プロローグ
赤く、そして紅き紅魔の館に『黒』は既に現れていた。
「お嬢様! 正気に戻ってください!」
いつもは冷静を保っていられている完全で瀟洒なメイド――十六夜咲夜は声を荒げながらそれを訴える。それは咲夜の主――レミリア・スカーレットがオカシイことを指摘することを意味していた。
「…………」
紅魔館の主は黙る。否、喋ること自体が不可能なのかもしれない。なぜなら――彼女は『黒』に支配されていたのだから。
今現在、レミリアは身体の表面の7割以上が『黒』に侵食されている。それはつまり、危険な状態であることを意味していた。
「…………」
『黒』に憑かれたレミリアは何も喋らない。しかし、意思はある。
「――っ!」
『黒』はオーラとしても存在し始めようとする。
咲夜は直感する。
――早期で決着をつけないとお嬢様が死ぬ……!
それは直感的であったが、理論的にも述べられることだろう。
レミリアの姿は『黒』に覆われていることはもちろん、意識もない。さらには眼にも生気が宿っていないのか紅の瞳は徐々に薄くなっていた。故に、このまま野放しにすればレミリアの命が危ない。そう判断した咲夜は、
「お嬢様……、私が力不足だったことをお許しください。お詫びは後日致します」
一礼する、主に。決してその一礼は『黒』にしていない、するわけがない。熱血で時には冷血で、そしてカリスマの王――紅魔館の主に最大の謝罪を込めた。
「…………」
レミリアには届いていないのかもしれない。それでもレミリアに無礼をすることは確実なのだから一礼ぐらいはする。それが主従関係というものだ。
咲夜は軽く深呼吸をする。それは紅魔館の主にできるだけ傷をつけないように、集中を最大限まで引き上げるために。
「スペルカード発動! 幻世『ザ・ワールド』!」
時は、止まる。
そんなこと、咲夜には分かりきっている。いつもしてる時止めだから。そしておびただしいほどのナイフを投げ――、
「えっ……?」
思わず驚きを隠せずに声に出してしまう。それはあまりにも異常な光景だった故だ。
その理由:『黒』の半分程度がレミリアから乖離し始めていたから。
『黒』はレミリアから離れ、『黒の球体』へと変化。咲夜を襲う。
だが、ナイフは投げられている。それは自然と『黒の球体』を狙っている。だが、
――……?
咲夜が呆然としてしまうほどの情景だった。
『黒の球体』はそのナイフから逃れることはせずに、否、寧ろ突っ込んでいる。しかし、そんなことをしてしまえば球体が斬られるのは明白、のはずだった――、
「なんで……!!」
ナイフが当たることはなかった。それだけならまだいい、幽霊のように透けるチカラでもあったのかもしれない。だがナイフには『黒』が付着され、刃の部分の銀は『黒』に呑み込まれていた。それ故か、それとは関係無いのか分からないが、『黒』に染められたナイフが咲夜に向かって放たれたのだ。
スペルカードによって放たれたナイフは操れなくなる。それにより咲夜は先の、少し先の未来を考えたことで焦燥感を得てしまう。その理由は単純明快。
――お嬢様に勝てない……。
普段のレミリアであれば負けるのも納得できる。だが、今回は操られている。だからレミリアの本来のチカラを発揮できないと憶測的に咲夜は考えを巡らせていた。
しかしその考えは浅はかで、そして浅はかな自分自身を咲夜はこのときほど呪うことはないだろう。
しかしながらその反省は後回しにしなければならない。今、大量の『黒』のナイフが咲夜を襲っているのだ。
――まずは回避を――。
刹那で大量の『黒』のナイフひとつひとつの位置を把握、そして地を蹴り、紙一重で交わしていく。中には避けられないものもあるがそれは操られていないナイフで迎撃していく。しかしながら、その最善と思われる行動でさえ、『黒』という強大な敵には負けしまう。
「――っ!?」
『黒』のナイフをすべて迎撃するのが正解だったことに咲夜は気がつく。
咲夜が避けたナイフは『黒』に操られて弧を描き再び咲夜を狙う。そして狙われてることに気づいた咲夜は状況を刹那で理解する。
――逃げるしか……。
それしか道はないと。そう思う咲夜。
それもそのはず、主と戦うというのは極度なプレッシャーがのしかかり、戦うと思ってしまうだけでも疲弊する。それほど主を大切だと思ってるからだ。
主に背を向け操られたナイフを避け、少女は敗走する。紅魔館にいる誰かに助けを求め逃げ続ける。
これが今回の異変――黒死異変のほんの序章にさえも過ぎない序章であったことは、このときの咲夜は微塵にも思っていなかった。