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忘却に沈む 下

 結局、メールに関しては何もわからずじまいだった。香苗が落ち着いてからしばらく二人で考えたもののお互い心当たりはなく、薄気味悪くなるばかりだった。

「いっちゃん、私もう寝るね……」

 どこか力ない様子で、香苗はそう言って寝室へと向かう。

「ああ、俺ももうすぐ行くから」

 歩いて行く香苗の背中にそう声をかけ、紘一はもう一度思索を始めた。



 ゆっくりと階段を上り、香苗は二階の寝室へと向かった。いつもならもう少し起きているのだが、今はとにかく眠ってしまいたい。この嫌な気分も、眠って、明日になれば少しはマシになって欲しいと思うからだ。とにかく今はもう休みたい、というのが香苗の正直な気持ちだった。

 あまり広くない寝室には、紘一と香苗が二人で眠るためのダブルベッドが一つ。それ以外には、特筆すべきような物は置かれていない。

 香苗はベッドの中に横たわり、安堵の溜息を吐く。精神的に疲れているせいか、もう今にも眠ってしまいそうだ。このまま瞳を閉じれば、紘一が来るよりも香苗が寝てしまう方が早いかも知れない。

 そんなことを考えていると、枕元に一本の髪の毛が落ちていることに気がつく。ここ数日香苗と紘一を困惑させている、あの長く黒い髪の毛だ。

 少し前までは紘一が浮気したのではないかと疑っていたこともあったが、すぐにそれはないと断言出来た。香苗はほぼ一日中この家の中にいるため、家の中に香苗のいない時間などたかが知れている。そのため、紘一が香苗以外の女を家に連れ込んだ可能性は低い、というよりあり得ない。紘一が家にいる時間は、ほぼ必ずといって良い程香苗も家にいる。

「気持ち悪い……」

 だからこそ、この髪の毛の存在は気持ちが悪い。引っ越しセンターの人は男性ばかりで、こんな長い髪の人物はいなかったため、家の中にあるハズがないのだ。

 小さく溜息を吐いた後、香苗は少しだけ身体を起こしてその髪の毛をつまみ上げてベッドの外に放った。ゴミ箱の所まで持って行くような気力は、今の香苗には残っていない。

「いっちゃん、まだかな……」

 先に寝るとは言ったものの、やはりあんなメールが届いた後だ、一人きりは少し怖い。眠ろうと思えば眠れるが、眠りにつくまでの時間が怖い。出来れば、紘一に傍にいて欲しかった。

「えっ……」

 不意に、昼間感じる視線と同じ視線を感じ取った。自分を羨むような、そんな視線だ。

 羨望。と、香苗は紘一に言ったが、今感じているこの視線は羨望などではない。明らかな嫉妬だ。羨望だなんて、そんな綺麗な言葉で言い表すことが出来ない「嫉妬」の視線。

 しかし視線を夜中に感じたのは今回が初めてだ。常に視線は昼の間、紘一のいない間にだけ感じていたため、その違和感が余計に香苗の恐怖を煽る。

「――っ!?」

 香苗の髪の毛に、枕元から何かが触れた。慌てて身体を起こして枕元へ視線を移したが、枕の向こうにあるのはただの壁だ。それに、この部屋には今香苗しかいない。

 気のせいだろう。そう自分に言い聞かせ、香苗はもう一度ベッドへ横になった。恐ろしくて仕方がなくて、とにかく紘一が待ち遠しかった。

「返セ」

 しかし次の瞬間、奮える声が聞こえると同時に、香苗はガッシリと自分の髪の毛が掴まれるのを感じた。

「え……何っ!?」

 香苗が声を上げると同時に、香苗の髪はグイグイと壁の方へと引っ張られていく。頭皮に激痛が走り、思わず香苗はジタバタと暴れた。

「やっ……嫌っ!!」

 悲鳴じみた声を上げて暴れるが、香苗の髪は力強く引っ張られ続ける。このまま髪の毛ごと頭皮を引き千切られてしまうのではないかと思う程の力で、香苗の髪は強引に壁の方へ引っ張られていくのだ。この部屋には、香苗しかいないハズなのに。

