忘却に沈む 上
ゆらりと。長い髪が水中で揺れていた。
どこからかひんやりとした冷たい風が吹き込んで来て、そういえばもう冬か、だなんてことをぼんやりと考えながら男は肩を抱いた。
男はただ、空虚な瞳で水中を見つめている。彼女の長い髪がゆっくりと沈んでいき、段々遠くなっていく。どうせ届かないから、男は手を伸ばそうともしなかった。
彼女の美しく長い髪に惹かれ、声をかけたのを今でも覚えている。あれから何年経ったのか明確には思い出せず、ぼんやりと彼女を見つめたまま過去の記憶を反芻する。
もう一度、冷たい風が吹いて来る。身も心もひんやりと冷えて、男は白い吐息をこぼした。
ああ、もう冬か。
同じことをもう一度、ボンヤリと考えた。
もうすぐ秋が終わる。ついこの間まで蒸し暑かったかのような錯覚さえ覚えるが、暦の上ではとっくに秋は過ぎているため、寒くなってくるのも当然と言える。差し込んでくる木漏れ日が温かく、その温かさとは対照的な風の冷たさに、冬を感じた。
静かな所だった。エンジン音や喧騒じみた音は一切聞こえず、鳥の囀りや風の音のような自然な音ばかりが鼓膜を刺激する。
自然に囲まれた景色は、眺めるだけで心が落ち着く。特に穏やかな昼下がりなんかは大地に身体を預けて眠ってしまいたいくらいだ。
人里から少しだけ離れた、この自然の多い場所に家を建てることにして良かったなと、須々田紘一は改めて実感していた。前に住んでいた家と同じ町内だが、開発の進んでいないこの場所だけまるで別世界のようだ。建設会社の人も、何故こんな所にわざわざ建てるのかと訝しげな表情をしていたが、とにかく静かな場所に住みたい、そう考えてこの場所を選んだ。
紘一は今年で三十六になる。収入も安定してきているし、養うべき嫁もいる。いい加減アパート暮らしをやめて一軒家に住みたいとは前から思っており、その時から「自然の多い静かな場所に家を建てる」と決め込んでいた。そんな紘一の意見に、妻の香苗も喜んで賛同してくれたため、貯蓄もあったおかげで引っ越しは随分とスムーズに進んだ。
紘一の目の前では、一台のトラックが停まっている。トラックの中には大量のダンボール箱が積まれており、それを配達員がせっせと家の中へと運んでいた。
建ったばかりの新居は、決して大きいとは言えない。一軒家としてはどちらかというと小さい部類だが、別に大きな家である必要は少しもない。香苗も紘一もあまり派手なものは好まなかったため、このくらい小じんまりしている方が性に合う。
「もう! ボーっとしてないで手伝ってよ!」
玄関のドアが開き、顔を出したのは香苗だ。セミロングの茶髪と、スレンダーな体型が特徴的な、二十代後半の女性である。服装も化粧も地味めで、彼女のそういうところが紘一の好みだった。
少しだけ頬を膨らませつつ、早く手伝ってよ、と言わんばかりに紘一を手招きする彼女の様子に苦笑しつつ、紘一はゆっくりと彼女の元へ歩いて行く。
「いっちゃんもダンボール運ぶの手伝ってってば」
いっちゃん、というのは紘一の愛称で、紘一の一から取ったらしい。普通紘から取ってこうちゃんだったりするのだが、香苗は気に入ったのかいっちゃんと呼び続けている。こんな妙なあだ名の付け方をするのは彼女だけなので、当然この呼び方をするのは香苗だけだ。それが少し特別なもののようにも思えて、いっちゃんと呼ばれる度に紘一は少しむず痒いような嬉しさを感じている。
「ああ、そうだな。すまん」
そう言って笑いながら、紘一は段ボールの運び出しを手伝い始める。日頃の運動不足がたたって、重たい段ボール運びは四十手前の身体には多少こたえた。
香苗と知り合ったのは、三年前のことだった。
