルを用意してもらった。一人で乗るシャトルは寂しく、イアインはずっと目を閉じていた。




