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荷物はほとんどない。小さなバッグが一つだけ。しかも小柄なくせに異様に力持ちのラナンに預けてある。
お金もないし金がないことを心配する必要もない、手ぶらで気楽な家出だった。家出といっても半年前に一人暮らしを許されていたから、少し違うかもしれない。ただ、イアインの新居は実家の二フロア下なので、母親の存在感から逃れられていなかったのも事実だった。
キャッシュについてはふつうの食事にありつけたり、タダ同然の衣類や日用品を購入する程度はラナンの中に量子暗号として保存されていた。それに、定期的に中央のAIが、誰も使いもしないベーシックインカムを充填してくれるはずだった。この恩恵はすべてのレザム人が受けている。
こんなに恵まれているのにレザム人たちはなぜ引きこもっているのだろう。文明のリソースがこれだけ有り余っているのに、誰も使おうとしない。ラロス系には観光スポットが腐るほどある。イアインにはそれが不思議だったが、物心ついてから吸収した情報でおよそのことは知っていた。ほとんどの人は理想の世界に住んでいるのだ。AIが提供してくれる仮想現実の中に。筋肉を動かし、心肺機能を亢進させ、現実的な行動をする理由は何もない。寝ているだけでAIが現実からもたらされるのと何ら変わりがない信号を神経に流してくれる。そして仮想現実にクライマックスが訪れると、実際に脳の快楽中枢までが刺激される。こうしてなにもかもが衰えていく。
イアインは、待合室でシャトルが推奨するスーツに着替えた。待合室には誰もいないと思ったが、同い年に見える女の子とその親らしき男性がソファでくつろいでいた。同伴のAIがついていないので、おそらくナチュラリストだろう。
「あの二人は親子?」
一瞬でデータベースを照会し終えたラナンが答える。
「そのようです。レザム星のロキ大陸にある都市、サクゲナから来ているようです。つまり自然主義者。年齢は十七歳と六十五歳。Level4の私にはそこまでしか介入できません。氏名と当所の存在理由については不明です。ヨアヒムに情報請求しますか? もっとも、理由がないですから却下されるでしょうけど」
「うん、いい。ありがとう」
現在のレザム人は人工授精と人工出産で生をうけ、大人になるまで保護者に預けられる。三十歳以上になれば、一応子供を受け入れるのがレザム人の義務とされているが、苦労を伴う子育てに興味を持つ人の数は少ない。それが人口減少に拍車をかけているし、気がつけば五十数万人しかレザム人がいなくなってしまった一因だ。
しかし、二万五千人ほどいる自然主義者たちは積極的に保護者になろうとする。それが何千年にもわたってこの惑星で続いてきたことだからだ。そして、自然主義者に育てられた者は自然主義者になりやすい。それゆえ、最近の人口増加の内訳は自然主義者の割合が多くなっている。
十七歳の少女と六十五歳の男には、はるか昔のように家族の基本的条件だった血縁関係というものはないはずだ。男のもとに偶然やってきた女の子。物心つく前に預けられた女の子からすれば、やはり父親という認識は形成されているのだろうか。もうすでにこの文明では親子などという古臭い概念は消えかかっているというのに。
イアインはこの親子がお互いをどう思っているのか興味を感じた。というのも、自然出産で生まれた彼女には、多くのケースと違って偶然ではない厳然とした親子関係が存在するからだ。実の母、実の父と同じような感覚をこの同い年の女の子も持っているのだろうか。
そのとき、ロビーにアナウンスが響いた。発着ポートを管理するAIの声だ。
「レザム標準時十一時発、レティピュール行きシャトルをご利用の方は、十一番ゲート前にお越しください」
数百メートルは奥行がある発着ロビーの巨大な掲示板には、出発便が一つだけ表示されている。到着便は三つある。おそらく系内の惑星から帰還する人たちだろう。物珍しさでレザム星以外の場所へ移住した人も、研究生活を続けていた人も、年齢を重ねるとやはり故郷に帰りたくなるものだ。系内の各惑星からは、ポツリポツリとシャトルが到着しているようだ。
アナウンスを聞いた自然主義者の親子もソファーを立った。レティピュールへの便は、氷結している惑星スラー経由のコースをとるはずだった。惑星スラーの宙域で大型の恒星間宇宙船に収容される。この準光速船は全長が二千五百メートルあり、レティピュールまでおよそ五十時間ほどで到達可能だった。スラーにある宇宙港に立ち寄る旨が表示されていないということは、くだんの親子もレティピュールへ直行することを意味している。
ゲートに立っているのは大きい人型AIが三体。外見からは伺いしれないが、体内にはあらゆる武器を呑み込んでいる。だが、そんな武器はここ数百年使われたためしがない。たった五十万人まで人口が減少した現在、昔のような国家や民族やイデオロギーの対立などあるはずがなかった。暴力を振るおうと意図する者はほとんどいない。そんな気力も体力もない。
イデオロギー。幼児も若者も中高年もまるで老人のようにやさしく介助してもらえ、物質的にも精神的にも豊かな生活が保障されていれば、そんな理想と現実の乖離を発生源とする心の動揺を抱く必要はまったくないのだ。ただわずかな自然主義者たちを除いて。
三人は網膜や手の甲の静脈パターンや遺伝子をスキャンされ、いずれもゲートの通過を許可された。自然主義者以外のレザム人――約四十八万人の人たち――の中には、脳に小型化したAIを仕込み、外部にロボット型のAI――ラナンのような――を連れて回る面倒を回避している人たちもいる。イアインは脳をいじるのが嫌だったし、脳AIと会話してニヤニヤしている連中が、子供のころから気持ち悪かったので、ラナンを連れまわすことにしている。
しかし、こうしたゲートを通過するとき、あらかじめ認識番号や量子暗号をやり取りして中央に許可を取ってくれる脳AIは便利だった。旅行先でも交通手段が先回りして待っていてくれる。空腹を感じる前に血糖値を測定した脳AIが、命令されなくても好みのスイーツや食事を取り寄せてくれる。内部で起こる感覚や欲求に合致するように身の回りのモノや世界が変化する。やがて人は意志することも忘れてゆく。