恋する怪異とカッターハンド
激情のままに振り回したカッターナイフが、 彼女の口を切り裂いた。
真っ赤な血が音を立てて床にしたたり落ちる。真っ赤に裂けた彼女の口元を見て、きっとその傷痕は一生残るんだろうな、と考えたところでやっと私は自分が何をしてしまったのか理解した。
ソレは間違いなく取り返しのつかないことで、一秒、二秒と時が経つごとに自分のやってしまったことの重さが背中からのしかかってきて、立っていられなくなる。
膝から崩れ落ちると、飛び込んでくるのは床に滴り落ちた血だ。小さな血だまりには薄っすらと私の顔が映っていて、その表情はひどく怯えていた。
周りで泣き叫ぶ声も、彼女の呻き声も、どこか遠く感じてしまう。頭が真っ白になってしまって何も考えられないまま、ただただごめんなさいと繰り返し呟いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
何を、誰に、何故謝っているのか。それすら朦朧としたまま、狂ったように私はその言葉を繰り返していた。
川が赤い。
土手から見える川はいつの間にやら赤く染まっており、それが空の色を映しているのだと気づくのに木津淳太はそれ程時間をかけなかった。
今日はいやに夕焼けが赤いな、などと考えながら肩にかけたボストンバッグの重さに耐えながら淳太はゆっくりと歩を進める。
期末試験の前ともなると流石に机やロッカーに教科書やノートを置いたままにしておくわけにもいかず、持ち帰るためにバッグの中へ詰めれるだけ詰め込んだ教科書とノートの重さは、軽く幼児一人分はあるのではないかと感じてしまう程に重かった。この後家に着いてから試験勉強を始めなければならないのかと思うと足取りは重いし気も重い。軽いものと言えば授業などまるで聞いていないすっからかんの頭くらいのものかも知れない。いい加減格闘ゲームのコマンドや効率の良いレベル上げの方法よりも別のものを頭の中に詰め込みたいものなのだが、好きでもないものを詰め込もうと頑張れる程淳太は殊勝ではなかった。
ふわぁ、とあくびなどしつつ淳太が川から視線を離した瞬間、後方からバタバタと駆け抜けるような足音が聞こえてきた。
誰かがランニングでもしているのかと思ったが、それにしてはペースが速い。長距離走というよりは短距離走に近い足音だ。訝しみながら淳太が後ろを振り向いた途端、推定五十キログラムが背後から淳太に飛びついた。
「うおわッ!」
どてん、と五十キログラムと一緒にその場へ転げて、そのまま淳太はゴロゴロと転がり落ちていく。
「わわわわわわわわわァッ!」
川へ落ちる直前で何とか無事に止まり、淳太は小さく安堵の溜息を吐いた。
「……急に飛びついてきたら危ないじゃな――」
未だに自分の腰にしがみついているこの一件の犯人へ物申してやろうと口を開いたが、次の瞬間抱きつかれてしまっては淳太も口をつぐまざるを得ない、というか驚いて一旦言葉を止めてしまった。
「えっ……と……小依、さん?」
長い黒髪が小刻みに震えていることがわかって、淳太は戸惑ってしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
くぐもった声は震えていて、彼女に何があったかなんて淳太には想像もつかなかったけれど、気が付けば淳太の手は彼女の背に回されていた。
「大丈夫です。何も来てませんよ」
しばらくそうして、震えが止まるまでの間は時が止まっていた。
「あんなん来たら怖いっしょ普通!」
マスク越しなせいでややくぐもって聞こえる声は、先程とは打って変わってピンと張っていた。
「まあそりゃ、怖いですけど……」
「でっしょ怖いでしょ! 私チビるかと思ったわー」
「女の子がチビるとか言っちゃうのはまずいんじゃないですかね小依さん」
やや釣り気味の大きな瞳をいっぱいに開いて妙なテンションで喋る目の前の少女、小依にやや呆れた様子で淳太は息を吐いた。
「今週に入って三回目よアレ! 何で逮捕されてないの!」
「警察には通報したんですか?」
「出来るわけないじゃないあんな化け物!」
