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Prelude to nine 下

 あれから一晩、八号は姿を隠しながら彷徨い続けた。小夜の元へ帰らない以上、八号にはもう本当に行く宛がなく、ただ夜道を彷徨い続けていた。もう元に戻れないかも知れないなどと思いながら力尽き、八号は公園の木陰で倒れて眠り込んだ。そして目が覚めるといつの間にか元の姿に戻っており、八号はほっと胸をなでおろした。

 小夜の、あの化け物を見たかのような表情が今でも忘れられない。小夜はあの時明らかに怯えていたし、それは八号も同じだった。小夜が八号を見て怯えたように、八号もまた、わけもわからないまま変わってしまった自分に怯えていた。一体自分は何者なのか、記憶はまだ戻らないが、昨晩の化け物のような姿が本来の姿なのかも知れないと思うと恐ろしかった。

 すぐにでも小夜の元へ帰りたかったが、どんな顔をして彼女の元へ帰れば良いのかわからない。もしかすると、小夜はもう八号のことを拒絶してしまうかも知れない。当然だ、八号の正体は化け物だったのだから。

 気が滅入る。あんなに穏やかで楽しかった毎日が、一瞬で崩れ去ったのかと思うとどうしても絶望的な気分になってしまう。

 小夜の傍には、もういるべきではないだろう。恐らく八号が追われているのはこの化け物に変化する身体のせいだろうし、やはりこれ以上迷惑はかけられない。けれど、せめて最後に別れの言葉くらいは言いたい。

 あまりは気は進まなかったが、黙って去るのも失礼だ。重い足取りで、八号は小夜のアパートへ向かった。





 よく考えれば昼間、小夜は大学へ行っているのでこの時間帯は部屋の中にはいない。当然鍵をかけて出ているハズだったが、何故か小夜の部屋は鍵が開けっ放しだった。

 訝しみながら中へ入ると、玄関に八号のものでも小夜のものでもない靴が置かれている。

「誰かいるのか」

 八号がそう声をかけると、中から現れたのは白衣の男だった。やや恰幅の良い、どこにでもいそうな中年男性だったが、だからこそ小夜の部屋にいるのは不自然だ。小夜の父親や親類である可能性も考えてはいるものの、八号は強くその男を警戒した。

「やあ八号、元気だったかね」

 男のその言葉を聞いて、八号は強く男を睨みつける。

「そう警戒することはないだろう」

「うるさい。一体誰だ、まさか小夜に何かしたのか!?」

 八号が声を荒らげると、男はポケットから携帯を取り出して一枚の画像を八号へ見せる。

「これは……!」

 そこに映っていたのは、ロープか何かで柱に縛り付けられたままぐったりとしている小夜の姿だった。

「お前ッ……!」

「安心しなさい、彼女は無事だ」

 今にも殴りかからんばかりの勢いで詰め寄る八号をそう言ってなだめて、男はニヤリと笑みをうかべる。

「研究所に戻れ八号。そうすれば彼女に危害は加えない」

「研究所……? どういうことだ!」

「忘れたのか八号、お前は我々の実験の貴重なサンプルだ」

「な、に……!?」

 瞬間、筆舌に尽くし難い頭痛が八号を襲う。この男を見ているだけで、頭が痛くて仕方がなかった。

「なぁ八号。お前は八番目の生きたサンプルだ。だから八号なんだろう、忘れたのか?」

「黙れ……!」

 巨大なカプセル全体に満たされた気味の悪い液体、その中でコードに繋がれていた。朦朧とした意識のまま、ただ研究所の男達に良いように身体をいじられるのは不愉快で仕方がなかった。

 故に逃げ出した。一瞬の隙をついて、死に物狂いで八号はあの研究所から逃げ出したのだ。

「人間だった頃が懐かしいか。記憶の改竄が甘かったかな八号」

 うまく、うまく思い出すことが出来ない。ただこの男の言う通り、八号は元々普通の人間だった。それがこの男達の研究で、あんな姿にされてしまったのだ。

 そう思うとこの男が許せない。勢いに任せて殴りかかるが、ふらついた八号の拳は容易く男に避けられてしまう。

 からぶった拳が壁に辺り、壁へ派手に穴が空く。普通の人間にはあり得ないその怪力に、八号は思わず絶句した。

「お前はもう人間じゃない。見るところあの少女とうまくやっていたようだが……お前には無理だよ、彼女は普通の人間だ」

 小夜は、弓形小夜は普通の人間だ。研究所だの、化け物だの、八号だのとは本来関わるハズのない人間だ。そんな彼女を、これ以上巻き込みたくなくて……それで別れを告げにきたのではなかったか。

