Prelude to nine 上
朦朧とする意識の中で、最初に聴こえてきたのは聴き入ってしまう程に美しい歌声だった。
その歌が何の歌なのかなんてわかりもしなかったが、とにかくその歌声が美しくてただただ聴き惚れてしまう。まるでそれは子守唄のようで、聴いている内に心が安らいでいった。
まるで母親に抱かれるかのような安心感の中で、そっと目を閉じる。出来ることなら、ずっとこの歌声を聴いていたいと思えた。
追われている。こんなところで歌に聴き惚れている場合ではない。しかし身体は言うことを聴かず、疲労故かその場に膝から崩れ落ちる。すぐにでもこの場所を離れて逃げる必要があるというのに、もう足は動こうとしなかった。
どうせなら、ここでこの歌声に包まれて眠ってしまいたい。その後どうなるかなんてわからないが、とにかく今はもう、ここで歌声に包まれて眠りについてしまいたかった。
「あの、あなたは?」
歌声が止まって、そんな声が聞こえた頃には既に意識は途絶えていた。
何の変哲もない女子大生、弓形小夜がアパートの近所で全裸の男性を見つけてから、そろそろ三日目くらいになる。
小夜が一人暮らしをしているアパートの付近には林があり、小夜がその男性を見つけたのはその林の中だ。小夜は歌うのが好きで、夜中に人気のない、近所迷惑にならなさそうな林の中で歌うのが日課である。カラオケに行けば良いだけの話だが、今のところ一人でカラオケに入る勇気はない。そんな理由で林の中で歌っていたところ、物音がしたので行って見ると、全裸の男性が倒れていたのである。
最初はひどく驚いて、とりあえず警察に通報しようかとも思った。携帯を取り出して110番する手前まできていたが、警察へ電話をかける直前で聞こえてきたのは、この裸の男性を捜していると思しき声だった。
どうやらこの男性は追われているようで、必死で逃げてきたのか身体の至る所に木の枝や草に引っかかって切ったのであろう切り傷もある。顔は苦悶に歪んでおり、眠っているというよりは気絶していると言った方が正しい。
小夜は少しの間逡巡したものの、咄嗟に彼を背負うと慌てて自身のアパートへ向かった。特に鍛えているわけでもない女の細腕で背負うには、いささか重すぎる荷物のように思えたが彼は思った以上に軽く、汗だくになりながらもどうにか部屋まで運ぶことに成功した。
ベッドに眠る彼の寝顔を眺めつつ、小夜は小さく溜息を吐いた。あれから三日間、一度も目覚めないためどうしたら良いのかもわからないし、そもそも一つしかないベッドを彼に貸しているせいでこの三日間、小夜は床で雑魚寝である。
彼が追われているのかと思うと、授業以外では部屋を空ける気にならない。授業中も彼のことが気になってしまって手につかない。
「しかしまあ何でこんなに似てるんだか……」
そうぼやきながら、小夜は枕元の写真立ての写真と、ベッドで眠る彼の寝顔を見比べる。
写真に写っているのは小夜ともう一人、彼氏の漆原綱吉である。大学に入ってから知り合い、付き合うようになった綱吉とは非常に気が合い、関係もかなり良好だったのだが、数ヶ月前から一切連絡が取れない。家にも帰っておらず、大学にも来ていないのか完全に消息が掴めない。彼がそんな綱吉とそっくりだったせいで、最初こそ綱吉本人なのではないかと想像した。しかしそっくりなのは顔だけで、身体つきのガッシリしていた綱吉と違って彼は細身だし、テニスで鍛えていた綱吉と違って彼の身体は鍛えられておらず、色白でまるで女性のようにも見える。見ないようにしてはいたものの、陰茎の存在は確認出来たのでそれでもれっきとした男性のようだった。
