1 ラロス暦7902年 /レザム星軌道ステーション
「窓を開けてちょうだい。ラナン」
ベッドに横たわりながらイアイン・ライントは薄目を開けて小さなパートナーを呼んだが、しばらくしても返事がない。
「ラナン、どこにいるの? 窓を開けたら飲み物を持ってきて」
ぶっきらぼうな言い方が気に入らないのだろうか。しかし、イアインが勝手にラナンと名付けたAIが人類に反感を持つわけがない。もしそんな感情や思考が検出されたら、即座にラナンは回収されるはずだ。しかもラナンはレベル4のAIなので、記憶以外の思考ルーチンを書き換えることは禁じられている。さらに、考えていることはすべてAI憲法と比較され、違反していたらそこから先の処理を続けることができない。したがって、彼女に反感を覚えることは原理的にありえない。
ベッドから半身を起こした女は、少し頭痛のする頭を二~三回左右に振って、ミディアムブラウン色の長い髪を両手ですいた。睡眠という意識不明状態から現実世界に帰還した直後、しばらく夢うつつに揺れる頭の中をさぐりつつ、自分の髪の毛をいじくるのがイアインのクセだった。昨日はどうしたんだっけ? そういえば、レティピュール系へのツアーに申し込んだんだっけ……。
その答えはおそらくラナンが受け取っているはずだった。
レティピュール星は直径十四万キロの巨大なガス惑星のことで、レザムからは約三十五~五十一光分離れている。距離が不安定なのはレザムもレティピュールも恒星ラロスを公転しているからである。
ラナンがひょっこりと顔を出しそうな場所にイアインが視線を走らせた。部屋は一人で泊まるには広すぎる。大きな楕円形のテーブルの上には飲みかけのボトルがポツンと置いてあるだけで、八脚あるイスは、一つを除いて整然と並んでいる。壁は塗布されたナノマシンが磁力によって回転することで透明度が変わる。窓からは生まれ故郷の惑星レザムが見えるはずだ。
彼女がレティピュールへの旅行を思い立ったのはわずか十時間ほど前。実際のところ、どこか遠くだったらどこでもよかった。それにお金も必要なかった。
ラロス系には九つの惑星があり、七つには大規模ステーションが複数存在している。かつてはラロス系全体に百億人が居住していた。しかし繁栄は約千年前に終わった。現在ではレザム星に五十万人程度、ラロス系全体に散らばる知的生物は五十一万人ほどしかいない。
ラロス系を包み込むように展開する莫大なインフラは、ほとんど無人のままAIが管理していた。必要のなくなったインフラは処分すればいいはずだが、AIが管理するので誰の負担にもならない。系内で利用できるエネルギーもあり余っていた。
だいたい、労働から食料の生産、エネルギーの調達、ロジスティックや通信の管理、医療や介護といった仕事はすべてAIがやっていたから、ラロス系には費用という概念がすでにない。イアインが思い付いた旅行も無料だった。それどころか、膨大な無稼働のリソースを管理する下位のAIは、役立つときがきて大喜びのはずだ。稼働するのは数万隻もある系内シャトルのごく一部にすぎなかったが。
そのとき、ベッドの右側の壁がゆっくりと透明度を変化させ始めた。すると、恒星ラロスの光が反射する青い海原や、所々に群れる雲が見えた。その奥からグレーやら深緑色の混じった大陸がゆっくりとこちらに近づいてくる。目覚めに眺める惑星レザムはあまりにも雄大で、あまりにリアルで、磁力で揺さぶられているかのような圧力を感じた。惑星レザムは直径二千キロほどの衛星ドゥーテを擁しているが、今は反対側に回っているので見えない。岩石のかたまりで、クレーターだらけのあばた顔で、衛星としては大きいドゥーテが視界にあれば、レザム星とのラグランジュ点に浮かぶ巨大な宇宙港もきらめいていたことだろう。しばらくの間、この見慣れた光景ともおさらばだ。