 想えば想う程愛おしかった。あの笑顔が忘れられない。いつもどこか気丈に振る舞っていながら、どこか寂しそうな目を見せる小夜が、忘れられない。愛おしかった、出来ればこの手で幸せにしたかった。それが不可能だなんてことは、最初からわかっていたことなのに。

「八号、お前が暴れれば私一人では捕まえられん。だから取引をしよう。夕刻、そうだ16時頃だな、そのくらいに町外れの廃工場まで来い。そこでお前が我々に大人しく捕まってくれればあの少女は無事に帰してやると約束しよう」

 そう言い残して、男は頭痛に呻く八号を無視して部屋の外へと出て行く。それを追いかけることさえ出来ないで、八号はその場に蹲ったまま一度意識を手放してしまった。





 目を覚ますと、頭の中は随分とスッキリしていた。頭痛もなく、思考は驚く程クリアだった。

 ゆっくりと立ち上がって時計を確認すると、時刻は午後三時を回っていた。ここからバイク・・・で向かえば、廃工場まではそうかからないだろう。ある程度余裕はある。

 そっとベッドに近寄って、写真立てを手に取る。笑顔でピースする小夜と、バイクに寄りかかる綱吉。八号はその写真を大事そうに抱きしめた後、そっと枕元へ置き直す。

「小夜、小夜、君に会いたい」

 伸ばした長い髪が、雪のように真っ白な肌が、こちらを見つめる釣り気味の瞳が、忘れられない。透き通った歌声も、どこか凛とした立ち振る舞いも、全てが愛おしい。抱きしめたくても、もうこの手は人のものではなくなってしまっていた。

 それでも、それでも良い。ただ小夜に会いたい。小夜を守りたい。

 八号はそっと、引き出しからバイクの鍵を取り出す。鍵を掴んだ感触が手に馴染む。鍵を握りしめたまま、八号はヘルメットを持って部屋を出た。

 駐輪場に向かい、綱吉のバイクから泥や蜘蛛の巣を拭う。ヘルメットをかぶって鍵をバイクへ刺すと、懐かしい感覚が蘇る。

「そうだ、君を乗せていた。後ろには君がいた」

 エンジンをかけると同時に、後ろで小夜の声が聞こえた気がした。

 ――――本当に大丈夫? 私二人乗りで死ぬなんて嫌よ?

「大丈夫だ。必ず無事に連れて帰る」

 そのために、走るのだ。

 ゆっくりと駐輪場を出て、八号はアクセルを強く踏んだ。ヘルメット越しに感じる風がひどく懐かしくて、思わず八号は目を細めた。

 風を受けて、まるでそれに反応するかのように身体が変化していく。長く伸びてしまった髪が、ヘルメットからはみ出してマフラーのように風に薙いだ。

 不揃いな両手でハンドルを握り、不揃いな足でアクセルとブレーキを繰り返す。ミラーに映る顔は不出来な合成写真のようだったが、それでも構わずに八号はバイクを走らせた。

「小夜、今すぐ行く」

 時速六十キロで駆け抜ける八号の目は、真っ直ぐに前を見つめていた。









 小夜が目を覚ますと、そこは廃工場の中だった。小夜は縛られた状態で寝かされており、逃げ出そうともがくがどうにもうまくいかない。両手足がしっかりと縛られているようで、芋虫のようにもぞもぞと動くことしか出来なかった。

「一体何なの? 何が目的でこんな……!」

「八号くんを、おびき出そうと思ってね」

 小夜の言葉に答えたのは、隣に立っている白衣の男だった。周囲にはスーツ姿の男が何人か控えており、更に男の後ろには、プルプルと小刻みに奮える奇怪な男が立っていた。

 頭髪は一本もなく、肌の色が恐ろしいまでに白い。かなり筋肉質な身体つきをしており、アレで殴られでもしたらと思うと想像するだけで怖い。うつろな目は虚空を見つめており、よだれを垂らしながらプルプルと奮えるその姿は、それだけで小夜に恐怖を与える。