前の妻を失い、意気消沈して半ば自棄気味に紘一が居酒屋で独り飲んだくれている時、たまたま出会って意気投合したのがきっかけだった。香苗は当時振られたばかりだったらしく、紘一と似たような勢いで飲み続けていた。そのため、酔った勢いで話しかけると思いの外気が合いあれよあれよという間に付き合うまでの関係に至る。そして今年の春、結婚することになった。バツイチで三十路過ぎの紘一を、香苗とその両親は思いの外快く受け入れてくれたことに関しては、感謝してもし足りないくらいだ。
重たい段ボールを運びながら新居を眺め、紘一は小さく嘆息する。奈弥にも、こんな新居に住ませてやりたかった。
前の妻、奈弥が亡くなったのは香苗と知り合う二週間前だ。近くのコンビニへ買い物に出かけてから帰ってこなくなったのを訝しみ、紘一が通報した所、近くの貯水池で遺体として発見された。死因は明らかな他殺。首を絞められた形跡があり、貯水池で遺体が見つかったのは溺死したのではなく犯人が貯水池へ死体を遺棄したためだろう。犯人は未だに見つかっていない。死体は非常に凄惨なもので、今でもその光景が脳に焼き付いて離れない。水中に遺棄されていたせいで、顔は水死体のようになっており、原型をほとんどとどめていなかった。
奈弥は元々敵の多い女だった。美人だが、独占欲が強く嫉妬深かった彼女は、紘一と関わりのある女性にはほぼ全員突っかかっていたし、紘一も詳しくは知らないが学生時代もかなり色々あったようで、調べれば調べる程奈弥に殺意を持っている可能性のある人物のリストが増える程だ。恐らく犯人は近隣に住んでいる人物だと推測されているが、結局現在も事件は未解決のままだ。
奈弥と最後にした会話が、喧嘩だったことを思い返すと、未だに悔恨の念で気持ちが重くなる。同僚の女性と軽く食事をしただけで目くじら立てて怒り始めた奈弥の気持ちを、紘一はもっと考えてやるべきだったのかも知れない。奈弥はいつもそうだった、紘一が奈弥以外の女性と関係を持とうとすれば必死になって止めたし、その度に紘一を糾弾していた。当時こそそれを煩わしく思っていたものだったが、もう少し奈弥の気持ちを考えてやるべきだったように思えてならない。奈弥のことを考えれば考える程、自責の念や後悔の念で頭がいっぱいになってしまう。彼女のことを忘れ去ろうにも決して消えず、何度拭ったところで滲みもしない。
「ほら、早く運んで」
「はいはい」
急かす香苗にハッと我に返り、紘一はいつの間にか手を止めてしまっていたことに気がついた。
「ボーッとしたかったら、さっさと運んでやることすませちゃおうよ」
「……それもそうだな」
戻らぬ過去を悔やみ続けても仕方がない。今は、香苗と共に過ごす現在を大切にするべきだろう。
額に滲んだ汗を拭った後、紘一は段ボール運びにより一層精を出した。
あれから二時間近く経ったところで、ようやくダンボール運びは終了した。終わる頃には汗だくになっている紘一に対して、同じようにダンボールを運んでいたハズの香苗の方が遥かに発汗量が少ない。どうやら香苗は、ダイエットがてらボクシングジムに通っていた時期もあったらしく、紘一とは体力に差があるらしい。
荷物は運び切ったが、次は開封して中身を整理しなければならない。家具等は今回の引っ越しを機にほとんど新調したのだが、他の物はそうもいかなかった。
「お風呂、沸かしてあるよ」
リビングから玄関付近まで、ずらりと並ぶダンボール箱を眺めていると、香苗はリビングから顔を出してそう告げた。
「ああ、ありがとう。先に入っても良いのか?」
「良いよ。いっちゃんの方が汗かいてるし」
「そうだな……。ありがとう」
