---------- 10 -----------
やがて、アケドラ号は惑星スナルがお皿ほどの大きさに見える空域に達して加速を終えた。シートから離れたミスカとクラカマが大声で「ワロン」と叫ぶ。しかし返事はない。
ブリッジ後部で意識不明の状態で倒れるワロンの頭からは、大量の出血があった。壁にはべっとりと血がこびりつき、鉄球でも打ち付けたかのような凹みができていた。
ミスカとクラカマが近寄って体を揺すると、小さなうめき声を出してワロンの手が動いた。
そこへ駆けつけたライルは「すまなかった」と三人に声をかけた。
ワロンの頭を押さえながらミスカがライルを睨んだ。
「局長。緊急脱出を命令する必要はなかったのでは?」と詰問する。
「それはまだわからないが……、申し訳なかった。医療セクションへ運んでくれないか」
「わかりました」
無言だったクラカマも手を貸したこともあって、ワロンの上半身が起きた。腕が変な方向へ曲がり、力なくブラブラと揺れている。
自分のシートへ戻ったライルは、AIに介助型ロボットを寄こしてくれといった。すると、後ろの壁面からロボットが二体出現し、ワロンの体を包み込むように抱き上げ、ミスカとクラカマを引きつれてブリッジを出て行った。
シートで溜息をついたライルは、緊急脱出は間違っていたのだろうかと自問した。現に、アケドラ号は無事に飛行を続けている。しかし、ドローンの件は何なのだ。次にアケドラ号が爆発していたかもしれない。スナル星の輪に包まれたことも危険だった。だが、そんな反省はAIの告知で吹っ飛んだ。そして、緊急脱出は正しかったと知った。
「ライル評議員。本船のエンジンが停止しました。原因不明です。現在慣性航行中です。さらに、本船の外部を観測するすべてのセンサーが故障しました」
「意味がわからん。どうしたんだ。何が起こっている」
「私にもわかりません。故障個所を表示します」
中央のディスプレイに船体の透過図が現れ、全体が赤いアラートで包まれている。
「気圧の低下区画が複数あります。船体に穴が空いたようです。原因不明……。エンジンの離脱信号を受信……。第一エンジンと第二エンジンが本船から脱落しました……」
ライルは言葉を失った。エンジンという巨大な構造物が本船から脱落しただと? ライルは直感した。自分たちはすでに宇宙船の残骸に乗っている。
「後部クルー居住エリアで気圧が保てません……。メンテナンスロボットを向かわせました……。船体中央の船倉で気圧低下……。後部第二ブリッジと通信不能……。データトラフィックの五十五%が不通……。分子アセンブラ工場および食糧プラントを管理するAIの応答なし……。コールドスリープエリアも同様……。偵察ロボからの映像が入りました。映します」
次々とこの船が崩壊していく情報を読み上げながらAIがディスプレイを切り替えた。その画像すべてが黒いガスで曇っていた。黒雲は小虫の群集のようにうごめいて船の壁にとりつき食べている。意志を持つ生物群にしか見えない。室内にある設備やロボットもその餌食になり、氷が溶けていくようにどんどん小さくなって消えていく。侵食スピードは凄まじく、特殊合金製の船殻にたちまち穴が空いて、そこからスナル星が顔を出したりする。
ライルは再び言葉を失った。これはリプリケータだ。物質であればすべてを粉々にくだいて食べつくすナノマシン。食べた物質を材料にして自分たちを複製し、たちまち増殖していく。数年前、リプリケータの開発をヨアヒムが提案し、評議委員会が却下したことをライルは思い出した。あまりに危険すぎるのだ。
「これは……。まさか、惑星スナルの輪がこれだったのか?」
「そのようです。あるいはその一部。塵の中にあれば見分けることができません。すでに本船の三十%が侵食されています。どうしましょうか」
そう問われたライルは何も思いつかなかった。しかし、このままだとすべてが――自分の体でさえリプリケータの餌食になってしまう。
「惑星科学課の三人をここに呼んでくれ。彼らが来しだい脱出する。脱出船には被害が及んでいるのか?」
「三人の方と連絡が取れません。脳AIとも音信不通です。通信インフラが侵食されたと思われます。脱出船はまだ大丈夫ですが、あと数分しかもちません。おそらくリプリケータが一個でも脱出船に取りついたら終わりです」
ライルは決断を迫られた。彼ら惑星科学課の連中を見捨てて脱出するしかないのだろうか。医療センターはこの船の中央にある。すでに侵食されている可能性が高い。それにこの事態の生き証人は必要だ。
