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「首相の返事は、その件は考慮している。バックアップAIを極秘で用意している、ということでした」
「本当なの?」とイアインは立ち上がった。もしバックアップがあるとすれば、アセンションを回避できるはずだ。母親はバックアップはないといっていたのに。
「ちょっと、二人で何の話をしているの」
小型AIの隣に立っているフロリナが、理解できない会話をする二人を交互に見ている。ロロアも同様だった。
もし一部のアセンションが起こらず、テルス状態のレザムが白色矮星をやりすごせば、また元のままの現実が続く。しかし、それは良いことだろうか。本当にそれでいいのだろうか。イアインにはわからなかった。未来は確定していると思っていたのに、首相の返事で一気に不確定になった。何が起こるか見ないわけにはいかない。
「フロリナ。何の話をしているかは中継を見ていればわかると思う。私はここで見る」とイアインが言った。
「では私は、お茶の用意をしますね」
そう言ってラナンはキッチンに向かった。
残されたフロリナとロロアはコの字型のソファに座った。すると、ルディがブレスレットに何かをごちょごちょと言葉をかけた。壁面の透過度が変化してホログラム投射機特有の奥行があるスクリーンが現れた。
「こんなのがあったの?」と部屋の主があっけにとられている。それにかまわず、少女がまた何かをブレスレットに指示すると、映像が映った。
衛星ドゥーテと同じ軌道を巡る情報衛星からの眺めだ。青い海原と白い雲、そして茶色い大陸が半球に刻印された惑星レザムの見慣れた姿だった。その周囲には微細な光点が輪のように取り巻いている。夥しい衛星やシャトルや戦艦や準光速船だ。画面の左には、無数のクレータやドーム型の人工施設が見えるドゥーテの姿もあった。今のところ異常はない。
ルディがまた何かを言うと、画面が二分割されて右側にアポイサムの街が映った。例のモニュメント広場だった。イアインは心が何かに締め付けられるような感じがした。もしかすると、覚悟していたことは起こらないかもしれない。だが、起こらないことに自分が期待しているとは思えなかった。
想像通り、モニュメント広場には群集が犇めいていたが、この前の演説との違いは、人々がほとんど半裸だったことだ。何しろ現在のレザム星を温める恒星は二つもある。高温が空気を揺らめかせて映像も時々微細に波打つ。
このくそ暑いのに黒い服装をしているダニメア・ルースの演説だか朗読だかが終わると、演台には再び白いワンピース姿の女神が登場した。いよいよ最後の演説が始まった。意外に粛々とした声音だった。場を盛り上げようとか煽ろうとかする意図は見られない。
「時が来ました。古い人は何十年も前から待っていました。おそらく私は生まれたときから待っていたのです。
この神聖なとき、すべての根源であるイアの海に戻り、静謐で豊潤で、時間もなく、善も悪もなく、あなたと私の区別もなく、ただ愛にだけ満ちた光の世界へ私たちは旅立ちます」
女教組がアップになると、その表情にはどことなく悲しげなものが混じっているのがイアインにはわかった。あの人は心の中にあるものを隠すのがうまくない。何かに耐えながら、自分に与えられたと信じる使命を果たそうとしている。その姿を見て、イアインの涙腺がまた緩んだが、必死にこらえた。
ロロアやフロリナ、そしてルディが映像に見入っている。この人たちが何を見てもしかたがないと思った。ただ、ショックを受けないでほしいと願った。