となりの小倉君
その昔、イエス・キリストは隣人愛を説いた。隣人を自分のように愛しなさい。私は敬虔なクリスチャンではないし、そもそもクリスチャンですらない上に実家は仏教ときたものだからその言葉の本質など考えたこともないし考えようとしたことも今までない。ただ、とりあえず私がその言葉から汲み取れる“隣人”を愛しなさいと言われたら、それはちょっと難しい話だ。
隣人怖い。
事の起こりは一ヶ月前くらい。私と同じアパートに住んでいる大学生が近くで車に撥ねられて亡くなってから数日後の話である。それを思い返すとどちらかというと隣人よりも車の方が怖いかも知れない。
その日の私は外に用事もなく、ただひたすら部屋の中でだらだらと過ごしていたわけなのだけど、隣の部屋の方で何やらガサガサゴトゴトと騒がしい音が聞こえてくる。確か隣に住んでいる人は学部こそ違えど同じ大学の大学生で、とりあえず顔と名前はわかる。一度も話したことないけど。確か小倉だったか梶山だったか、多分どっちか。
今こうして思い出してみて思いの外うろ覚えだったことが悲しい。
で、その小倉だったか梶山だったか(便宜上これからは小倉と呼ぶ)は、どうも荷物をまとめているらしいことがわかる。何せ聞こえてくる音が家具サイズのものを動かしているのであろうことが容易に想像出来る程鈍重なものだったし、その日以降小倉君の声はその部屋からしなくなった。それにその部屋のドアが開け閉めされる音もそれ以来聞こえなくなったので、多分その時小倉君は引越しセンターの人に手伝ってもらいながら荷物を運び出していて、どこか別の場所に引っ越してしまったのだろう。それならそうと隣の私に挨拶してくれても良いのになぁと思ったけど、まあそれ程親しい間柄でもないので仕方ない。
それから数日して、新しい人が小倉君のいた部屋に越してきた。実は私はずっと部屋の外に出ていないので、その新しい隣人の名前や顔を知る由もない。なので、便宜上小倉君二号、通称二号と呼ぶ。
二号はどうやら女の子のようで、越してきた夜に友達を呼んでどんちゃん大騒ぎをしていた。もう本当にうるさくて迷惑だったので、頭にきて思わず壁を殴ってやったら大人しくなってくれて爽快だった。すぐに騒ぎ出すかと思ったけど、どうやら反省したようで再び騒ぎ出すことはなかった。そこまでは良かったのだけど、問題はその後だ。
何と二号は、わずか三日でその部屋から出て行ってしまった。
これには私も首を傾げる。ちょっと怒りすぎたかななんて反省もしてしまうくらいだ。そりゃあちょっと壁殴るのはやりすぎたかも知れないけどそっちだって騒ぎすぎなんじゃないのって感じである。
ともかく、二号はどういうわけかわずか三日で部屋を出てしまったので、またしても隣の部屋は静かになってしまった。いや、静かな方が良いんだけどそれはそれで寂しい。
そんなこんなで一週間、また新しい人が越してきた。今度は聞こえてくる声からして男性のようだけど、例によって部屋から出ていない私は彼の名前や顔を知りようがないので、今度の呼び名は小倉君三号ということになる。
三号は気性の荒い男のようで、越してから三日目の夜、彼は何か腹の立つことでもあったのかドタバタと部屋の中で暴れ回っていた。怖いしうるさいしでもう二号のどんちゃん騒ぎよりも不愉快だったけど、その時私は、二号は私が怒ったせいで出て行ったのだと思っていたから、何もしないで黙っていた。
三号は毎晩怒り散らし、酷い時にはガラス製品らしきものが部屋の中で叩き割られるような音まで聞こえてくるくらいだった。ここで話は少し変わってしまうけど、私の父親は酷い酒乱で、毎晩仕事から帰ると家で酒を飲み、その度に社内での出来事を愚痴っては怒って暴れまくっていた。私はそれが嫌で嫌で仕方なくて実家から遠い大学を選んでココに越してきたわけなのである。なので、隣の部屋で同じような感じで怒り散らされると段々当時を思い出して悲しくなってくる。何せあのバカ親父は酷い時は私に暴力を振るうことさえあったので、自然と三号の暴れる物音から私は当時の記憶を呼び覚ましてしまう。まざまざと怒り狂った父親をイメージする度に、恥ずかしながら私はシクシクメソメソと泣き出してしまった。なるべく三号の部屋には聞こえないように声を潜めていたので多分あんまり聞こえてないと思うし、そもそも三号は怒り狂っていて冷静でなかったハズだから、私の声など気にもとめなかっただろう。