「……ノ……チ…………返セ」

「いやあああああっ!!」

 壁の方から、先程聞こえた声と同じ声質の声が聞こえてくる。あまりの恐ろしさに悲鳴を上げる香苗だったが、香苗の髪を引っ張る力は一向に弱まらない。

「痛いっ……! 痛い!」

 態勢のせいもあり、香苗には見ることが出来ないが、香苗の髪の毛を引っ張っているのは腕だった。青白く、細い腕。まるで壁から生えるように現れたその腕は、香苗の髪をその細さからは考えられないような力強さで強引に引っ張っていく。

「やっ……めっ……!」

 泣き出してしまいながらも、壁から現れた腕に香苗の右手が触れた――その時だった。

「香苗!」

 勢いよく寝室のドアを開け、中へ入って来たのは紘一だ。紘一が寝室に入って来るのと同時に、香苗の髪を引っ張っていた腕は一瞬にして掻き消えてしまう。しかしそれに気付かず、香苗は泣きながらジタバタと暴れ続けた。

「どうした!?」

「髪がっ! 引っ張られて……!」

 そこまで言って、香苗は既に自分の髪が引っ張られていないことに気が付く。目に涙を浮かべたまま、不思議そうな顔で頭に触れる。

「あっ……」

 痛みはまだ残るが、もう引っ張られてはいない。

「あ、あれ……?」

「悲鳴が聞こえたから慌てて来たんだが……」

「た、確かにさっきまで引っ張られて……」

 枕元の方を見るが、そこにはただ、真っ白な壁があるだけだった。

 だが、気のせいなどではない。髪の毛を引っ張られ続けていたのは確かだし、現に今でも引っ張られた時の痛みが少し残っている。

「……寝ようか」

 紘一は言及しようとはせず、香苗の隣へそっと横になった。

「明日は、仕事休むよ」

「うぅん、私なら大丈夫だから、気にしないで。それにそんな急に休みなんて取れないでしょ……」

「そういうわけにはいかないだろ。上には俺が何とか言っとくから、ちょっと息抜きに、買い物でも行こう」

 紘一はいつもこうだ。自分のことなんてお構いなしに、香苗を心配して何かしようとしたがる。それが嬉しい反面、自分のせいで紘一に迷惑をかけてしまうのが、香苗は嫌だった。だからこそ心配かけないようにしなければならないし、仕事を休ませるわけにはいかない……そう思っていながらも、香苗は紘一の提案にコクリと頷いた。得体の知れない何かが本当に怖くて、とにかく紘一に傍にいて欲しい、そう思ってしまう。少し申し訳なかったが、明日は紘一の好意に甘えることにしよう。

「何ヶ月ぶりかのデートだな」

 そう言って、紘一は優しく微笑んだ。









 翌朝は、スッキリと目覚めることが出来た。上にはかなり怒鳴られたが、どうにか理由をつけて休みを取ることは出来た。そのおかげで、ゆったりとした朝を過ごすことが出来る。それもあってか、昨夜は怯え切っていた香苗も翌朝には少し回復しており、いつもの元気を少し取り戻していた。

 後は買い物にでも出かけて気晴らしをすれば大丈夫だろう。根本的な解決にはなっていないが、これ以上怯えていたり元気がなかったりする香苗を、紘一は見たくなかった。

「それじゃ私、部屋で化粧してくるから」

「はいよ」

 化粧と言っても、香苗はそれ程時間はかけないだろう。食卓でゆっくりと朝刊に目を通しながら、紘一はコーヒーをすすった。



 自室へ入り、香苗は鏡面台の前へ座る。この部屋には鏡面台の他にデスクやクローゼットもあるのだが、基本的にこの部屋は身支度をする時くらいしか使わない。

 結婚以来久しぶりのデート、ということで香苗はいつになく張り切っていた。昨夜あんなことがあったばかりで不安になっていたのを、紘一が心配してくれているのが、申し訳ない反面堪らなく嬉しかった。

 昨夜のことやメールのことは忘れて、今日は一日息抜きをしよう。そう思った時だった。

「ん……?」

 鏡を通して見える香苗の背後を、何か黒い影が横切った気がする。人影だったような気もするが、当然この部屋には香苗しかいない。

 一瞬、昨夜のことを思い出すが、香苗はかぶりを振って後ろを振り返る。案の定、背後には誰もいなかった。否、いるハズがないのだ。視線だって今朝は珍しく感じない、きっと今日は何事もないだろう。そう思って、香苗が鏡へ視線を戻した時だった。