イアインはベッドから抜け出して裸足のまま窓に近づいた。白いバスローブがはだけると細い脚が隙間から覗く。バスローブを脱げばほぼ全裸だったが、このステーションで彼女の裸体に興味を持つ者はいない。いや、眼前に広がるレザム星にもほとんどいないだろう。それが男性だったとしても。
「おはようございます。一ついっておくべきことがあると思います。私はラナンではありません。そんな人間的なこじゃれた固有名は持ちません。私を特定できる記号はLevel4AI-認識番号8700-302-11-固体番号BH0037……」
「そう? ラナン」
「ですから私は……」
「ラナンでしょ?」
「いや、違います」
「そうかなぁ。ラナンだと思ったけどなぁ」
「………」
「思い出したでしょ? ラナン」
しばらくの沈黙があった。やがてラナンが「ふぅ」と小さな息を吐いた。
「わかりました。おっしゃるとおり私はラナンです」
「よろしい」
イアインはにんまりした。そのまま顔を下に向けると腰のあたりに動きがあった。百二十センチほどの人型AIロボットがいつの間にか左側に立っていた。その姿はイアインをそっくりそのまま小型化したようで、同じ系統の遺伝子を持つ姉妹にしか見えない。違いがあるとすればミディアムブラウン色の髪が短髪であることと、耐久性にすぐれた炭素素材で作られたチョッキと短パンをはいていること。それから喋り方や性格は外見とは違って妙に男の子っぽい。
「あいかわらずちょこまかしているわね。今までどこに行っていたの? それにレティピュールへの旅行の許可は下りた?」
ラナンは顔を上げてイアインをみつめる。生体素材で造形された顔の表情が繊細に動き、生命を宿しているとしか思えない。
「知っていますか、イアイン。この重力発生型球形ステーションに滞在する人は現在二十名しかいません。それに対して収容人員は二万人。毎日掃除したりメンテナンスしているAIはおよそ一万体。さらに驚いたことに、レザム星軌道には合計二十三基ものステーションが周回しています。いいですかイアイン。レザム星以外の惑星にはそれぞれ十~二十のステーションがあります。さらに各惑星の衛星には永久に生命維持が可能なレジャー施設や研究基地が合計三百ヶ所。現在、ラロス系の宇宙空間には収容人数が数億人ほどの人工施設があり、その稼働率は非常に……」
ラナンはレザム人が憂鬱になるような現実を淡々と感情の抑制された声で話し続ける。
「わかった、わかったから。もういいよ」
そういってラナンの頭に手を置いたイアインの顔色には憂いが混じっている。知っている情報をすべて提供して奉仕しようとする意図があるため、AIの説明は長くなりがちだった。
「ではレティピュールに関してですが、ヨアヒムの許可が出ています。ただ、ヨアヒムは母親の許可を取ることも勧めています」
「私はもう十七歳よ。保護者の許可は必要ないはず。すぐに用意を進めてくれる?」
「それはもちろん進めますが……」
ラナンが何か長々と喋っている。しかし彼女の耳には入ってこなかった。
今から十八年前、イアインは母親のアーイア・ライントから生まれた。
生まれた。母親から生まれた……。そんな当たり前のことが当たり前ではなかった。かつては女性が子供を生むという現象は普遍的で、特別に珍しくはなかった。だが、現在ではAIの助けがなかったら誰も生まれてくることはできない。ところが、アーイアという女性は、自分の子宮内に受精卵を着床させ、約十カ月後に産道を経由して彼女を出産したのである。男女の生殖細胞を培養して人工授精を行い、受精卵を人工子宮で育てることでしか人類を産み出すことができないこの世界で。
もっとも、使用された男性の生殖細胞は人工培養されたものだが、見事に胎児へと成長した卵子は母親の卵巣で分化したものだった。
イアイン・ライントは自然分娩で生まれた最後の子として、ラロス系で知らぬ者はいないほどの有名人だった。
自然妊娠と自然分娩の数が急減していき、AIの介入による出生が増加していく中、ライント家の女性はふつうに子供を出産してきた。しかし、イアイン一人を生んだ後、アーイアはその能力を失っていた。