彼の寝顔を見ていると、綱吉のことを思い出して不安になる。親や友達にはもう忘れろと言われたが、そう簡単に忘れられるものではない。今まで何度か付き合ったことはあったが、綱吉程気の合う男性は今までいなかったし、身体を許したのも綱吉が初めてだ。髪の長い女性が好きだ、そう言われて慌てて伸ばし始めたのを今でも覚えている。綱吉に合うまでずっとショートカットだった髪も、今では背中にかかる程のロングヘアだ。そんな小夜の黒髪を見つめながら、俺のために伸ばしてくれたのか、だなんてのたまうものだから自惚れないで、とその時は笑って茶化したものだ。
出来れば眠っているこの男性が綱吉であってくれれば嬉しい。身体つきこそ違うものの、目覚めておはよう小夜、だなんて言ってくれればすごく嬉しい。ついでにそのまま一人にしてごめんな、とかなんとか抜かしながら抱きしめてくれればもう文句はない。
しかしそんなものは妄想に過ぎないし、恐らくこの男は他人の空似だろう。
そんなことを考えながら雑誌に目を通していると、不意に彼が呻き声を上げる。慌てて彼の方を見ると、彼はゆっくりと身体を起こし始めていた。
「……ここは? アンタが助けてくれたのか……?」
周囲をキョロキョロと見回した後、小夜へ視線を向けると彼はそう問うた。
「うん、まあ、そんなところ」
「すまない。ありがとう……」
彼はそう礼を告げて立ち上がろうとするが、すぐに呻き声を上げて態勢を崩してしまう。
「まだ無理しちゃダメよ。三日も寝たきりだったんだから」
言いつつ小夜は彼をもう一度ベッドへ寝かせると、コンビニ袋を取り出して中身を机の上に広げた。
「とりあえず何か食べる? 好みがわからないから適当に用意したんだけど」
机の上にはパンやおにぎり、カロリーメイト等が広げられている。おにぎりもパンも種類は様々だ。彼がどんな好みをしていても対応出来るように小夜が先日用意したものだった。
彼はしばらくジッとそれらを見つめていたが、やがてそっとカロリーメイトを手に取った。
「ありがとう」
「いいから、水も持ってくるわね」
小夜の用意した水とカロリーメイトで、彼はゆっくりと空腹と渇きを満たす。かなり空腹だったのか、カロリーメイトを食べ終わった後は他のパンやおにぎりも食べ始めた。
そんな様子を、小夜は何も言わずに見つめていた。やはりどこか綱吉の面影を感じるのか、小夜は彼の様子をどこか懐かしそうに見つめ続ける。
「本当にありがとう。助けてもらった上に食事までさせてもらって申し訳ない」
彼は申し訳なさそうにそう言ったが、小夜は気にしないで、と首を振るだけだった。
そこからしばしの沈黙があり、やがて耐え切れなくなったのか彼の方から口を開く。
「何も、何も聞かないのか」
「何もって、何を?」
「俺が何者なのか、何故倒れていたのか……」
そう言いながら不安げに顔をうつむかせる彼に、小夜は静かに微笑んだ。
「聞かないわよ」
「……どうして」
「聞かせても問題ないような話なら、きっとあなた自分で喋るわ。あまり聞かせたくないからこそ、詮索されないのが不思議なんでしょ?」
クスリと笑みをこぼしながら小夜がそう言うと、彼は困ったように口ごもってしまう。
「私は気にしないから、とにかく休んでて」
そう言ってやや強引に彼をベッドへ寝かせて布団をかけると、彼はポカンとした表情で小夜を見つめていた。
「あ、でも名前だけは教えてくれない? 呼ぶとき不便だし。私は小夜、弓形小夜」
小夜の言葉に、彼は少しの間答えなかった。やや逡巡するような表情を見せていたが、やがて彼はゆっくりと口を開く。
「俺は……俺は、八号と呼ばれていた」
「……ハチゴウ?」
きょとんとする小夜に、彼は、八号は小さく頷く。
「多分八番目って意味での八号だと思う。よくわからない、ほとんど思い出せないんだ……。すまない、言いたくないというよりは、言えないんだ」
不安げに頭を抱えながらも、八号はそのまま言葉を続ける。
「あそこから逃げ出して、アイツらに追われて……それで……」