「怖がらなくて良い、七号はこいつでコントロールしてあるから、君に襲い掛かったりはしないよ」

 そう言って男が見せたのは、小さなリモコンのようなものだった。理屈はよくわからないが、あの七号と呼ばれる男はそれでコントロールされているらしい。

「八号を? 一体どうして……!」

「八号は我々の研究の貴重なサンプルでね、どうしても必要なのだよ」

「研究って、あなた達ね!? 八号を追いかけていたのは」

「そりゃそうさ。君はなくした道具を探さないのかね」

 男のその言葉に、小夜は強く怒りを感じて顔をしかめる。

「八号はものじゃないわ」

「人でもない、見ていないのか、八号の姿を」

 言われて、小夜の脳裏を昨晩の八号の姿が過る。およそ人と呼ぶにはあり得ない姿をしていた八号を見て、小夜は一度すくんでしまっていた。

「本当に貴重なサンプルだよ。あの改造手術に耐え、精神まで保てたのは彼が初めてだ。完成形の九号のためにも、彼のデータは必要でね」

「改造……? それじゃあ――」

「ああ、彼は元々人間だよ」

 八号が元々人間。だとすれば、あの姿はこの男達によって改造された結果なのだろう。まるで漫画か何かのように突飛な話だったが、現状とあの八号の姿から考えて嘘でも夢でもなさそうだった。