「ァァァァァァァァァ!」

 声を上げる隙もなく、悲鳴にも似た奇声と共に香苗の首はガッシリと掴まれた。最初に香苗の視界に入ったのは、鏡から這いずり出るような形になっている、上半身だけの女だ。黒く長い髪が顔を隠しているため、どんな顔をしているのかはわからないが、恐ろしく覗きこむ気にもなれない。

 首を絞められているため、香苗はまともに声を上げることすらままならない。香苗はただそこでジタバタと暴れることしか出来なかった。

「返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ返セ」

 何を返せというのか、女は何度も「返セ」と繰り返しつつ香苗の首を絞め上げていく。

 狂ったように同じ言葉を何度も何度も吐き出し続け、女は髪を振り乱しながら首を縦に振り始める。そのせいで、女の顔を隠していた長い髪が舞い上がり、その顔が一瞬露になった。

「――――っ!」

 異常な程に真っ白なその顔は水ぶくれのように膨れ上がっており、とても直視出来たものではなかった。よく見ると、女の顔からはポタポタと水が滴り落ちている。見るもおぞましい顔を歪めながら、女は一心不乱に香苗の首を締め続けていた。

 あまりの出来事に怯えながら、香苗は自由な手足を必死に動かしてジタバタと暴れまわる。その結果、鏡面台に右足が直撃し、化粧箱が音を立てて落下した。

 その音に反応したのか、女は再び奇声を発すると、更に強く香苗の首を絞めていく。

 徐々に、香苗の意識が薄れ始めた――その時だった。

「香苗!」

 勢いよく、部屋のドアが開かれた。と、同時に香苗の首を絞めていた女の姿はあとかたもなく消えていく。

「ごほっ……ごほっ……!」

 苦しげに咳き込む香苗の元へ、紘一は慌てて駆け寄った。

「香苗、大丈夫か!」

「なん……とかっ……」

 苦しそうに答えた香苗の首筋に、紘一の視線が向けられる。

「え……」

 赤く残った、手形。香苗の首には、確かに何者かに首を絞められた痕があるのだ。それもクッキリと、明確に。

「香苗、ちょっと向こう向いてくれ」

 小さく頷き、香苗は言われるままに紘一に背中を向けた。紘一は香苗の髪を分け、首筋を見つめる。

 香苗が自分で絞めた可能性はない。自分で絞めたのなら、小指の痕が一番上にくるハズだ。しかし香苗の首筋に残った痕は、小指が一番下に来ていた。身体の構造的に、自分で絞めたのならそうはならない。両手を交差して絞めたのなら、小指は一番下になるが、それだと形が変わってしまう。つまり香苗は今ここで、何者かに首を絞められたのだ。それも明確な殺意の元に。そうでもなければ、これほど強烈な痕は残らない。

 鏡面台の傍には、香苗がいつも使っている化粧品と化粧箱が転がっている。そしてその床には、水滴が落ちていた。化粧水等をこぼした形跡はない。香苗の涙か何かだろうか。

「香苗、何があった……?」

「髪の長い……女の人がっ……首を……!」

「突然、現れたのか?」

 小さく、香苗は頷いた。

「どこかに隠れて……」

「違うと……思う……」

「違う?」

「あの人……生きてない……」

「……生きてない?」

 香苗の言葉に、紘一は訝し気な表情を見せた。

「生きてないって……幽霊か何かってことか?」

 香苗は静かに首肯するが、紘一は信じられない、といった表情のままだった。

 それも当然だろう。紘一は、霊などという非科学的な存在を信じていないからだ。子供の頃は信じていた時期もあったが、大人になるにつれてそういったものに対して否定的になっていった。それは今も変わらない。

「家に落ちてる髪の毛……あれ、多分私の首を……絞めた人の物だと思う」

 かなり呼吸が整ってきたのか、香苗はスムーズに喋り始めた。

「長さも同じくらいだったし……」

 何も見ていない紘一には、何とも言えなかった。しかし、香苗が嘘を吐いているとは思えない。今の香苗は嘘を吐けるような精神状態ではないハズだし、香苗の目は真剣そのものだった。

「メールも……視線も、多分同じ人」

 naya_kouiti_forever@docame.co.jp

 脳裏を過る、奈弥のメールアドレス。これを送ったのが香苗の言う「幽霊」だとすれば……

 ――――その幽霊というのは、奈弥なのか?

