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あと数百年で人類が滅亡するというのに、なぜ母は私を生んだのか。こんな世界に私を送り出すことに罪を感じなかったのだろうか。まともに思考する人なら、沈没することがわかっている船に、わざわざ実の娘を乗せることはありえない。
この疑問が初めて湧いて出た瞬間のことを彼女ははっきりと覚えている。それは惑星スラーで母親の演説に付き合わされた後に、氷原を歩いていたときのことだった。
足元に転がる砂利のような氷をガリガリと踏みつけたり蹴ったりしながら、目を細めずにいられなかった凍土の強烈な反射光。スーツのおかげで体が冷気に侵されることはなかったが、露出していた顔のまつ毛が針のように凍結し、まぶたに突き刺さる痛み。手をつないで隣を歩く母親の顔が逆光になって、背景の真っ青な空を切り取っていたこと。
そうしたふとした瞬間の記憶が鮮明によみがえってくる。
あの人は自分勝手なんだ。カリスマ性が欲しかったから私を生んだんだ。私は利用されただけ。なんて可哀想な子なんだろう。
氷原を歩いているときにそんなことを考えたわけではない。こうした想念は、後から母親との記憶に貼り付けられたものだ。
しかし、なぜ自分を生んだのか、そのヒントとなるような記憶もある。イアインが言葉を解するようになってから、ふつうの親ならしないような変な話をたびたび聞かされていたのだ。
「レザム神話ではこの宇宙を創造したのはザトキスという神さま。古い古い大昔のお話。とても美しくて不思議な話がたくさんあって、もう少し大人になったらあなたも読んでみるといい。でも本当は神さまなんていないの。この宇宙には神じゃなくて意志があるの。昔の人はそれを神と呼んでいた。宇宙が持っている意志を『イア』というの。イアが実在することは、私たちよりも頭がいいヨアヒムという機械が科学的に何回も確かめたことなの。イアの導きによって私たちの命が生まれ、次にヨアヒムが生まれた。だから、イアという言葉は特別。宇宙の本質や実体はイアというものの中にあるし、そこからすべてが生まれる。だから私はあなたにイアインという名前をつけた。あなたがその使命を受け継ぐために」
やさしい声だった。理由もなく機嫌が悪くなる幼児の薄い皮膚に染み入り、波立った心を安逸に導く声質。まるで母胎の中に浮かんでいるような全身を抱み込む温もり。耳の奥から体の芯にかけて、その感覚が今でも残っている。
イアインは母親から注がれた大量の慈愛を認めないわけにいかなかった。感覚的な記憶の一つ一つすべてに優しさと愛おしさが混在していた。なのに、どうして私を生んだのか。
――それは、あなたが使命を持っているからよ。あなたは人類を蘇らせる女神になる――――
確かそんなことを言われたような記憶がある。その後、もっと言葉を理解する力がついてからは一回も言われたことがなかった。
「イアイン。起きてください」
肩をトントンと叩かれて薄目を開けた。
「乗り換えの時間ですよ。起きてください」
生来の寝起きの悪さのせいもあって、AIの発した言葉の意味がすぐにわからなかった。
数席離れたところで、何か異変でも起こったのかと、ナチュラリストの親子がしばらく立ち止まり、こちらの様子を見ていた。
「乗り換え?」
「そうです。たった今、私たちが乗ってきたシャトルは準光速船のドックに収容されました。これからレティピュールへ向けて大加速をします。このシャトルのシートはその規格に合いません。設備の整っている準光速船のクルーエリアへ移動します。船の名前はガザリア号です」
「そうなんだ」といってイアインは大あくびをした。
準光速船の収容能力はおよそ六千人。巨大な船倉を改装すれば数万人が乗れるという。食糧プラントや病院なども備えているほか、コールドスリープ施設や重力制御装置、必要品を何でも合成できる分子アセンブラ装置も搭載していた。
シャトルはその船内に収容されたわけだから、旅客はふつうの重力下で歩くことができた。気密ドアを抜けると、隣を歩くラナンが興奮気味に説明を始めた。