そう言って、まだ把握出来ていない風呂場の位置を探しつつ家の中をうろうろと歩く。数分としない内に見つけ出すことが出来たが、着替えを用意していないことにふと気付く。億劫に思いながらも取りに行こうとしたが、既に風呂場には籠と着替えとタオルが用意してあり、紘一は頬をほころばせた。
こういう気の効くところが、香苗の好きな所の一つだ。
一通り身体を洗い終え、ゆったりと湯船に浸かる。温かな湯が身体を芯まで温め、紘一をリラックスさせる。何とも言えぬ気持ち良さに、紘一は酔いしれるように目を閉じた。
それでも、風呂はあまり長居したい場所ではない。
奈弥のことを自然と思い出すからだ。今はもういない前の妻を、自然と思い出す。彼女は風呂が好きで、事あるごとに風呂に入りたがったのを今でも思い出す。
目を閉じて、ボンヤリと奈弥の姿を瞼の裏に思い描く。痩せ気味だが、整っていて美しい顔立ち。学生時代に惚れ、少しずつ関係を深くしていく内に奈弥の方に告白されて付き合い始めた。学生時代の恋愛が結婚まで辿り着くなんて、当時の紘一には想像も出来なかった。
しかし結婚してからの彼女は、紘一が思っていた女性とは程遠かった。事あるごとに紘一を束縛し、奈弥以外の女性との関係を強引に断ち切らせた。彼女のせいで絶縁状態になった友人は何人もいるし、それは女性に限った話ではない。同窓会やその類の集まりにも参加させてもらえず、休日はほとんど家の中に縛り付けられていたようなものだ。そんな生活が続けば、紘一にだって限界が来る。
最後のやり取りなんて本当に酷かった。ヒステリックに喚き散らす奈弥と耐え切れずに怒鳴る紘一。最後には、奈弥の方から掴みかかってきた。
それで、それでその後……どうなったのか、紘一はうまく思い出すことが出来なかった。頭にモヤがかかってしまったようで、記憶が判然としない。思い出そうとしても、次に思い出すのはいなくなってしまった奈弥を必死で捜していた時のことだ。
しばらく考えた後、奈弥の映像を振り払うかのように紘一は首を左右に振った。いつまでも前の妻のことを引きずるのは良くない。何より、香苗に悪い。
「さて、上がるかな」
誰に言うでもなく独り呟き、ゆっくりと風呂から上がろうとした時だった。
「……?」
ゆらりと。湯船で揺れていたのは一本の髪の毛だった。
黒く、長い髪の毛だ。勿論紘一の髪ではなかったし、香苗の髪でもない。
髪の毛を右手でそっとすくい上げ、眺めて見るが誰の物なのか見当がつかない。
「……奈弥?」
ふと、前の妻を思い出す。彼女の髪は、こんな風に長く美しかった。しかし、それはあり得ない。奈弥はもう三年前に死んだのだから。
風呂上がりに香苗にも聞いたが心当たりはないとのことだった。
引っ越してからの新生活は、何事もなく続いた。仕事でクタクタになって帰る紘一を、専業主婦である香苗が夕食を作って待っている。そんな何ともない、穏やかなだけの日々が続いていた。紘一も香苗も、そんな日々がいつまでも続けば良いと思っていたし、続くと思い込んでいた。
しかしある日、紘一と香苗が二人で夕食を取っている時のことだった。
「ねえ、最近視線を感じるんだけど」
唐突に、香苗がそう切り出した。
「視線? 外でか?」
紘一の問いに、香苗は静かに首を左右に振る。
「私も変だと思うんだけど、家の中で」
「家の中で……?」
怪訝そうな顔をする紘一に、香苗は小さく頷いて見せた。
「ずっとってわけじゃないんだけど、時々嫌な視線を感じるの」
「気のせいじゃないのか?」
「そうだと良いんだけど……」