「じゃあちょっと逮捕はまだ先になりそうですね……」
言いつつ、すっかりいつもの様子に戻った小依を見て、淳太は小さく笑みをこぼした。
「カッターマン、でしたっけ」
確認するように淳太がそう言うと、小依は勢い良くかぶりを振る。
「違う違う、カッターハンド! 腕がこう、どっちもカッターでね、きりきり言いながらこっち来るのよ!」
そう言って手を手刀の形にして小依は振り回して見せる。その様子がどこかおかしくて、淳太は思わずクスリと笑みをこぼす。
「あ、今笑った! 笑ったっしょ! なめてる!? 私のことなめくさってる!?」
「ち、違いますよ! ちょっと動きが面白いなぁ……なんて思っただけでなめたりなんか……」
「こっちは真剣なの!」
ずいっと顔を寄せてきた小依にどぎまぎする淳太に、しばらく小依は顔を寄せたままだったが、やがて本人も恥ずかしくなってきたのかプイと目をそらして淳太から離れていく。
「と、とにかく怖かったの……」
淳太から目をそらす小依の顔は、半分以上がマスクに隠れていてもわかるくらい真っ赤になってしまっている。そんな姿がどこか愛おしくて、淳太はしばらく目を奪われてしまう。
「……何」
「え、あ、いや……」
見つめ続ける淳太に、やや訝しげな視線を送る小依。そんな彼女に淳太はどうしたものかと少し戸惑う様子を見せたが、どうにか口を開いて話題を転換する。
「その、カッターハンドは……口裂け女とどっちが怖いんです?」
「そりゃ勿論……」
淳太の問いに、小依は一旦間を置いてからふんと鼻を鳴らしながらふんぞり返る。
「私の圧勝よ!」
当の口裂け女がこんなんなら、多分カッターハンドさんの圧勝なのではなかろうか。
自称口裂け女の小依と何てことない中学二年生、木津淳太が出会ったのはほんの数週間前のことだった。
雨の中、マスクをつけたロングコートの少女が傘もささずに立っていたら誰だって驚くし、勿論淳太も御多分に漏れず驚いてその場で尻餅をついた。
それでその少女が淳太に近づいて私キレイ? だなんて聞くものだからポマードポマードとお決まりの呪文を唱えながら逃げようかと淳太はその時思った。思ったのだが、悲しいことに男の性か、マスクで半分覆い隠された顔であっても十分にわかる彼女の美貌に、ついつい淳太は「超キレイです」などと真顔で間の抜けたことを答えてしまったのだ。そのせいでこの自称口裂け女、小依とお近づきになってしまった次第である。
まさか土手に座り込んで口裂け女と並んで話をするなんてことが、一生の内にあるとは一度も考えなかったし、普通考えても見ない。というか口裂け女自体今の子供が知っているかどうかすら怪しい。むしろ淳太が口裂け女に関する知識を持っていたこと自体珍しい。
改めて、自身が今変な状況にいるんだな、と淳太は心の内で確認した。
「でも変な話ですよね。口裂け女が怪人に狙われるなんて」
「ねー私狙う側なのにねー」
「何を狙うんですか何を」
果たして口裂け女に明確な目的なんぞあったものかと考えてみるが、そんな話は聞かない。果たして何を狙うつもりなのか、小依どころか口裂け女ですらない淳太にはわかりようがなかった。
「まあそういうわけで、私は命からがら逃げ延びて、淳太君に助けを求めにきたのです」
「そっかそっか。怖かったねー」
などとのたまいながら淳太が小依の頭をなでると、小依はムッとした表情を淳太へ向けた。
「子供扱いしない、それと先輩にタメ口聞かない!」
「はいはい」
一応小依は淳太よりも年上らしいのだが、正確な年齢はまだわからない。名前と、自称口裂け女であること以外は謎だらけ、それが淳太の隣で未だにムッとしている少女、小依だった。
「それで、そのカッターハンドはどこにいるんです?」
淳太がそう問うと、小依はハッと何かに気づいたかのような表情を見せた後、キョロキョロと辺りを見回し「カッターハンド」なるものを捜し始めるが、既に夕刻ということもあってか辺りは閑散としていた。
「……いないみたい」
「なら、良かったです」
そう言ってはにかんだ淳太が直視出来なかったのか、気がつけば小依は淳太から目を背けてしまっていた。