突拍子もない話な上に要領を得ないが、冗談を言っている風には見えない。本当に、真剣に思い出せないのだろう。
「ほら、話してくれた」
「え……?」
微笑んだ小夜に、八号は戸惑いの声を上げる。
「ありがとう、私のこと信用してくれて」
「……礼を言うのはこっちの方だ。こんなに良くしてもらって」
「気にしないで。それより行くあて、ないんでしょう?」
小夜にそう言われ、八号は小さく頷く。
「しばらくうちにいたら? 私は構わないから」
「良いのか……? 俺は得体が知れない、迷惑をかける」
「構わないって言ったでしょ。とりあえず自分が何なのか思い出すまで、うちにいれば良いわ。服は……うん、後で用意しましょう」
そう言って微笑んだ小夜に、しばらく八号は申し訳なさそうな表情のまま言葉を返さなかった。しかし今はもう小夜に頼るしかないと判断したのか、やがてコクリと頷いた。
「ありがとう、小夜」
八号がそう言った瞬間、小夜はしばらく驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を見せる。目を丸くして小夜は八号を見つめていたが、やがて薄く微笑んでどういたしまして、と答えた。
小夜に、八号を匿う理由はない。本来なら警察に通報するのが普通だが、小夜はそうすることが出来なかった。どうしても八号に綱吉を重ねてしまい、彼といるとまるで綱吉が帰ってきたかのような錯覚さえ覚えてしまう。
そんな理由からだろう、思わず小夜が八号を匿うことに決めてしまったのは。
その日以来、居候の八号と小夜、二人の生活が始まった。
八号は最初こそどこかぎこちなかったものの、小夜とはすぐに打ち解けていった。どこか気が合うのか談笑することも多く、八号は小夜の帰りを、小夜の方は帰って八号に会うのを楽しみに生活するようになっていった。
八号が居候していることは大家には内緒だったが、すぐにバレてしまう。追い出されてしまうかとも思ったが、小夜が事情を話すとわかってくれたようで、度量の大きい大家さんには小夜も八号も強く感謝した。
小夜は歌うのが好きで、八号はよく彼女の歌を聴いていた。八号を林に近づけるのはまずいだろうと判断したため、最初は家の中で小声で歌う程度だったが、そうこうしている内に二人でカラオケに行くようにもなる。八号は歌をほとんど知らない、というより覚えていない様子で、基本的に小夜が歌うのを聴くばかりだった。小夜はどこか申し訳無さそうだったものの、八号は小夜の歌を聴きたいと思っていたし、自分が何かを歌う時間も小夜の歌を聴く時間に充てたいだなんて言って笑っていた。
そんな風に穏やかに時が過ぎて、八号の居候生活も二週間が経過した。
「そんなに似てるか?」
枕元の写真の綱吉をまじまじと見つめながら八号が問うと、小夜はコクリと頷いた。
「もうそっくり。双子かなんかかと思った」
八号としてはそれ程似ているようには思えなかったが、小夜からすればそっくりなのだろう。確かに顔の感じや目鼻立ちは似ているように思うが、八号には小夜が言う程似ているように感じなかった。
「アイツ、行方不明なんかになっちゃってるから、急に裸で帰ってきたのかと思ったわよ」
笑いながらそう言う小夜だったが、目は寂しそうだった。小夜にとってその綱吉という男がどれほど大切だったか、八号には想像することしか出来ないのがもどかしい。
「うちのアパートに鍵ごとバイクほったらかしたままどっか行っちゃったのよ。大家さんから片付けろって言われてるんだけど」
「バイクを? どうしてまた」
「うちでお酒飲んだ後歩いて帰ったのよ。酔っ払って鍵も部屋に置きっぱなしでね」
そう言って、小夜は取り出したバイクの鍵を右手で弄ぶ。玄関先にはヘルメットらしきものが置かれており、綱吉がバイクや鍵と一緒に置いていったものだろう。