そう言った香苗の見せる物憂げな表情には、精神的疲労の色が伺える。香苗の感じている「視線」が原因だろうか。いくら家事があるとは言え、香苗は肉体的にならまだしも、精神的に疲れるような生活はしていないハズだ。それとも、紘一の知らない所で対人関係に悩んだりしているのだろうか。しかしこの家の場所から考えて、ご近所付き合いとは考えられない。ここ数日の間に家や友人関係で何かあったような話も聞いていない。
「何かあったのか? お前疲れた顔してるぞ」
「うぅん、何もない。ホントに……」
あの変な視線以外は、と付け足し、香苗は静かに溜息を吐いた。
「ストーカーか何かかな」
「どうだろ……。ストーカー被害に遭ったことはないけど、そういう視線じゃない気がする」
「というと?」
「何か、こう……何て言えば良いんだろ……。羨望の眼差し?」
「せんぼう?」
あまり本を読まない紘一には、「羨望」という言葉の意味はわからなかった。余談だが香苗は紘一とは反対に読書家であるため、時折紘一は語彙の差を感じさせられる。その度にどうにかしなければ、と思うのだが。生憎紘一に読書をするような時間の余裕はなかった。
「うらやましいとか、そんな感じの意味」
「なるほど……。じゃあその視線の主は、お前のことを羨んでるってことか?」
「多分……。勘だから、断言は出来ないんだけどね」
女の勘、というやつだろうか。そもそも視線だけで視線の主の感情なんてわかるものだろうか、と紘一は思う。勿論紘一にはわからない。
香苗は元々勘の鋭い方で、紘一はあまり信じなかったが霊感がある、みたいな話をしていたこともある。どの道感じられない紘一にはわからないことだが、霊感的なものがある香苗には視線だけでもなんとなくわかることがあるのかも知れない。
「それと、髪の毛」
「髪の毛……?」
「うん。黒くてながーい髪の毛」
「黒くて長い……」
そこでふと、紘一は数日前に入浴した時のことを思い出す。
一番風呂で入ったハズなのに、浴槽に浮いていた一本の長い髪の毛。香苗の物でも、勿論紘一の物でもないあの髪の毛……。
「それ、俺も前に見たぞ」
「あ、そういえばそんな話もしてたよね」
「同じものかな」
どうだろう、と呟きながら香苗は考え込むような仕草を見せる。
「いっちゃんはロン毛じゃないし、私は茶髪だし……」
しばらく香苗は思考を巡らせていたようだが、やがて諦めたのか溜息を吐いた。
「変だな……」
「そうだね……」
その日は、それ以上視線と髪の毛に関する会話はしなかった。香苗は何事もなかったかのようにお笑い番組で大笑いしていたし、疲れていた紘一もそれ以上そのことに関して気にかけはしなかった。
しかし、それから更に数日後。本格的に寒くなってきたため、香苗が鍋料理を用意した日のことだった。
いつもより少し早めに紘一が帰って来たため、いつもより早い時間帯に二人で食事を取ることが出来たため、香苗はいつもよりはしゃいだ様子だった。
「よいしょっと」
落とさぬよう慎重に、香苗は鍋つかみを着けた両手で鍋を持ち上げる。ずっしりとした重たい感触と、鍋つかみごしに伝わって来る熱さ……少しでも気を抜けば落としてしまい、大惨事になりかねない。このまま前方に倒れれば、鍋の中に顔を突っ込む形になりかねない。想像すると流石に笑えない。
「香苗、どうした?」
「なんでもなーい。今持って行くからー」
そう答え、鍋をゆっくりと香苗が運び始めた――その時だった。
「――――っ!?」
不意に、足元に違和感を覚える。ひんやりとした何かに足を掴まれて、香苗はそのままバランスを崩してしまう。
「えっ……!?」
両手がふさがっている上に、あまりにも不意のことで対応し切れない。当然香苗はそのまま前のめりに倒れ始めてしまう。
このまま鍋を持ったままだと――
「きゃあっ!」
悲鳴を上げつつ、咄嗟に鍋を突き飛ばすように離した。すると、鍋は鈍重な音を立てて床に落ちると同時にひっくり返り、その中身を盛大に床へぶちまけた。