冬は日が落ちるのが早い。先程まで真っ赤に染まっていた川は、染めていた張本人である太陽が隠れてしまったせいで今は黒ずんでしまっている。
「うわ、さむ……」
セーター程度では十二月の……それも夜の寒さには対抗出来ない。ぶるりと小さく身震いした後、小依は思わず自分の両肩を抱いていた。当然のことかも知れないが、口裂け女だって寒い時は寒いらしい。
「上着くらい着れば良いのに、何でそんな寒そうな格好で出歩いてるんですか……」
衣擦れの音。
不意に温もった両肩に、小依は短く声を上げて淳太へ目を向けた。
「今度会う時に返して下さいね」
淳太が小依へそう言って初めて、小依は自分の肩にかけられたものが淳太の上着であることに気がついた。
学ランを脱いでカッターシャツ姿になった淳太は如何にも寒そうではあったが、痩せ我慢なのかそれとも本当に大丈夫なのか、寒さなど歯牙にもかけていないかのような表情で微笑んでいる。
「え、いや、良いよ寒いっしょ?」
「あー大丈夫です。それに上着なら家にもう一着あるんで、明日の学校も心配ないです」
言いながら淳太はゆっくりと立ち上がると、ズボンについた泥や草を両手で払った。
「僕そろそろ帰りますけど、家まで送りましょうか?」
どこだか知らないですけど、と付け足して淳太ははにかんだが、小依は小さく首を左右に振る。
「あ、ううん大丈夫。帰れるから」
「でも、カッターハンドが……」
「多分大丈夫だから、一人で帰れるよ私! ていうか口裂け女なめてんの?」
「いや、なめてはないですけど……」
「それにほら、家逆方向だし」
小依が指差した方向は、淳太の家とは確かに反対方向だったし、あんなに震えていた小依も今ではピンピンしている。その様子を見て淳太は小さく安堵の溜息を吐いた。
「上着ありがとね、今度返すから」
「あ、はい。いつでも良いですよ」
それじゃ、と立ち上がり、小依は淳太へ手を振った後やや急ぎ足で淳太の元を去っていった。
淳太の温もりを両肩に感じながら、淳太の上着の端をぎゅっと握り締める。動悸が激しくなって抑えられない。胸に手を当てれば脈打つのがわかって、淳太に気取られてやいまいかと不安になる。
淳太の気持ちは本当に嬉しかったけれど、小依はこれ以上淳太の傍にいることを拒んだ。
淳太の傍にいるとドンドン動悸が激しくなって、身体中が熱くなって、いてもたってもいられなくなってしまう。このまま体温が上昇し続けて、いつかは火がついて爆発してしまうんじゃないかと思ってしまう程だ。
自分に、そんな感情は許されない。誰かを好きになって、好きで好きでたまらなくなっってしまうようなことが、自分にあってはならない。
自分は怪異だ、口裂け女だ。ただの人間である淳太に恋するようなことなんてあってはならない。そう思えば思う程辛かったけれど、そう思わなければ小依はどうしたら良いかわからなくなってしまう。
それでも今は、この上着の温もりにだけ甘えていたい。今日はうっかりこうして同じ時間を過ごしてしまったけれど、次に会う時こそ別れを告げる必要がある。
後ろから聞こえたくしゃみは、あえて聞かなかったことにした。
「っくしょい!」
盛大なくしゃみと共に、淳太の身体が軽くはねた。
「っつ……やっぱ寒いか」
しかしそれでも、寒そうな女の子を薄着のまま帰らせるよりはよっぽど良いだろう。冷えた両肩を両手で温めつつ、バッグの重さに悲鳴を上げかけながら淳太は帰路につく。
そうして歩いていると、不意にちりん、と自転車のベルが鳴り響いた。
「あれ、珍しいじゃんこんな時間に。何、ゲーセンに寄り道でもしてた?」
声、ベル、そしてブレーキ音。静寂の中に三つも新しい音を加えながら淳太の隣で止まった自転車の主は、くすりと笑みをこぼしながらそう問うた。
「違うよ。ちょっとね」
ぼかした言い方をする淳太に、自転車の主である少女、大川沙奈子は、自転車から降りつつ訝しげな表情で淳太を見つめた。
「教えてくれても良いじゃーん」
「はいはい。沙奈子は部活?」
そだよー、とショートカットの髪を揺らしながら、沙奈子は首を縦に振った。