 嫌な想像にかぶりを振り、紘一は静かに香苗の肩に手を回した。

 今は原因の究明よりも、香苗を一秒でも早く安心させたい。


 床に落ちていた長い髪が、ハラリと風もなく舞い上がった。









 仮に奈弥なのだとしたら。そう仮定すると、辻褄が合うような気がした。

 奈弥の異常な独占欲。それが死後も続いているのだとすれば、こうして今も紘一を独占しようとして香苗に危害を加えている、という風に考えられなくもない。長い髪、メールアドレス、香苗に襲い掛かった「幽霊」らしき女が奈弥であるという証拠は十分にそろっていた。

 しかし紘一には信じられない。奈弥がどうこうというよりは、そもそも心霊現象というものが信じられないのだ。香苗には多少霊感があるのかも知れないが、紘一には微塵もないし、紘一はこれまでの人生で一度足りとも心霊現象に関わったことなんてないのだ。いくら証拠がそろっているとは言え、幽霊の仕業ですと言われてはいそうですかと納得出来る程紘一は柔軟ではない。かと言って、香苗の身に起こった現象を幽霊以外で説明する術を紘一は持たなかった。

 仮に幽霊だとして、それをどう解決すれば良いのだろう。高名な霊能者にでも除霊してもらうのか。生憎紘一は霊能者なんてものを信じられないし、テレビに出ている自称霊能者だって全員儲けるために嘘を吐いているようにしか見えない。

「奈弥さんの霊を……鎮めることって、出来ないかな……?」

「霊を鎮める?」

 紘一が香苗の言葉を繰り返すと、香苗は小さく頷く。

 あの出来事からしばらく、香苗は怯えて取り乱したままだったが今はある程度落ち着きを取り戻している。奈弥の霊が潜んでいる可能性のある自宅に居続けるわけには行かず、紘一と香苗は近くの喫茶店で軽食を取りながら今後について話し合っていた。

「うん……。どうすれば良いのか私にもわからないけど、死んだ人が霊になるってことは、何か未練があるんじゃないかな」

「未練、奈弥の未練か……」

 奈弥の未練。紘一が真っ先に思い浮かべたのは、紘一自身のことだ。死後も奈弥が紘一に執着して、それが未練なのだとしたらどうすれば良いのだろう。紘一が死んで奈弥の元へ行けば鎮まるとでも言うのだろうか。

「十中八九いっちゃんのことかなって思うけど……そんなのどうすれば良いんだろ……」

「……それは十分あると思うけど、まだ見つかってない奈弥を殺した犯人ってのはどうだ? 死者が未練を持つには十分な理由だと思うけど」

 そう口にしながらも、紘一は心の底で馬鹿馬鹿しい、と思わずにはいられない。死んだ人間が、いくら未練があるからってそう簡単に出てきたりはしない。そもそも出てくるハズがない。そんな科学的な根拠を持たない現象を、紘一はやはり信じる気にはなれなかった。

「ある……かも。でもどうするの? 警察が捜しても見つからなかった犯人なんて……」

「とにかく捜してみるしかないだろ……。これ以上、このままにはしておけない」

 奈弥が死んだ当時、紘一は犯人を捜そうとはしなかった。警察に任せるばかりで、紘一は奈弥のことを忘れたいかのように事件や奈弥から離れていった。

 そういえば、ロクに墓にも行っていない。

 ただただ、忘れたかったのかも知れない。奈弥を失ったという事実から目を背けたくて、こんなことになるまで逃げ続けていた。もしかするとこれは、奈弥を忘れようとした紘一に対する罰なのではないかとさえ思えてきてしまう。

 どちらにせよ、紘一にはもう一度奈弥と向き合う必要があった。





 香苗を一度友人の家に預け、紘一は前に住んでいたアパート……蔵咲くらさき荘へと向かった。家からアパートまでは少し遠いが、徒歩で行けない距離ではない。一時間近く歩くだけで、蔵咲荘へは辿り着くことが出来た。