「どうした!?」
紘一が大声を上げ、慌ててキッチンまで来た頃には既に、香苗はその場に倒れていた。
「香苗!」
「あ、うん……転んだだけ……」
答えつつ、香苗は身体を起こして足元を確認するが、そこには何もない。何もないところで躓いたにしては、あのひんやりとした感触は異様だった。
「おいおい、大丈夫か?」
「あ、うん……ごめん、お鍋が……」
「そんなことより、怪我はないのか?」
紘一の問いに香苗が大丈夫、と答えると、紘一は安堵の溜息を吐いて見せる。
「それなら良いけど、何もないとこで躓くなよなぁ……」
呆れ笑いしつつ、紘一はぶちまけられた鍋の中身を片付け始めた。
「う……うん、そうだよね。うっかりしてた」
香苗の気のせいだったのだろうか? 日頃からあの視線のせいで疲れ気味ではあるものの、何もないところで躓いてしまう程疲労しているとは香苗自身思わない。それに前のめりになった瞬間、自分の足首を掴む青白い手が見えたような気がするが、気のせいなのだろうか。
疲れているせいで幻覚でも見たのかも知れないが、それにしたって不気味だった。
「ごめん、今日は店屋物で良いかな?」
「良いよ。カツ丼か何かでも食べよう」
不気味な違和感だけが残ったが、香苗はそれ以上青白い手について考えようとはしなかった。
ここ最近妙なことが多いな、と、紘一は喫煙所で煙草を吸いつつ考えていた。
備え付けの灰皿に灰を落とし、ボンヤリとここ最近の出来事を反芻する。
香苗が感じている視線、落ちている髪の毛。それと、妙なことにカウントして良いのか微妙だが、香苗がこの間何もない所でつまずいたこと。
今思えば、あの時香苗がつまずくのは不自然だった。彼女はあんな場所でつまずく程ボーっとした性格ではないし、運動神経も良い。たかが中身の入った鍋を持った程度で、足をもつれさせるようなことにはならない。河童の川流れ、弘法にも筆の誤り、猿も木から落ちる、香苗にだってうっかりすることがあるだろうからあり得ないとは言い切れない。そう考えると特別不思議なことでもないのかも知れない。
そう結論付けてはいながらも、やはり違和感はある。転んだ時の香苗の動揺の仕方だって普通ではない。どこか怯えるような表情で足元を怪訝そうに見つめていた。
考えれば考える程モヤモヤする。煙と一緒にこのモヤモヤも吐き出してしまいたかった。
不意に、携帯電話のメール着信音が鳴り響く。スマートフォンに変えてからというもの、連絡はほとんどアプリケーションを使って取っていたため、メールが来ること自体珍しい。すぐに紘一はポケットから携帯電話を取り出し、開いてメールを確認した。
「な……? え……?」
画面を見た途端、紘一は表情を驚愕に歪めたままピタリと動きを停止させる。その目は、携帯の画面を凝視したままだった。
「あり得……ない……」
画面に表示されているメールアドレスは、紘一の呟いた通り「あり得ない」物だった。
naya_kouiti_forever@docame.co.jp
奈弥、紘一、永遠。紛れもなく、生前奈弥の使用していた携帯のメールアドレスだった。このアドレスを、二人で一緒に考えたのを今でも鮮明に覚えている。
――――私達二人が、永遠に一緒にいられますように。
そのアドレスに変更してから、奈弥が最初に送って来たメールはそんな内容だった。そのメールに対して、永遠に一緒にいようだなんて返信したのを今でも覚えている。
「悪戯か……?」
それ以外には考えられない。死んだハズの彼女が、メールを送ってくることなどあり得ない。しかし、悪戯だったとしても誰がこんなたちの悪いメールを送るというのか。わざわざアドレスまで奈弥と同じものにしてメールを送るなんて趣味が悪過ぎる。