「そっか。じゃあ今帰りなんだ」
家が近所で幼馴染みだったせいで、中学に入る前はいつも一緒に帰っていた淳太と沙奈子だったが、沙奈子が部活を始めて以来そういう機会はほとんどなくなっていた。会ったとしても廊下ですれ違うとか、その程度だったせいでお互いに話したいことが積もり積もっていたらしく、気が付けば長いことその場で話し込んでしまっていた。
そうこうしている内に夜は容赦なく更け、腕時計の針が午後八時をさしていることに気がついて淳太はうわ、と小さく声を上げた。
「試験勉強全然してないや……」
「話し込んでたもんねー」
小さく嘆息する淳太とは対照的に、沙奈子はケラケラと笑い声を上げる。そんな沙奈子の方が淳太よりも成績が良いときたものだから、淳太としてはちょっと情けない。部活で忙しい沙奈子よりも帰宅部の淳太の方が成績が低いという事実からは目をそむけたいものだが、それで成績が上がるわけでもない。悲しいことに、向き合わなければならない現実だった。
「じゃ、あたしそろそろ帰るわ」
「うん、それじゃあまた」
そう言って淳太が手を振った後、沙奈子はあ、と何かを思い出したかのように呟いて、頬を赤らめつつ淳太から顔をそむけた。
「何?」
「あの、あのさ……」
「うん?」
普段ハキハキと物を言う沙奈子にしては珍しいどもり方に、淳太は首を傾げる。
「明日から試験週間で部活休みなんだ……」
「あ、そっか。そういえばそうだよね」
「だ、だからさ……」
歯切れ悪く言葉を切った後、沙奈子は思い切ったように淳太へ顔を向け、肺の中の空気を全て吐き出すかのような深呼吸をしてみせる。そしてやっとのことでもう一度口を開いた。
「明日はさ……一緒に帰らないかなー……なんて……」
「ああ、良いよ。久しぶりに一緒に帰ろっか」
なんだそんなことか、とでも言わんばかりに笑みをこぼした後、淳太はすぐにそう答えた。
「え、うそ、ホントに!?」
「何だよ、そんな驚くことでもないだろ」
「あ、うん、それもそうだね!」
いやに浮かれた調子でそう答えると、沙奈子は飛び乗るようにして自転車にまたがった。
「じゃ、じゃあ放課後に二組の教室で待ってるから! 明日ね!」
「うん、じゃあ明日」
大きく手を振った後、凄まじい速度で駆け抜けていく背中を見つめながら、淳太は小さく溜息を吐いた。
「僕も買おうかな、自転車……」
よくよく考えれば家から学校まではそれなりに距離がある。そもそも近所に住んでいる沙奈子が自転車で通う距離なのだから、あまり学校までの距離が変わらない淳太が徒歩なのも少し変な話だ。帰って親に陳情しようと密かに決める淳太であった。
それから十五分、家に着くまでの間、淳太は風邪を引きかける程の寒さを味わうことになるのだがそれはまた別の話である。
きりきりと。音を立てて突き出される銀色の刃。赤黒い汚れのこびりついたソレが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
きっと殺される。
きっと償わされる。
前に自分がそうしてしまったように、自分もまたあの刃で切り裂かれるに違いない。逃げる権利なんてホントはない、逃げずに、ただ受け入れて、裂かれれば良いだけの話。ほんの少し前なら受け入れることが出来たハズだった。
それなのに今は、生きたいだなんて願っている。傍にいたいと、いつまでも一緒にいたいと、願い始めている。人の幸せを奪っておきながら、平然と自分の幸せを願うのはおかしな話だと、小依は思う。
幸せになって良いハズがない、赦されるハズがない。
きっとあのまま、裂かれるべきなんだ。
そう思っているハズなのに、カッターハンドのことを思い出すと身体がぶるぶると震え始めてしまう。肩にかかっているあんなに暖かかった学ランも、いつの間にか温もりを失ってしまっている。まるで淳太から見捨てられてしまったかのようなその感触に、小依は小さく身を震わせた。
こんな想いなど、最初から抱くべきではなかった。元より自分は、誰かに受け入れてもらえるような人間ではないし、そもそも今は人間ですらない。