 久しぶりに見る蔵咲荘の外観は、どこか感慨深いものがあった。引っ越して以来一度も蔵咲荘を訪れていなかったせいだろう。

 こんなところに訪れたって、犯人など見つかりはしない。それは紘一自身わかっていたことだし、そもそも犯人を見つけたところで奈弥が鎮まるとも思えない。何をするにもまず、紘一自身が奈弥ともう一度向き合う必要がある、そう考えての行動だった。

 紘一は大家さんの元へ向かい、前に奈弥と暮らしていた部屋の鍵を借りた。どうやらまだ誰も借りていないらしい。大家さんからく詳しい話を聞いてみたところ、霊の出る部屋として広まっているらしく、実際紘一より後にあそこへ住んだ人が霊を目撃し、心霊現象を体験したという話があるようで、そんなことが続いたせいであの部屋には誰も住みたがらないらしいのだ。勿論紘一は半信半疑だったが、大家さんの口ぶりは至って真剣で、心底困り果てている、といった様子だった。何しろ怪奇現象の起こる部屋、という噂のせいで蔵咲荘の評判自体が落ちているようで、蔵咲荘の入居者自体、今はほとんどいないらしいのだ。

 502号室。蔵咲荘五階の、二つ目の部屋。

「奈弥……」

 呟き、紘一はゴクリと唾を飲み込むと、ゆっくりと鍵を鍵穴に差し込む。カチャリと懐かしい音がして、502号室のドアが開かれた。

 ドアの向こうは、あの頃とほとんど変わらなかった。狭い玄関に、細く狭い廊下。このまま真っ直ぐ進めば、キッチン兼台所へと辿り着く。

「……!」

 一歩中へ踏み込んだ瞬間、空気が変わった気がした。

 先程までとは雰囲気が変わり、どこか禍々しいものを感じる。紘一には霊感なんてものはないが、とにかくどこか気持ちが悪い。

 ゴクリと。紘一はもう一度唾を飲み込んだ。

 心臓を直接圧迫されているかのような緊張感。この家の中に、「何か」がいるのだということを、頭ではなく身体が先に感じ取っているかのようだ。頭では否定していても、ただならない何かを直感的に感じてしまう。生き物としての本能が、この部屋から逃げ出したがっている。

 玄関で靴を脱ぎ、廊下へ一歩踏み出す。その頃には呼吸が荒くなっていた。

「ハァ……ハァ……」

 緩慢な動作でリビングへと向かい、ゆっくりとフローリングへ腰を下ろす。だが、気持ちは少しも休まらない。

 直感的に、奈弥がまだこの部屋のどこかにいるのだと感じた。

 ――――どういうことよ! 私以外の女とは関わらないって言ったじゃない!

 奈弥の怒鳴り声がまざまざと蘇る。最後に喧嘩したのは、そうえいばこの部屋だったか。

 人の携帯を勝手に確認して、交友関係を調べて、一人でも女性の名前を見つけると怒り始める。正直手がつけられなかった。後輩の女の子とアドレスを交換しただけで大暴れだ。

 あの日、最後の日は特に大きく荒れていた。そもそもあの時期、紘一の方もかなり我慢の限界が来ていた。あまりにも過剰に紘一を縛ろうとする奈弥に対して、紘一はあてつけのようにわざと様々な女性と交友関係を持とうとしていた。それが奈弥にとって大きなストレスであることはわかり切っていたが、紘一だって事あるごとに奈弥に糾弾されるのはストレスだ。


 冗談じゃない、縛られてたまるか。

 縛るですって? 私との関係のこと、貴方はそんな風に考えていたの!?

 勝手に携帯まで確認して、こんなに束縛されてうんざりしてるんだ!

 私は……私は、貴方に私だけを見ていて欲しいの!