「わかった。脱出だ。アケドラ号。お前のAIユニットも乗っているのか?」
「いいえ、この脱出船用のAIと私は違います。しかし、記録データの移送と共に並列化を行います」
「終わったら脱出してくれ」
「〇・七八秒で終了。脱出開始します」
轟音が響いてブリッジが揺れた。金属が引きちぎれるような悲鳴と振動が起こった。
次はブリッジが逆さまになった。シートに押さえられていたためにライルは無事だったが、重力が逆転したことを見ると、脱出船は回転しながら飛び出したようだ。そしてゆるやかな加速が続き、重力が無くなった。同時にAIがラロス系の中心へ向かっていることを告げた。遭難信号も出しているが、それが伝わるのにも大変な時間がかかる。脱出船の壁の一部が透明になると、ボール大の惑星スナルが見えた。まだこんなに近い。あまりに脱出船が遅いので、ライルはリプリケータから逃げれられるのかと訝った。
その懸念は現実になった。気圧の低下を告げる警報が鳴り響いた。この小さな船もリプリケータの餌食となったのだ。
「外宇宙用スーツを着用してください」と警告するAIに従って、ライルは壁のコンパートメントから重いスーツを引っ張り出し、あわてて着た。「もうダメだ」と思いながら。
「一人用避難カプセルでの脱出をお勧めします」
AIにそう言われたときには、自分の命が長くないことが確実に思えた。カプセル内での生存可能時間は非常に短い。だが、そうするしかなかった。リプリケータに食われるよりはマシなのだから。
ライルは壁の緊急ボタンを押して扉を開いた。そこには穴がいくつか空いていて、足から入るように指示する絵があった。その通りにすると、頭の上でバシュッと音がしてハッチが閉まった。カプセル内部では身動きができない。しかし、小型の航法装置のようなものがついていて、現在のステータスが表示されている。空気・水・食糧が百%となっていた。AIは搭載されていないようだ。緊急と表示されたボタンに触れると、正面の装置が変形して操作用のハンドルが浮き出した。小型噴射装置で姿勢制御程度のことは可能らしい。
脳AIを通してアケドラ号の声が聞こえてきた。
「ご好運をお祈りします。では、カプセルを射出します」
足からズシンとした圧力が伝わってきた。レザムから遠くて誰もいないこんな宙域で漂流する羽目に陥るとは。いまだにここ数日に起こったことが信じらず、ひたすらあっけにとられていた。
姿勢制御して小窓から脱出船を見られるようにすると、すでにそのあたりには何もなかった。リプリケータの雲も光度が不足しているためか、確認できない。ただ、青緑色の惑星スナルが虚しい光を放っていた。ライルはあまり意味がないことがわかっていたが、遭難信号のボタンを押した。
目の前にしつらえられた小さなディスプレイに文字が浮かんだ。
『落ち着いて最善の行動をとってください。救出されるまでコールドスリープ状態に誘導できます。体の代謝が落ちて空気や水の消費量を抑えることが可能です。希望しますか? YES NO』
ライルは窒息しながら息絶える瞬間を認識せずに済むコールドスリープに逃げ込んだほうが気楽だと直感した。しかし、今まで起こったことを整理したいと考え直し、画面の問いかけを保留した。
それにしても……。衛星アドナリムを観測していたドローンは誰に攻撃されたのだろうか。リプリケータを放ってアケドラ号を襲ったのは誰なのだ……。ライルにはまったく心当たりがなかった。ヨアヒムが人類を攻撃することはありえない。いや、ありえなかった。今までは……。人工知能に何か変化が起こっているのだろうか。ヨアヒムと並列化しているはずのセカンドレベルの態度もどことなくおかしかった。それとも異星文明がこのラロス系に密かに侵入していたのだろうか。公式にはラロス系文明は異星文明との接触をまだ経験していない。
不思議な光の明滅。リュクレリウムの観測。モノポールの放出。ドローンとアケドラ号への攻撃。どれもこれも矢継早に発生してあまり考える時間がなかった。どの現象も一応科学者である自分が目撃してきたのに、今はそれを検証するための機器もなければデータベースもない。誰とも意見交換もできない。何もない虚空を漂流し続けるだけが、唯一自分のできることだった。この宇宙大の無為に圧倒され、精神状態が平衡を失っていくような気がした。
目の前にはまだYES・NOの文字が表示されている。ライルはこのまま死ぬ可能性が高いことがわかっていた。そうした悟性の動かす指がYESの文字に近づいた。少なくとも無意識状態だけは味方になってくれるだろう。