そして一週間が過ぎて、どういうわけか三号は引っ越してしまった。
これには流石に驚いて、気づいた時に声を上げた程だった。
二号の時は私が原因かな、とか考えようはあったのだけど、三号に至ってはもう全然意味がわからない。どちらかというと引っ越したいのは私の方だ馬鹿野郎。
流石の私も別の原因を考える。そもそも二号の引越しすら私は関係なくて、一号も二号も三号も同じ理由で引っ越したのではないかと考えた。
しかし越してきて一週間そこらで出てしまう理由とは何だろう。隣人が迷惑だとかそう言った理由かも知れないが、私は一日中部屋の中に居はするけど迷惑がられる程騒いだことは一度もない。私が音を出して抗議したのは二号の時だけである。
このままわからないままにしておくのはどうにも気持ち悪いので大家さんに聞いてみようかと思ったけどいかんせん身体が重くて部屋を出る気になれない。いや肥満体型で重いんじゃなくて単純に面倒くさくて身体が重く感じるだけです。
この時点では単純に不可解なだけで隣人怖い、という結論には行き着かないのだけど、問題は三号が引っ越してから一週間後、小倉君四号が来た時のことだった。
何とこの小倉君四号、例によって顔や名前は知らないのだけど、何やら坊さんらしき者を呼んだらしく、隣の部屋で昼間からお経らしき声が聞こえてくるのだ。正直何言ってるのかわからなかったけどあの口調と平坦なテンションは多分お経である。憶測だけど。
ここで私はピンときた。隣の部屋には幽霊がいる。
これで一号、二号、三号の引越しも合点がいく。あースッキリした、という感覚と共にゾワゾワと怖気が走り、途端に隣の部屋が恐ろしくなった。
案の定、四号は一週間も経たずに引っ越してしまった。どうやらあのお経はあまり効果がなかったらしい。
お分かりいただけただろうか。この私が隣人を恐れる理由が。
まさか隣の部屋に幽霊が居着いているとは想像もしなかった。私には霊感なんぞ微塵もないので四号が越してくるまで全然気づかなかったということになり、それがもう余計に恐ろしい。例えるなら家の中にゴキブリホイホイを仕掛けて大量に引っかかった時みたいな恐ろしさである。今までこんなに沢山のゴキブリと同居していたのか、とまさか幽霊が隣人で今までずっと隣の部屋にいたのか、は多分規模しか違わない同列の恐怖だと思う。多分だけど。
ここからは推測だけど、多分隣の部屋の幽霊は一ヶ月前に車に撥ねられたこのアパートの大学生だと思う。未練が残ってずっとこのアパートの一室に住み着いてるんだろう。これまでの数々の小倉君はその幽霊に怯えて出て行ってしまったということだ。
怖い超怖い。
そんなわけなので私はこの部屋を引っ越したいのだけど、前述した通り身体が精神的な意味で重くてとても動く気になれない。というか一ヶ月前から部屋の外に一歩も出ていないのでこの引きこもりっぷりは相当にまずいと思う。
もしよろしければこんな哀れな私を誰かここから動かしてくれないだろうか。いや気分的な意味で。部屋まで来てもらってちょーっと私を鼓舞してくれれば多分動く気になるので何卒お願い致します。
そういえばこないだドアの向こうでカンカン何かを打ち付ける音が聞こえた。どうやら私が一歩も外に出ないので、中に誰も住んでいないのではないかと大家さんが思ったのだろう。とても失礼なので文句を言いに行きたいけど全身重いし、多分ドアは開けられないだろう。
これには困った。誰かドアを開けてくれないだろうか。