 そんな子供みたいなことを、奈弥は言っていた。自分だけを見ていて欲しい、他の誰にも取られたくない。とにかく独占欲の強い女だった。

「あ、れ……?」

 その後、その後どんな会話をしたのか。

 お互いに怒鳴り合って、最後には奈弥の方が掴みかかってきた。どこにも行かないで、ここにいて、殺してでも貴方といる、そんな狂ったようなことを奈弥は言い始めていた。

「痛ぅ……!」

 不意の頭痛に、紘一は左手で頭を押さえる。チクチクと頭の中が小刻みに痛む。無数の蟻が頭の中で這いずり回っているかのような不愉快な感触。

 何か、忘れていることがある。

 何か、無理矢理忘れようとしたことがある。

「これ……は……」

 じわじわと、それでいてクッキリと、蘇る映像がある。フローリングに、黒い髪が広がっていた。彼女は怯えていて、両手を塞がれながらも首を振りながら怯えていた。

 暴れる彼女を無理矢理に抑えつけた手の感触。指には、彼女の髪が絡まっていた感触が残っている。

 強く、強く強く握った、握りしめた。

 か細いソレを、やめてと繰り返すその細い首を、強く、強く。

 紘一の首筋に、背後からそっと触れる手があった。青白くて、ひんやりとしてその手はそっと紘一の首筋を撫でる。

 紘一の背後に、長い髪を前に垂らした女が座り込んでいた。紘一に何かするでもなく、ただそっと首筋を愛おしげに撫で続けている。それに気づいて紘一が振り向くと、女は音もなく消え去ってしまう。

「奈弥……」

 女が消えると同時に、紘一を襲っていた頭痛は引いていく。そして一度目を見開いた後、紘一はその場にうなだれた。

 今なら鮮明に思い出せる。忘れていた――否、押し込めていた記憶。

 殺した。

 この手で、激情のままに、紘一は奈弥を殺した。腕力で無理矢理彼女を抑えつけ、首を絞めて殺した。

「は、はは……犯人、……見つけた……」

 自嘲めいた笑みを浮かべて紘一は立ち上がり、静かに嘆息する。

 殺した、この手で。

 両手に蘇った感触は、まるで彼女の首へ手をかけていたのがついさっきのことであるかのように鮮明で、クッキリとしていて。

 自覚した瞬間、紘一は狂ったように叫び始めていた。

 床に崩れ落ち、何度も手を床にこすりつけたところで、感触は拭えない。

 何度手を床に、壁に、こすり付けても決して消えない。

 生暖かさが残る。その暖かさが次第に冷えていく感触も、鮮明に思い出せる。

 手が震えた。

 汗が滲んだ。

 声が掠れた。

 頬が濡れた。

 いつの間にか濡れている床が、紘一が失禁してしまったことを自身に理解させた。

 どこかから冷えた風が吹いて、紘一はそっと自分の肩を抱いた。

 ああ、もう冬か。

 そんなことを、考えた。





 二十三時十三分。奈弥は死んだ。

 すぐに自分が何をしでかしたのか気がついた紘一は、素早くアリバイ工作に取り掛かった。人一人殺したというのに紘一は驚く程に冷静で、車に奈弥の遺体を乗せて近くの貯水池へと向かった。時刻も時刻だ、人通りもあまりない。紘一は奈弥を貯水池へ強引に投げ捨てた後、コンビニへ向かった。当然、コンビニへ向かって帰って来なくなった奈弥を捜しに行った、というアリバイ作りのためだ。

 警察には自ら通報し、妻が帰って来ないと喚き立てる。後は警察に任せるだけだ。数日後に貯水池から奈弥の遺体が発見された。当然一度紘一も疑われたが、紘一は嘘を吐き通した。

 そして彼女を忘れ、彼女を遠ざけ、ずっと今日まで逃げ続けていた。


 全てを思い出した後、紘一は蔵咲荘を出て、まるで吸い込まれるかのように貯水池へと向かって行った。何をどうしたかったのかわからない、ただ足が自然と貯水池の方へ向かって行ったのだ。

 ここの貯水池は、以前出入口の鍵が壊れたまま放置されていたため、開けっ放しのままだった。奈弥の事件の後から鍵が整備されたため、今は簡単には入れない。

 それでも紘一は、入り口のフェンスをよじ登って貯水池の中へと入っていく。何がそうさせるのかは紘一にもわからないが、とにかくフェンスをよじ登ってでも、奈弥の遺体を捨てたあの場所に辿り着かないといけない気がした。

 有刺鉄線で手足を多少傷つけながらも、紘一は無理矢理フェンスの内側へと入った。入り口からは短い橋がかけられており、そこから貯水池全体を見渡すことが出来る。紘一が奈弥の遺体を捨てた場所は、正にここだった。