そんな事実は、彼女も自然分娩ができる可能性を示している。実は、その可能性に興味を持つ集団がいた。それは、本来持っている自然な生殖力と生活を取り戻し、自力で種を存続するだけの生命力を取り戻そうとあがくナチュラリストたちだった。
別に、AIが介入すればレザム人を増やすことができるから、イアインに興味を持つ必要はないと思えるかもしれない。だが、AIによる人工授精も次第に成功率が下がってきていた。
超知能を持つ中央のAI、一部の人たちは神と崇めるヨアヒムがその原因を調べているが、よくわかっていない。人工培養された精子と卵子は一応受精するのだが、その後の分化が途中で止まってしまうのだ。シミュレーション上でゲノム編集をしたり遺伝子治療をさんざん試みたが、正常な生殖能力を持つ人間は生まれてくることがなかった。この事実は自然主義者の中に多い反ヨアヒム派によく利用された。すなわち、超AIといえども神の領域にまで達していないと。
そもそも、人類が生殖力を失い始めたのは、クローン技術で生まれた人間が人口の十%に達したときだと主張する科学者もいた。あわてて人のクローンを禁止しても、人口減少は止まらなかった。
ちなみに、分子アセンブラで生殖細胞を人工的に完全再現し、受精させても同じ結果が出来する。こうした事情のため、レザム人の絶滅は秒読み段階に入っていた。また、これらの事実は自然分娩に成功してきたライント家の女が聖母として祭り上げられる原因となった。それを利用して、最近のアーイアは「すでに時は来ている」とレザム人やラロス文明の終焉を予言し始めている。
イアインはふと我に帰った。まだラナンは見上げながら喋り続けている。その様子がやけに可愛くなりラナンを抱き上げた。小さい割には重い。心臓部には暗黒物質と反応して発熱する元素、リュクレリウムが埋め込まれている。リュクレリウムが発する熱がラナンのエネルギー源だった。
リュクレリウムは恒星ラロスに一番近い灼熱の惑星リュクレムで、恒星の発する核融合エネルギーをふんだんに利用して作られた、陽子が百八十六個もある重い元素。百グラムのリュクレリウムは最大摂氏三百℃の熱を発し続け、約千年で消失する。つまり、ラナンはこれから千年も活動し続けることになる。
イアインにだっこをされるような形になり、「何をするんですか」とラナンは慌てた。手足を子供のようにばたつかせる。
「いい? 母親には何も連絡しない。私たちが滅ぶことが運命で、それを受け入れなければならないなんて演説する人と話したくもない。帰るつもりもない。わかった?」
イアインは小型AIの目を見つめた。感情がないはずなのに、大きくて潤んだ御主人さまの瞳を前にして、ラナンは若干気おくれしているような表情を浮かべた。
「わ、わかりました。おろしてください」
次はどんな名前にされるかわからない。こういうときのご主人さまは名前の変更を提案してくる。前はメリル、その前はクアロ、その前はミモイ。三文字の変な名前ばかりつけられそうになった。
「だめ。あなた、少し喋りすぎよ。それを直してちょうだい」
「思考ルーチンが常に参照する記憶モジュールの上位に追加しておきます」
「よろしい。では、レティピュールへのスケジュールを教えてくれる?」
「すでにシャトルが待機しています。いつでもOKだそうです」
「どうしてそれを早く言わないの? これからは喋る前に話の内容をいくつかのタイトルで示してくれる? 番号付きで。私が言った番号だけを喋ってちょうだい」
「いえ、それはできません。情報のプライオリティを決定するのはすべての情報を参照した後でないとできないはずです。さらに情報の内容にそぐわないタイトルをつけてしまった場合、重大な情報を見逃してしまう可能性が……」
イアインはだっこしたままのラナンをくすぐり始めた。脇腹をつかみながら指を立ててグリグリと揉む。すると、ラナンは顔を歪ませながら「やめてください」といって暴れ出した。