「あんなに大切にしてたのにね。何でバイクも私も置いてっちゃうんだろ」
そう言ってうつむいてしまった小夜に、八号はどう言葉をかければ良いのかわからない。何か助けになりたいと強く思っても、具体的にどうすれば良いのかわからない。こんなとき、記憶がちゃんとあれば何か気の利いた言葉でも思いつけたのだろうか。
「そのバイク、見せてくれないか」
「え、それは構わないけどどうして?」
「バイクには興味がある」
「あるってあなた記憶も免許もないのに」
「……それもそうだな」
思わず八号が肩をすくめると、小夜はクスリと笑みをこぼしてそのまま笑い始めてしまう。そんな小夜の様子を見て、八号はホッと息を吐いた。なんだって良かった、小夜の悲しい顔を見ないですむのなら。
駐輪場に停められていたのは、シックなデザインの大型二輪だった。カラーリングは黒で、派手ではないがスタイリッシュなかっこ良さがある。八号はバイクのことなど覚えていないが、このデザインは一目見ただけで気に入ってしまい、思わずおぉ、と声を上げてしまう程だった。
しかし、かなりの間放置されているのか所々に蜘蛛の巣が張っており、車体にも雨や泥の跡が残っている。
「もしかしてちょっと気に入った?」
「ああ、これはなんというか……良いな」
まじまじとバイクを眺めて、八号は満足そうに笑みを浮かべる。こういうものは見るだけでもかなり満足する。乗ってみたいとも思ったが、八号は免許がない……というかあるかどうかわからない。
「触っても?」
「ええどうぞ」
車体についた泥の跡を拭うように触れて、八号はバイクを見つめる。
「まさか顔だけじゃなくてバイクの好みまで一緒なんてね」
「それには俺も驚いたな。案外、記憶が戻れば小夜のことを思い出すかも知れない」
「冗談、綱吉はもっとイケメンよ」
そう言って冗談めかして笑う小夜に、八号はムッとした表情を見せる。
「そっくりなんじゃなかったのか?」
「どうだったかしらねぇ」
そんな他愛のない冗談を言い合いながら、八号と小夜はまたアパートの中へと戻って行く。
こうしてずっと、穏やかなまま時が続けば良い。そんなことを願いながら。
そうしてまた日は経ったが、時間は穏やかに過ぎるばかりで八号の記憶は戻らなかった。
いつものように小夜と過ごし、いつものように小夜の歌を聴く。いつまでも小夜に迷惑をかけたくないと思う一方で、八号はこの生活がこのまま続くことを望んでいた。
このままで良い。記憶が戻るよりも、このままでいた方がきっと幸せだ、そう思えてくるくらい、小夜と過ごす時間は八号にとってかけがえのないものになっていた。
小夜の方ももうすっかり八号との生活になれてしまい、小夜にとってもまた、八号はかけがえのない存在になっている。しかしそれでも、やはりお互いの中にはどこか「このままではいけない」という思いがあった。八号は記憶を取り戻さなければならないし、小夜だってずっと八号と一緒にいるわけにはいかない。小夜の想い人は綱吉であって、八号ではない。
その日は酷い大雨で、八号は買い出しの帰りだった。
小夜は大学に行っており、彼女が学校へ行っている間に八号は頼まれた買い物をこなす。流石に八号も何もしないでずっと小夜の部屋で世話になるのは心苦しかったため、家事関連や買い出しは基本的に八号がするか、小夜がするにしても八号は手伝うようになっていた。最初の内は小夜も気にしないで良い、と言っていたが八号の気持ちを察したのか手伝いを頼むようになっていた。
傘の上で雨粒が音を立てて弾けていく。雨の中を歩いているとなんだか全身がじわじわと濡れていくみたいであまり気持ちは良くない。どんどん靴の中に侵入してくる雨を不快に思いながら、八号は帰路を急いだ。