「そんなこと……許されるハズがない! あなたは一体何なの!?」

「申し遅れたな。私は鯖島勝男さばじまかつお、この研究の主任だ」

 そう名乗った男、鯖島を小夜は強く睨みつける。

「そんなことが聞きたいんじゃない……! 私は――」

 小夜が言葉を言い切るよりも、廃工場の中にバイクのエンジン音が鳴り響く方が早かった。





 廃工場へ辿り着き、中へ入るとすぐに小夜の姿を見つけることが出来た。バイクから降りて、小夜へ視線を向けると、小夜は助けを求めるように八号の方を見ていた。

 ヘルメットを外すのが怖い。今のこの顔を、もう一度小夜に見せるのは出来れば避けたかった。

「早かったな八号」

 男の、鯖島の言葉に八号は答えない。ただ静かに、意を決したかのようにヘルメットを外して小夜へもう一度視線を向けた。

「八号……」

 不揃いな両目が、愛おしげに小夜を見つめる。最初こそ驚いたものの、小夜はもう怯えたりしなかった。

「八号……駄目! 研究所に戻ったりなんかしたら……!」

 八号は静かにかぶりを振って、鯖島達の元へ歩み寄って行く。

「良い子だ八号」

「小夜を帰してもらおう」

 鯖島を睨みつけながら八号がそう言うと、鯖島はスーツの男達を顎で指示する。すると、男達はすぐに小夜を縛っているロープを解いた。

「さあ約束だ、こっちへ来い、八号」

 すぐに鯖島は八号を手招きしたが、八号は首を左右に振った。

「お前達がこの後小夜に手を出さない保証がない。ここで潰す」

 そう言って八号が身構えるのと同時に、鯖島の周りにいた男達が身構える。何人かは銃を持っており、それを見た小夜が悲鳴にも似た声を上げた。

「駄目、八号!」

「逃げてくれ、小夜」

 それでも八号は、まるで引こうとはしなかった。銃に対して恐れる様子もなく、ただまっすぐに鯖島を睨み続けていた。

「いい、おろせ」

 鯖島は、悠然とした態度で男達に銃を降ろさせると、手に持っていたリモコンを操作し始める。すると後ろで控えていた奇怪な男――七号がゆっくりと八号の前まで歩いてくる。

「こいつは……!」

「お前の兄みたいなものだよ八号」

 鯖島がそう言うやいなや、七号は思い切り振りかぶって八号を殴りつけた。

「八号っ!」

 小夜の悲鳴が聞こえると同時に、八号の身体はその場で派手に吹っ飛んでしまう。七号の腕力は常軌を逸しており、この一撃だけでもかなり八号にはこたえた。

「力づくで言うことを聞かせるしかないのか八号……。頼むよ、大人しくしてくれ」

 笑いをこらえながら鯖島がそう言うと同時に、倒れた八号へ七号はゆっくりと歩み寄る。

「八号逃げて……っ!」

 小夜の声を八号が認識するよりも、立ち上がろうとした八号の胸ぐらを七号が掴み上げる方が早い。ジタバタする八号を、七号は地面へ叩き付けるようにして殴りつけた。

 鈍重な音がして、八号は地面に胸から叩きつけられる。衝撃が胸から背中を突き抜け、八号は口から血反吐をぶちまけていた。

「七号! ああやるじゃないか七号! これでまともに意識を保てていれば八号も九号も必要なかったというのに!」

 高らかに笑う鯖島の声が不愉快で、八号は顔をしかめる。これ以上小夜の悲鳴は聞きたくない、このままやられ続けるわけにはいかなかった。

 鯖島からの指示がないのか、七号は直立したまま動かない。その隙に八号は、立ち上がるやいなや七号へ突進する。

「おおおおおおッ!」

 雄叫びと共に八号の右肩が七号へ直撃し、その場で七号がもんどり打って倒れる。八号は鯖島が驚いている隙に七号へ馬乗りになると、その顎を掴んで顔を近づける。

「どうした兄さん、眠たいのかい?」

「な、七号ォォォォッ!」

 鯖島の指示と共に、七号は馬乗りになっている八号の首を左手で掴む。

「痛ェな」

 八号は七号の顎から手を離して七号の左腕を掴むと、そのまま思い切り握りしめた。

「ァァァァァァァァァァ!」

 奇声じみた悲鳴を上げる七号に構わず、八号は七号の左腕を握り続ける。八号とて改造された人間だ、細い左腕とは対照的に筋肉質な右腕は、普通の人間より握力や腕力は優れている。

 七号の手が緩み、首が解放されると八号は細い左肘で七号の顔面に肘打ちを叩き込む。その衝撃で七号の頭が地面に勢い良く直撃し、七号は目を白黒させながらのたうち回っていた。

 そしてしばらくすると、七号は動きをピタリと止める。それを確認した後、八号はゆっくりと立ち上がる。

「次はアンタらだ。誰も小夜には手を出させない」

 鯖島達研究員にとって、七号の戦闘力は脅威だったのだろう。その七号をダウンさせた八号が凄んで見せるだけで、彼らは小さく悲鳴を上げた。

 再び男達が八号へ銃を向ける。流石に複数人から銃を向けられるのはまずいが、この程度で立ち止まるつもりは毛頭ない。必ず、必ず小夜を守ると……そう決めていたから。

 だがしかし次の瞬間、八号の背後でゆらりと七号が立ち上がる。突然のことに対応出来ず、後ろから勢い良く七号に殴られた八号はそのまま仰向けに倒れてしまう。

「そんな……八号っ!」

「馬鹿な、私は指示を出していないぞ!」

 小夜の悲鳴と同時に、鯖島は困惑しながらリモコンを操作する。しかし七号は鯖島へ視線を向けると、そのリモコンを煩わしそうにはたき落とした。

「や、やめろ……!」

 怯える鯖島へ歩み寄る七号。そんな七号へ、四方から銃弾が浴びせられた。

「――ッ!」

 しかし、七号に止まる気配はない。身体から血を流しながら、銃を撃った男達の方へ視線を向ける。その瞬間の隙を見逃さずに、鯖島はその場から一目散に逃げ出してしまった。

「わ、わああああああッ!」

 リーダー各である鯖島が逃げ出したことで半狂乱状態に陥った男達は、まるで蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げて行く。それを追いかけようともせずにジッと見つめた後、七号はその場で竦み上がっている小夜の方へ目を向けた。

「何よ……! 来ないで……!」

 目に涙をためながらも、小夜は必死に言葉だけは強がろうとする。しかし腰が抜けてしまったのか足がうまく動かせないようで、身体を引きずりながら七号から離れることしか出来ないでいた。

 七号は、急ぐ様子もなく緩慢な動作で小夜へ近寄って行く。そんな七号の足を、倒れていた八号が強く掴んだ。

「待てよ兄さん……。その子は、俺の女だ」

「八号……八号無事なの!?」

 チラリと小夜へ視線を向けて微笑んだ後、八号は七号足を引っ張りながら身体を起こす。特に抵抗するでもなく倒れた七号だったが、すぐに立ち上がると八号へ殴りかかってきた。

 その拳を、八号は避けられない。既にかなりダメージを負っているのか、そのまま七号の拳を顔面で受けてしまう。しかし今度は、ふっ飛ばされずに何とかその場で持ちこたえた。

 そしてすぐに、八号は七号の顔面を殴り返した。これは七号も避けられないまま顔面に直接受け、ゆらりとのけぞった後八号を殴り返す。顔中血まみれになりながら、そんな殴り合いが八号と七号の間で続く。

 その凄惨な光景を目にしながら、小夜は恐怖で涙を流していた。

 目の前で八号が血だらけになりながら自分を守ろうとしている。もういい、逃げて、そんな言葉が何度も喉元まで出かかったが、必死に戦う八号にそんな言葉をかけられないでいる。動かない足が恨めしい、もっと早く逃げていれば、八号も七号と無理に戦う必要はなかったかも知れないのに。