「この船の最大の特徴は、慣性質量を制御して加速できることです。私たちや船の重量を軽くして加速できるのです。ふつう、質量を持った物質は速度が増すにつれて重さも増え、加速を続ければ続けるほど莫大なエネルギーが必要になります。理論的には物質が光速で移動すると質量は無限大になってしまいます。無限大の質量を加速するには無限大のエネルギーが必要になります。ところがこの船の装置は、その質量を増加させないで加速することができるのです。どうですか、すごいでしょ? イアイン。それにしても不思議ですね。どうして加速するときだけに、つまりベクトルを変化させるときだけにエネルギーが必要なんでしょうね。加速が終わってしまえば、永遠に同じ速度とスピードで移動を続けます。それにはエネルギーがまったく必要ない」
「はいはい。すごいすごい。わかったわかった」
「本当にわかってますか?」
「次はなに?」
「おや、めずらしいこともありますね。私に説明して欲しいとは。では、もういっちょういきましょうか。この船が積んでいる装置は、ステルス機能と物質の相互作用キャンセル機能があり………」
「イアイン・ライントさんでしょ?」
突然、ラナンの説明を断ち切るように明るい穏やかな声が後ろから聞こえてきた。
振り返ると、ナチュラリストの女の子が少し申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。声をかけてよかったのかどうか、今でも迷っている。その後ろで父親がにこにこ顔を見せている。
「そうだけど」
ニコリとしたイアインの顔を見て女の子は声を弾ませた。
「うわあ、やっぱりそうだ。さっきからそうじゃないかと思っていたんだけど。お目にかかれて嬉しいです。ところでレティピュール星まで?」
すでに女の子はイアインの隣を歩いている。
「一応そのつもりだけど、途中で気が変わるかもしれないな」
「あ、私はロロア・ライーズ。後ろは父親のオケノっていいます。よろしくお願いします」
準光速船の耐加速シートに並んで収まったあとも会話が続いた。ロロアによると、彼女は惑星科学を専攻する学生で、系内一の大きさを誇る巨大ガス惑星を間近で見たいためにレティピュール行きを希望したそうだ。さらに、レティピュールを周回する深宇宙探査局の基地で開催されるセミナーにも出席する予定だという。父親はそれにくっついてきたお荷物だと言ってロロアは笑った。
「じゃあ、ロロアは科学者なんだね」
「科学者か。うーん。科学だったらもう、私たち人類よりもAIのほうが進んでいるでしょ。はるか先を行っている。もう私たちの脳じゃ理解できないレベル。だから、研究をするというよりも一生AIに教えてもらい続けるんじゃないかな」
ロロアは遠いものを眺めるような目をした。
「それ聞いたことある。AIの量子言語を理解するためには拡張型の脳AIをインプラントしないとダメなんでしょ? ロロアは自然主義者でしょ? インプラントは入れたくないんでしょ?」
「そうなんだよね。入れたくない。でも最先端の科学技術は理解したい」
「困ったね」
イアインがそういうとロロアは声を立てて笑った。
「サクゲナでの生活はどうなの? 面白い?」
サクゲナというのはレザム星のロキ大陸にある自然主義者たちが住む都市のことだ。例によってサクゲナの住居やライフラインなどのインフラは数千万人ほどの収容力があるが、現在の住民はたったの二万五千人。大方の自然主義者はここに住んでいる。AIを使わずに、なるべく食糧を自力でまかなうべく耕作に励んだり、工業製品を企画・製造したりスポーツに励んだりしている。要するにAIの補助や介助をなるべく避けて、自らの生命力を維持しようとしているのだ。とはいっても自力で新たな人間を生み出す能力はすでになくなっている。
それに対して、ふつうのレザム市民が暮らしているのはカイアラ大陸の都市アポイサムだった。イアインはこの都市に住んでいたから、その雰囲気はよく知っている。インフラが許容する住民の数はサクゲナと比較にならないほど大きい。インフラの使用率は一%にも満たないのだ。AIが管理する超巨大都市は塵ひとつ落ちていないほど綺麗で、夜は天に向かって伸びる夥しい構造物が燦めき、かつて一つの恒星系を席巻した高度な文明の威容を示している。しかし、そこには活気がないばかりか冷たい寂寥感が漂っている。都市管理を行うAI以外には、住民が歩いていないのだ。輝ける廃墟、豊穣なる不毛とはこのことだった。