これだけ雨が酷いと、小夜も帰るのに苦労するだろう。そもそも自転車で通う距離を、雨が理由で歩かなければならないのだからきっと今日は疲れている。身体も冷えているだろうから風呂を沸かして、温かいコーヒーの一つでも用意してやりたい。
そんなことばかり考えながら、八号は食べ物や生活用品の入った袋を片手に歩いて行く。
ゴロゴロと雷の音がして、八号は不安を覚える。小夜が途中で雷に打たれたりしたら、と想像するだけで少し不安になる。そんなことは起きないのだろうけど、少し心配してしまうくらいには、八号の頭の中は小夜でいっぱいだった。
アパート付近まで差し掛かったところで不意に、八号の全身を得体の知れないむず痒さが襲う。かきむしろうにも、どこもかしこもむず痒くてどこからかけば良いのかわからない。
段々そのむず痒さが痛みに変わっていって、立っていられなくなる。思わずその場に袋を落としてしまい、キャベツやトマトが地面に転がっていく。
全身に違和感があって気分が悪い。思わずその場にひざをついて、八号は呻き声を上げる。
「……ッ……!?」
地面についた手を見て、八号は言葉を失う。八号の手は、こんなに大柄だったか。
八号はどちらかというと華奢な方で、手も大きい方ではない。しかし今地面についている八号のその手は、まるで八号のものではないかのように大きかった。
袖をまくると、明らかに元の八号の腕よりは太い。かなり筋肉質で、右腕だけ別人のようだ。
一体何が起こったのかわからずに左手を見ると、左手は右腕よりも遥かに細い。今にも折れそうなしなやかな指はまるで女性のようだ。こちらもまた、いつも八号が見ている左手とは大きく違う。恐ろしくて袖をまくる気にもなれない。
「あ、ああ……ああああああああッ!」
その場で悲鳴を上げた八号は、傘も袋も放置したまま逃げるように走り去ってしまう。
どこかで、雷の落ちる音がした。
酷い雨の中、小夜が部屋に戻るとそこに八号の姿はなかった。小夜が学校に行っている間に買い出しに行っているのはいつものことだったが、基本的に八号の方が帰りが遅くなることはないため、訝しんだ小夜はすぐに八号を捜しに行った。
とりあえず近くのスーパーまでの道をくまなく捜したが八号の姿はなく、代わりに八号が持っていったのであろう傘と、恐らく八号が買ったのであろう日用品や食品の入った袋が同じ場所に放置されていた。
嫌な汗が小夜の額に滲む。綱吉に続いて八号まで自分の前から消えてしまうのではないかと思うと泣き出しそうになる。
綱吉もそうだった。最後に部屋で飲んで、小夜が寝ている間に勝手に歩いて帰っていって、もう二度と姿を見せなくなった。八号も綱吉と同じで、小夜の知らない内に姿を消してしまうのではないかと思うと不安で不安で仕方がない。
「なんで二人共……なんにも言わずにどっか行くのよ……!」
八号が目の前から消えてしまうのが、怖くて怖くて仕方がなかった。綱吉も八号も、何も言わずに小夜の前を去って行くのかと思うと、寂しくて仕方がない。まるで一人ぼっちになってしまったみたいで、ひどく不安で、心細かった。
結局八号を見つけることは出来ず、とぼとぼと帰路につく。アパートの敷地内に戻って自分の部屋の窓を見ると、電気がつけっぱなしになっていることに気がついた。
電気も消さないで、鍵もかけずに出てきてしまったのだろう。それくらい取り乱してしまっていた。
もしかすると、八号は記憶が戻ったのかも知れない。それで小夜の元にいられなくなってどこかへ行ってしまったのかも知れない。それならそれで良かった、八号には八号のやるべきことがあって、小夜の元にずっといられるわけじゃないのは最初からわかっていたことだ。
それでも、それでも。
「一言くらい、あっても良いじゃない……」