恐る恐るメールを開くと、中身は文字化けしてしまっていてまともに読めるものではなかった。
諢帙@縺ヲ繧
たったそれだけ。文字化けする前の文章は推察出来ないが、元々短い文章だったのだろう。
「どういう意味――」
そう言いかけ、紘一はメールの受信時刻を見て驚愕した。
二十三時十三分。
現在の時刻は午後一時過ぎ。昨日の日付かとも思ったが、受信した日付は間違いなく今日の日付だ。
「一体どういう……」
そしてふと、紘一は気がついてしまう。奇しくも、二十三時十三分は奈弥の死亡推定時刻だった。
昼間の不可解なメールについて様々な想像をめぐらせつつ、紘一はいつもより早めに仕事を切り上げて帰宅した。直感的な――虫の知らせのようなものだったが、前に話した視線の件もあるため、香苗のことが心配だった。あれからあの視線について話はしていないものの、「その視線を感じなくなった」という話もしていない。香苗のことだ、心配かけまいと隠している可能性だって十分にあり得る。
「ただいま」
ガチャリとドアを開けると、奥から慌しく足音が聞こえて来る。見れば、やや青ざめた表情の香苗が玄関へ駆けこんで来ていた。
「い、いっちゃん!」
香苗は、一目でわかる程に怯えていた。いつもは気丈な……否、気丈に振舞っている香苗だからこそわかりやすい。いくら夫である紘一が相手とはいえ、香苗がここまで怯えている姿を人に見せることは余程のことがなければない。紘一の嫌な予感は、見事に的中してしまったらしい。
「何かあったのか!?」
香苗にそう問いかけると、小刻みに震える手で香苗は自分の携帯を紘一に差し出した。
「携帯……まさか……!」
嫌な想像が、紘一の脳裏を過る。
「メール……見て……」
ゴクリと。生唾を飲み込む。恐らく的中しているであろう嫌な予感を振り払うようにかぶりを振って、紘一はゆっくりとールを開いた。
そしてそこに表示されたメールを見た途端、紘一は思わず絶句した。
それもそのハズだ。画面に表示されているメールアドレスは、昼間紘一に届いた不可解なメールのアドレスと、全く同じものだったのだ。
naya_kouiti_forever@docame.co.jp
奈弥の、メールアドレス。表情に驚愕の色を映したまま、紘一はメールを開いた。
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画面を埋め尽くすかのように、その意味不明な文字の羅列は表示されていた。紘一に送られてきたメールの数倍は性質が悪い。どこか狂気染みたその羅列に、紘一は寒気すら感じていた。文字化けしているのは一目瞭然で、元々の文章が何なのかは想像も出来ないが不気味なことに変わりはない。
受信時刻は、二十三時十三分。紘一に送られて来たメールの受信時刻と全く同じだった。
「気持ち……悪くて……!」
今まで我慢していたのか、香苗は嗚咽混じりにそう言った。
奈弥のメールアドレスを偽装し悪質なメールを送った人物と、香苗を見つめ続けている視線は同一人物なのかも知れない。紘一と香苗――それも特に香苗に対して相当な「何らかの感情」を持つ人物……。
視線から感じるのは羨望、と香苗は言ったが、このメールから感じられるのは明らかな狂気だ。悪ふざけではすまない。もし視線の主とメールの送り主が同一人物であるなら、羨望というよりは嫉妬に近いのかも知れない。
ただのいたずらメールだ、などと気休めにもならないような陳腐な言葉を、今の香苗にかけることを紘一は拒んだ。ただ何も言わず、彼女を少しでも安心させるため、その肩を抱き寄せた。