 心臓が脈打つのがわかる。

 額を嫌な汗が流れるのがわかる。

 自分の呼吸が、荒くなり始めているのがわかる。

「ハァ……ハァ……!」

 水面を見つめながら、紘一はあの日の光景を思い返していた。水面に揺れる長い髪、もう助けを求めることさえ出来ない死体の奈弥は、ゆっくりと静かに沈んで行った。

「俺はここに、置き去りにした」

 彼女を、奈弥をここに置き去りにした。

「君を置き去りにした」

 紘一がそう呟くと同時に、背後で洗い息遣いが聞こえた。

 ハァッハァッ

 背後から息が、紘一の耳にかかる。

「……」

 ハァッハァッ

 息遣いが、近くなる。

 ハァッハァッ

 濡れてベットリとした何かが、頬に貼り付く。気色悪くて取り払いたかったが、紘一はあえてそれをしなかった。

 ハァッハァッ

 それでも、恐る恐る触れてみると、頬に貼り付いたソレは水で濡れた長い髪の毛だった。その髪の毛の主を、紘一はすぐに確認することが出来ずにいる。

 ハァッハァッ

 紘一の背後にいる何かは、紘一の肩越しからそっと頭を乗り出す。

「ハァッハァッ」

 気がつけば、「彼女」と同じタイミングで、紘一は息をしていた。

 彼女は何も言わない。紘一は意を決したかのように、肩越しの顔を覗き込む。

「あ……ああ……!」

 恐怖で、ガタガタと身体が震えた。直視したくないハズなのに、視線を逸らすことが出来ない。

 長い髪の隙間から見えたのは、確かに奈弥の顔だった。いや、実際その顔は原型をほとんどとどめておらず、奈弥だと確信するのは難しい。ただ直感的に、彼女は奈弥だと判断していた。

 その顔は、まるで水死体のようだった。

 真っ白な奈弥の顔は、水ぶくれのように膨れ、とても直視出来るような状態ではない。奈弥の美しい顔をこんな風にしたのは、紘一自身だった。

 奈弥の顎先から、ポタポタと水滴が落ちている。まるで今さっき水辺から上がってきたかのようだ。

「奈……弥……」

 罪悪感、圧迫感、恐怖心、潰れそうになる心臓は、それでも鼓動を止めない。

 後ろからそっと、奈弥は紘一へ抱きつく。ひんやりとした、死体のように冷たい手が、紘一の手に触れる。そこで、紘一はどこか悟ったかのような表情を浮かべた。

 紘一はそれを拒まない。むしろ奈弥へ身を委ねるかのように、身体の重心を奈弥へ預けた。

「わかった、ごめんな、一緒にいるよ」

 紘一がそう呟くと、奈弥は満足げに目を閉じる。それと同時にゆっくりと奈弥の身体が、紘一を抱きしめたまま水の中へと落ちていく。

 紘一は抵抗しようとはしなかった。まるで全てを受け入れたかのように目を閉じて、奈弥と共に水の中へと落ちて行く。

 もう紘一には、こうすることしか出来ない。奈弥を傷つけて、殺して、置き去りにした紘一が、彼女に対して出来る罪滅ぼしは一つしかなかった。

 ――――私達二人が、永遠に一緒にいられますように。

 そんな彼女のメールに、紘一は確かこう答えた。

 ――――約束しよう、永遠に一緒だと。

 自分から約束しておいて、紘一は一方的に奈弥を裏切った。彼女を疎ましく思い、自分勝手な都合で殺して、水底に沈めてしまった。

 ゆっくりと沈んでいく中で、紘一はそっと奈弥の身体を抱きしめる。冷たい、真っ白な身体を温めるように、紘一は強く奈弥を抱きしめる。段々自分の身体も冷えて、彼女の体温に近づいていく。

 ごめんな、香苗。

「結局俺は、置き去りにしてばかりだ」









 須々田紘一の遺体は、彼が妻の香苗の前から姿を消して数日後に発見された。死因は溺死で、貯水池から引き上げられた時にはかなり凄惨な水死体となっていた。顔の原型がわからない程に膨れ上がってはいたものの、その表情はどこか安らかだった。

 原因は不明、警察は自殺の線で捜査を進めているが、何故紘一が貯水池で溺死するに至ったのかはわからずじまいだった。

 そしてそれ以来、心霊現象が香苗を襲うことはなくなったという。


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