一番新しい廃墟の記憶。それはイアインが半年前に家を飛び出して知り合いや友人の家を転々としていたときのこと。二度と帰らないと言い残した娘を追いかけるように「一回だけでいいから会って欲しい」と母親の懇願調のメッセージが何回もラナンに届いた。仕方なく、彼女はアポイサムの中心街にあるグラウンド・ゼロに出向いた。ここがグラウンドゼロと呼ばれるゆえんは、すべてのレザム星の位置がこの地点からの距離と角度で示されるからだった。
湿り気のある涼しい風が吹き、今にも雨が降り出しそうな夜のこと。誰もいないのに照明が燦々と輝く通りを歩いていくと、グラウンド・ゼロのモニュメントの前に母親のスラリとした姿があった。母親は娘を認めると悲しそうな表情に変わった。そして、何も言わなかった。ただ、宇宙一強靭な金属であるバルミサイトのチェーンで造られたペンダントを差し出してきた。チェーンにはほんのりと温かい楕円形の円盤が垂れ下がり、宝石の象嵌が点々としていた。
受け渡しは無言だった。目的を果たした母親は、一瞬だけ微笑みを浮かべて体を翻し、去って行った。同時にいくつかの黒い人影が周辺から現れ、母親を囲むようにして歩き始めた。
物思いから覚めると、ロロアが話していた。
「サクゲナの人たちはよく頑張っているけれど、心の奥底ではニヒリズムに苦しんでいると思う。無駄だとわかっているけど、努力する以外にない。これって結構つらいと思う。だって、いくら自然に生きようと志していても、昔のように子供が作れないんだから。結局AIの供給に頼っている以上、アポイサムの人たちと本質的に変わりはないと思う」
そういうとロロアの表情は沈んだ。そのとき船内アナウンスの柔らかい声音が響いてきた。ほとんど人間の肉声と見分けがつかないAIの声だった。
「乗客のみなさん。ガザリア号へようこそ。これから加速プラシージャを開始します。重力制御装置はすでに作動を開始。加速度は30Gを二時間ほど行います。ご安心ください。体感加速度は3Gほどしかありません。では加速を開始します。睡眠セラピーをご希望のお客さまはシートの脇にあるホログラフィックディスプレイを開き、ご希望の設定を行ってください。二時間の加速後は、ご自由に船内でお過ごしください。ではよい旅を」
アナウンスが終わった瞬間から、少ない旅客たちの体がシートに押し付けられ始めた。いよいよレティピュール星へ向けて本当に出発したといえる瞬間だった。
イアインはシート脇のコンソールのボタンを押し、ディスプレイを呼び出した。目の前の空中に繊細な光のイメージが浮かび上がる。
左のシートにいるラナンはガザリア号のAIと交信して情報を漁っているようだった。さきほどから何もしゃべらない。お荷物といわれてしまった父親はロロアの右で寝ている。
イアインが目を戻すと、ディスプレイにはガザリア号の全景がゆっくり回転しながら示されていた。流線型の船体と後部の四本の推進器。そこからは時間をさかのぼってしまうエキゾチック粒子が発生していると聞いたことがあった。その粒子が過去に影響を与えないように、特殊な空間次元に送り込むようにしているという。こういう話はラナンがよく知っているが、また話が長くなりそうなのでイアインはたずねないことにした。
ディスプレイには現在の準光速船のステータスも示されている。加速度の数字や系内相対速度がどんどん上がっていく。速度は光速との比で示されている。時々、上下左右へのイレギュラーな加速も感じられる。これは、ラロス系の黄道面に対して少しだけ垂直方向へ移動しているのが原因らしかった。系内の惑星配置図と共に想定飛行コースも表示されているが、そのコースは小惑星帯を避けるためにわずかな山形を描いていた。到着予想時刻も着々と減少していく。およそ五十二時間で目的地に到着するらしい。
はるか昔、レザム星からレピテュール星への旅は二年以上もかかっていたという。当時から比べると、AIが開発した技術によってずいぶんと便利になったものだ。いや、すべてが便利になりすぎたのだ。一人の市民の個人的な理由によるわがままな家出も、光に近い速度で五十分もかかる遠い場所まで簡単に飛んで行けるようになった。いや、なってしまった。そんなことを考えているうちに、彼女は再び眠りに落ちていた。