何も言わずにどこかへ行かれたら、残された者はどうすれば良いのか。何を思って去って行ったのか想像することしか出来ないで、これから先去った者に対して何を思えば良いのか。置き去りにされたことを恨めば良いのか、元々なかったものであるかのように忘れていけば良いのか。正直小夜には、どうすれば良いのかわからなかった。
駐輪場まで来て、綱吉の残したバイクへ目を向けると、綱吉と八号を同時に思い返してしまう。あのバイクを自慢のバイクだと誇らしげに語っていた綱吉と、興味深げにバイクを眺めていた八号。八号がもうどこかへ行ってしまったのかと思うと、バイクを見るだけで辛かった。
そうしてバイクに思いを馳せていると、アパートの裏の方でガタガタと物音が聞こえる。
「――八号!?」
思わず口にしたのは、そんな言葉だった。
しかしすぐに、どうせ野良犬か何かだろうと小夜は高をくくり始める。アパートの裏なんかに八号が隠れる理由がない。それでも、確認せずにはいられなかった。
「八号? そこにいるの? ねえ」
暗くてよく見えなかったが、アパートの裏でうずくまる人影があった。
「八号なの……?」
人影は何も答えない。ただ小夜を拒否するかのように手を伸ばすだけだ。
「……ねぇ」
「くるな……」
ここで初めて、人影が言葉を発した。声は確かに八号の声だったが、八号の声と同時に別の音声が再生されているかのように入り混じっており、まるでテレビの特殊音声のようだった。
「八号なんでしょ? なんでそんなとこに隠れてんのよ、悪ふざけなら怒るわよ」
「いいから来るな……来ないでくれ!」
八号の声は、真剣そのものだった。ふざけている様子はない、蹲ったまま手を伸ばして、小夜がこちらに来るのを拒否していた。
その伸ばされている左手の異様な細さに違和感を覚えながらも、小夜はゆっくりと八号へ近寄って行く。
「八号……?」
暗くてよく見えない。思わず小夜が携帯の電源を入れてライト代わりにすると、八号がもう一度やめろ、と声を荒げた。
「一体どうしちゃったのよ!」
八号の止める声も聞かずに携帯の画面を向けると、うずくまっていた八号が携帯のライトに照らされる。
「――っ!」
ライトに照らされた八号の姿を見て、思わず小夜は息を呑む。便宜上八号と表現したが、果たしてその人物は八号なのだろうか。
八号は黒髪でかなり短めでさっぱりとしたヘアスタイルだったが、そこにいる八号と思しき人物の髪型は八号とはまるで違っている。右半分は長く、腰まで達するようなロングヘアだったが、それとは対照的に左半分は肩にかかる程度のセミロングだ。おまけに色は滅茶苦茶で、金色の部分もあれば茶髪も混じっており、髪質も所々違うように見える。パーマ気味だったり、かなりカールしている部分もあればストレートな部分もある。もう何が何だかわからない髪型だ。
「八……号……?」
本当に八号なのかわからない。不安そうに小夜が声をかけると、八号は静かに顔をこちらへ向けた。
その八号の顔を見た瞬間、小夜は思わずその場にへたり込んでしまう。
「な、に……」
髪以上に顔は酷いものだった。眉毛の形もそろっておらず、右目は切れ長で一重の茶色い瞳だったが、左目は大きく違っている。二重で、まつげは少女のように長い。右目よりも大きいその左目は、外国人のような碧眼だ。
肌の色も滅茶苦茶で、色白なのか色黒なのかもわからない。まるで継ぎ接ぎの合成写真だ。
「み、見るな……!」
身体の形もどこか歪で、右腕と左腕で明らかにその大きさが異なっている。右胸は女性のような膨らみを持っているが、左胸にはない。今の姿を見られていることに耐えられなくなったのか、八号は不揃いの両手で顔を覆った。
「あなた、八号なの……?」
小夜の問いに、八号は答えない。しばらく顔を覆って小夜から目をそらしたまま、悲しそうに身を震わせるだけだった。
「ね、ねえ……」
小夜が手を伸ばすと、八号はそれから逃げるようにしてその場から駆け出してしまう。