ゆっくりと身体を起こし、緩慢な動作で洗面所へと歩いて行く。そして鏡と向き合うと、小依は奮える手で着けているマスクを外す。
「やっぱ化け物っしょ……これ」
自嘲めいた笑みを浮かべ、耳元まで裂けた自分の口に触れる。小依は笑ってなんかいなかったけれど、三日月型に裂けた口のせいで化け物染みた笑みを浮かべているように見えてしまう。人間としてはあまりにも規格外なその口が、ただの少女であるハズの小依を口裂け女足らしめていた。
数ヶ月前まで、恋口小依は一般的な女子高生だった。口も裂けてなどおらずいたって普通の少女だった彼女だが、高校に進学してから一ヶ月と経たない内に軽いいじめを受け始めた。
成績も良く、容姿端麗だった小依は瞬く間にクラスの男子生徒の人気を集めてしまう。当然そんな状況を他の女子生徒が快く思うハズがなく、入学して間もなかったためバラバラだったクラスの女子は小依と小依以外という最悪な構図へと簡単に変貌してしまったのだ。
避けられたり悪評を流されたりと子供じみた嫌がらせを受け続けた小依は、当然怒った。元々気の強い方だった小依は黙って見過ごしたり耐えたりするハズがなく、すぐに主犯格と思しき女子生徒を特定すると堂々とやめてくれと言い始めたのだ。
これはいじめる側としては想定外で、逆上した主犯格は放課後に小依を呼び出すと、数人のグループで取り囲み、カッターナイフを突き付けて小依を脅し始めたのだ。主犯格の少女は元々素行が悪く、所謂不良に属するタイプだったこともあり、発想も行動も短絡的だった。
流石にこれには小依も怯えるだろうと考えていたようだが、小依は怯えるどころか更に怒りを露にする。主犯格からカッターナイフを奪い取ると、今度は小依の方がカッターナイフを突きつけた。
「わかる!? 怖いっしょ!? 刃物突きつけるってこういうことよ!」
流石にこの状況はまずいと判断したのか、取り囲んでいた数人が小依に後ろから掴みかかる。それに対抗して、カッターナイフを持ったまま派手に暴れた小依だったが、それが災いした。振り回されたカッターナイフは、運悪く主犯格の少女の口元を真っ赤に切り裂いてしまったのだ。
「え、あ……」
そこからは阿鼻叫喚である。
恐ろしくなった周囲の生徒は泣き叫び始めるし、主犯格の少女は呻きながらその場で鳴き始める。そして小依は――
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
気が動転してしまい、誰に向けているともわからない謝罪を繰り返しながら、膝から崩れ落ちた。
元々小依は悪くないのかも知れない。そもそも一方的に攻撃を受けたのは小依の方だった。しかしそれでも、傷つけてしまったことに変わりはない。あれから小依は自分を責め続けたし、あれ以来学校へは一度も行っていない。否、行けるハズがなかった。
事件から数日後、学校を休み続ける彼女の口は真っ赤に裂けてしまっていたのだから。
きっとこれは、呪いだった。
他人を傷つけ、幸せを奪ってしまった自分への呪い。誰からも愛されるわけがないこの姿こそ、他人を傷つけてしまった自分には相応しい。
こんな姿を見せれば、淳太はきっと驚いて、怖がって、逃げ出すだろう。こんな怪異が、あたかも人間であるかのように振る舞って隣にいたのかと思えば、淳太はこの怪異を……小依を拒絶するに違いない。
だからこそあんな感情は、最初から淳太に対して抱いてはいけなかった……怪異でありながら人間である淳太に恋をするなどあってはいけなかった。淳太には淳太の、人間としての幸せな将来がある。それを怪異である自分が関わることで、崩してしまってはならない。
想いを伝えれば、優しい淳太は苦しむだろう。拒絶された小依が傷つくのを恐れて……しかしそれでもこんな化け物を受け入れることなど出来なくて、淳太は苦しんでしまうだろう。
そういう人だ、優しすぎて、こんな化け物をまるで人間であるかのように扱ってしまう。
いや、もしかするとそれはただの思い上がりかも知れない。本当は小依なんて眼中になくて、歯牙にもかけていないだけなのかも知れない。そう思うと、何だか急に全てがバカらしくなってくる。