「八号……!」

 殴り合っている間に、八号も七号もかなり激しく消耗してしまっている。お互いに少しだけ距離を置き、一息吐いた後もう一度睨み合った。恐らく、次が最後の一撃だ。

「おおおおおおおおおッ!!」

「ァァァァァァアアァァァァッ!」

 雄叫びと奇声。八号と七号の拳が同時に放たれる。

「がッ……!」

 先に血反吐を吐いたのは八号だ。七号の尋常ならざる腕力が、八号の腹部を貫いている。夥しいまでの出血が地面を赤く濡らす。

 しかし、血を流しているのは七号も同じだ。

「どうだい……俺の拳は」

 八号の拳もまた、七号の腹部を貫いている。意識を保っていられたのは八号だけのようで、八号が拳を引き抜くと同時に七号はその場へ倒れ伏した。

 流石に絶命したのだろう、七号はもう血を流すばかりでピクリとも動かない。

 それをチラリとだけ確認した後、八号はフラフラと小夜の元へ歩み寄って行く。化け物じみていた姿も、力を使い切ったせいもあるのか元の八号の姿に戻っていた。

 しかし八号は、小夜の元へは辿り着けなかった。もう歩くこともままならないで、小夜に辿り着く直前で倒れてしまう。そんな八号の元へ、小夜は四足になりながらもすぐに近寄って行った。

 出血は酷く、もう助からないことは目に見えている。その場に座り込んだ小夜は、そっとその膝に八号の頭を乗せる。

「八号……八号! 馬鹿! 何でこんなになってまで……何で……!」

「随分と……待たせたからな……これくら、いは……しないと、格好がつかない……」

 奮える手を必死に動かして、八号はそっと小夜の頬に触れる。

「すま、ない……血で、汚れる……か……」

「良いわよ……そんなのどうだって良いわよ……!」

 たまらず泣き出してしまった小夜の涙を、八号は血に濡れた手でそっと拭った。

「ただい、ま……小夜……。一人に……して、ごめんな……」

 最初、小夜にはそれが何を意味するのかわからなかった。けれど、八号の瞳を見ている内にそれがどういうことなのか察して、小夜はまた泣き出してしまう。

「おかえりなさい……馬鹿……」

 思わずそんな言葉を口にしてしまう小夜に、八号は静かに微笑む。この瞬間が愛おしい、このまま時間を切り取って永遠にしてしまいたかった。

「歌……」

「歌……?」

 聞き返す小夜に、八号は小さく頷く。

「うた……って……」

 それが、八号の最後の願いだった。それを理解したのか、小夜は涙で声を震わせながら歌を紡いだ。

 結局、八号にはその歌が何の歌なのかもわからない。だけれども、その透き通るような歌声に聴き入っている内に、心地良い感覚が溢れていく。まるで子守唄のようだった。

 母親に抱かれているかのような安心感を覚えながら、八号は小夜の歌声に包まれる。そのまま段々まどろんでいって、八号は眠るように目を閉じた。

 歌は止まない。血にまみれた廃工場が、優しく透き通った歌声に包まれていく。きっとどこかでこの瞬間は切り取られていて、永遠になっているかも知れない。









 それから数日の間に、林の中に存在した研究所は火災で跡形もなく消えた。そんな噂を小夜は耳にした。一体何が起こってそうなったのか、小夜にはわかりようもなかったが、きっと八号が守ってくれたのだと思うようにしている。

 あの事件については当然警察に話したが、やはり突拍子もないのかあまり信用してもらえなかった。小夜のことは保護してくれたものの、研究所の場所を突き止めるまでには至らなかった。今思えば、何らかの圧力が加わっていたのかも知れない。

 もう隣に八号はいなかったけれど、それでも小夜は前に進んで行くしかなかった。まだもう少し、新しい恋を始めるのには時間がかかりそうだとは思うけれど。

 アパートの駐輪場には、変わらずあのバイクが止めてある。持ち主は結局不在のままなので、とりあえずバイクはまた小夜が預かることになった。

 ――――大丈夫だ。必ず無事に連れて帰る。

 そういえば、そんな約束もいつかした気がする。

「約束、守ってくれたね。結局どっか行っちゃったけどさ……」

 バイクを撫でながらそう言って、小夜は肩をすくめる。

 これ以上ここで油を売っていても仕方がない。過去に思いを馳せるよりも、今は先に進む必要があった。

 バッグの中に書き終えた課題レポートが入っているのを確認して、小夜は自転車を走らせる。風が心地良い、きっと彼も、こんな風を感じて走っていたのかも知れない。

 真っ直ぐ真っ直ぐ自転車が進んで行く。このままどこまでも前へ進めそうな気がした。


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