「八号!」
小夜の隣を通りぬけ、八号は雨の中どこかへと走り去ってしまう。すぐに追いかけようと立ち上がったが、足元がもつれてしまって小夜はその場に倒れ込んでしまう。
姿も様子も、明らかに違ってしまっていたが、アレは確かに八号だった。八号とは似ても似つかない姿をしてはいたものの、アレは恐らく八号に間違いない。
そう思えば思う程、小夜は自分自身を責めた。何がどうなって八号があんな姿になってしまったのかはわからないが、あそこで怯えてへたり込んでしまったのは本当に良くなかった。まるで小夜が、八号を怖がっているようではないか。
実際、あの姿を見た時小夜は恐ろしくなった。アレが八号だとすぐには認めきれずに疑ったし、およそ人間とは思えないあの姿が恐ろしくて思わずへたり込んだのには違いない。
しかし、それは八号だってきっと同じだっただろう。八号だって変わってしまった自分が恐ろしくて、小夜にその姿を見せられないと思ったからあんな場所に隠れてうずくまっていたのだろう。そんな八号を支えられるのは、小夜だけだったかも知れないのに。
「何やってるんだろ、私……」
本当ならあそこで八号を支えるべきだった。小夜まで怖がってしまっては、八号だってどうすれば良いのかわからなくなるハズだ。
きっと八号は傷ついている。小夜が彼を怖がってしまったせいで、傷ついているだろう。
そう思うと、すぐに八号を追いかけなければならない気がした。服は雨に濡れて気持ち悪かったし、セットした髪も今は雨に濡れてグチャグチャだ。それでも、そんなことはどうでも良く思えるくらい、小夜はすぐに八号を追いかけようと思えた。
ぐちょぐちょに濡れたパンプスを脱ぎ捨てて、ストッキングが破けるのも構わずに小夜はその場から駆け出す。八号がどこへ行ったのかわからなかったけれど、とにかく急いで走った。
そうして少し走ったところで、小夜は誰かと正面からぶつかった。
「おやおや、こんな雨の中傘もささずに」
「す、すいません、急いでいて……。さっき、男の人がここを通りませんでした……!?」
ぶつかった相手は、白衣を着た中年男性だった。黒い傘をさしたその男は、小夜の問いに対してしばらく考えるような仕草を見せた後、小夜の身体を無理矢理抱き寄せた。
「――っ!? 離して! なんなんですか!?」
何事かとわめく小夜の口元をふさぎながら、男はアパートの駐車場へと小夜を連れて行く。そして一台の黒い車の後部座席に無理矢理小夜を乗せると、本人は助手席へと座った。
「人を呼びますよ!」
「やれ」
小夜の言葉には答えず、男は後部座席に乗っているスーツの男へ指示を出す。すると、男はポケットからなんらかの薬品を取り出してハンカチに染みこませると、そのまま竿の口へそれを押し当てた。
瞬間、小夜は意識が遠のいて行くのを感じた。ドラマや映画でよくあるクロロホルムかとも思ったが、あの薬品がこんな使い方で意識を失わせられるわけではないのはわかっている。ではこの薬品は何なのか。もしこれが一般的に認知されていない薬物か何かだとすると、これから連れて行かれる先で小夜が何をされるのかわかったものではない。どうにか逃げ出そうと暴れる小夜だったが、やがてゆっくりと小夜は眠りに落ちて行く。
「八号を直接捜さなくていいのでしょうか」
後部座席の男がそういうと、白衣の男は静かに首を左右に振る。
「その必要はない。他の奴らに捜させてはいるが、恐らくその女で誘き寄せられるだろう」
それに、と付け足して、白衣の男は言葉を続ける。
「八号は見つけたところでそう簡単に捕まえられん。我々のように非力な『ただの人間』ではな」
意味深にそう言った後、男が運転席の男へ指示を出すと、間もなくして車は出発した。向かっている先は、あのアパート付近の林の中だった。