いっそ死ねれば、殺されてしまえば楽になれる……。
そう思った時には既に、あのきりきりという音が聞こえ始めていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
小依が今頃何をしているのだろうか。日に何度もそう考えてしまうようになったのがいつからなのか、淳太自身にもよくわからない。気がついたら小依のことを考えていて、いつの間にか小依以外のことを忘れてしまう。どうしてそうなってしまったのか、ということにあまり興味はなく、ただそういうものなのだろう、と解釈してはいるのだが……
「沙奈子、待ってるだろうな……」
授業中上の空になってしまうのだけはどうにかした方が良いと思った。
授業中にボーっとしていたのを原因に、淳太は世界史の担当教員にこってりとしぼられた。丁度今日は担当教員の機嫌が悪かったらしく、そのせいもあっていつもより三十分以上遅い下校時間を迎えることになってしまっていた。昨晩一緒に帰る約束をした沙奈子は多分、三十分近く淳太のことを待ち続けている、もしくは愛想を尽かして先に帰ってしまっているかも知れない。
「急がなきゃな……」
職員室を出てすぐそう呟いて、沙奈子の待つ二組の教室へ向かおうとした……その時だった。
「アレって……」
チラリと窓の外に見えたのは、何かから逃げるように走る小依の姿だった。
長い黒髪を振り乱すように走るその姿は、走っている、というよりは逃げている、という方がしっくりくる様子だ。この位置からではよく見えないが、恐らく必死の形相で逃げているのだろう。
「まさかカッターハンド……!」
そう思ってしばらく見つめたが、カッターハンドらしき姿は見当たらない。ただ小依が一人で走っているようにしか見えなかった。
そうしてそのまま、小依は学校の正門の前を通り過ぎて行く。
「これって一体……」
どうしても気になって、小依の元へ向かおうと淳太が一歩踏み出すと同時に、後ろから聞こえたのは沙奈子の声だった。
「どこに行くの……?」
「沙奈子……」
「ねぇ、帰ろうよ……待たせたことは気にしてないから……」
今にも泣き出しそうな沙奈子の声に、淳太は困惑を隠せずにたじろぐ。
「ど、どうしたんだよそんな顔して……」
淳太の言葉に、沙奈子は言葉では答えない。ただ小さく悲しそうにかぶりを振るだけだった。
「沙奈子……?」
「私達、前はずっと一緒だったじゃん……? 学校行く時も、帰る時も、遊んでる時もさ……」
まるで遠くを見るようにしてそう言って、沙奈子は言葉を続ける。
「なのに淳太、中学になってから私のこと気にしてくれなくなって、まるで全然知らない他人みたいに……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 沙奈子だって部活に入って忙しかったし……」
「知ってるんだよ……?」
淳太の言葉を遮るようにしてそう言って、沙奈子は語を継いだ。
「あたし……知ってるんだよ? 最近淳太が知らない、怪しい女の人とよく一緒にいるの」
それは、小依のことだったか。
「知らない内に淳太が全然知らない人と一緒にいて、まるで淳太が知らない人になっちゃうみたいで怖かった……。もしかして今から、その人の所に行くの?」
嘘は、吐けなかった。
静かに頷いた淳太を見つめる瞳が、滲む。
「ホントに行くの……?」
ここで小依の元へ行けば、淳太は沙奈子を裏切ることになる。どうしてかはわからなかったけれど、直感的にそんな気がした。
潤んだ瞳で、沙奈子は淳太をジッと見つめている。別に今日一緒に帰らなくたって明日がある。今生の別れというわけでもない。しかしそれでも、今沙奈子を置いて小依の元へ向かうということは、淳太は沙奈子よりも小依を選んだということに他ならない。
足は、前に進んでいく。
あぁ、最低だ。
それでも淳太が想うのは、付き合いの長い大川沙奈子ではなく、数日前に出会ったばかりの小依のことだった。
――――私……綺麗……?
不思議な程に不安そうな声音。
震える声と、雨に濡れた肩。
雨で張り付いた黒髪とマスクに覆われた彼女に、きっとあの日から囚われていた。
「……ごめん」
すれ違う瞬間、泣いていた気がした。
きりきりと、カッターの音が後ろから迫ってくる。逃げても逃げても逃げても、迫ってくるその音が怖くて、小依は振り向くことさえ出来なかった。
カッターハンドが殺しに来る。両腕のカッターで、あの子と同じ目に遭わせるために。
もうこんなに裂けてしまった口を、これ以上どう裂くと言うのか。それとも、この身体をバラバラになるまで切り刻むのか。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
ここで受け入れて、死ぬべきだと思う。そのハズなのに、いつの間にか小依は逃げ出して、淳太の姿を捜してしまっていた。
助けてもらえるわけがない、助けてもらって良いわけがない。
「はっ……はぁ……っ!」
足がもつれて、地べたに顔から倒れ込んでしまう。その衝撃のせいか、汗でぬめった耳からマスクが外れ、隠していた小依の口が外気に触れた。
「――――っ!?」
慌てて裂けた口を片手で覆い、パニック気味に片手でマスクを探すが、背後からカッターハンドが迫ってきていることによって倍増した焦燥感は、そう簡単にマスクを掴ませてはくれなかった。
「こんな所……淳太君に見られたら……っ」
「小依さん!」
這いつくばったまま涙目でマスクを探す小依の耳に届いたのは、一番聴きたかったハズなのに、今一番聴きたくない声だった。
「大丈夫ですか小依さん!」
慌てて駆け寄ろうとする淳太を制止するように、小依は片手を淳太へ突き出した。
「来ないで……!」
「来ないでって……何があったんですか小依さん! カッターハンドですか!?」
淳太の問いに、小依は答えない。
ただ淳太に背を向けたまま、小刻みに震えるばかりだった。
「私は……私はカッターハンドに殺されるべきなのよ……!」
「殺されるべきって……何言ってるんですか!」
「こんな、口の裂けた化け物は、さっさと殺されて罪を償うべきなの!」
こんなことを言って何になる。そうやって自虐的に振る舞うことで、淳太の同情でも得ようというのか。
どこまで薄汚いのだろう。人を傷つけ、それと向き合うこともせずに人を避け、挙句の果てには口が裂けて怪人に終われる始末。どこまでも自業自得な癖に、誰かに救いを求めている自分の薄汚さに、小依は吐き気を催す程の嫌悪感を覚えた。
「淳太君だって嫌でしょ……こんな、口裂け女なんて……」
淳太の顔すら見ようとせず、背を向けたまま小依はそう言った。
足音が聞こえる。
きっと淳太は、この場から立ち去ろうとしているのだろう。
そう、それで良い。こんな口裂け女には構わず、淳太は淳太で普通に暮らせば良い。無理してこんな妖怪を、受け入れる必要なんてない。
淳太のことを想うなら、隣にいるべきなのはきっと私じゃない。そう納得出来ているハズなのに、何故だか、生ぬるいしずくがアスファルトを濡らし始めていた。
「今日の小依さん、全然意味がわからないです」
「え――っ」
思わず振り向いた先にいたのは、木津淳太だった。既に立ち去ったものだと思っていた淳太はどういうわけか今、小依のすぐ傍まで歩み寄ってきていた。
「あっ……!」
裂けた口を剥き出しにしたまま淳太の方を振り向いてしまったことに気づき、すぐに小依は両手でその口を覆う。
とうとう、見られてしまった。耳元まで裂けたこの妖怪みたいな口を、一番見られたくなかった淳太に見せてしまった。そんな絶望がずっしりと胸に落ちてきて、抱えきれなくなりそうになる。淳太は怯えた表情を見せるだろうと小依はある程度覚悟していたのだが、どういうわけか淳太が見せたのは恐怖にひきつった表情でも、怯え切った表情でもなく、普段たまに見せることがある……ただの呆れ顔だった。
「見たでしょ……もう構わないでよ、こんな化け物のこと……怖いでしょ? 嫌いでしょ……?」
淳太のその表情が何を意味しているのかなんて考えようともせず、全てに絶望し切ったかのような顔で小依はそう言って、淳太から目を背けた。
しばしの沈黙。しかしそれは数秒と保たれないまま、淳太の溜め息によって破られた。
「……ちょっと今から大事なこと言うんで、ちゃ、ちゃんと聞いてて下さいよ……!」
淳太が唾を飲み下す音が、小依にも聞こえたような気がした。
ゆっくりと視線を向けると、顔を真っ赤に染めた淳太が一所懸命に小依のことを見ていた。
「ぼ、僕は……」
詰まる言葉。
張り詰まった空気。
期待なんてしていなかったし、してはいけないくらいに思っていたハズなのに、気付けば小依は期待を寄せてしまってる。
白い吐息。開いた口から、待ち望んだ言葉が紡がれた。
「僕は……す、好きですよ、小依さんのこと……!」
瞬間、時が止まる。
制止したこの空間の中にあるのは静寂だけで、小依も淳太もピタリと動きを止めたまま、瞬きさえしないで互いに見つめ合っていた。
理解が追い付かない。脳のCPUが処理速度の限界を訴えてエラー音を発し始めた。
本当はもうとっくに理解っていて。
すぐに飲み込んでしまうのが勿体なくて。
甘過ぎるその言葉を、口の中でチョコレートを溶かすみたいにねぶり続けていた。
「――――っ!」
淳太の背後で、カッターハンドがきりきりと音を鳴らしていることに、小依は気付く。
淳太は気付いていないのか、恥ずかしそうな表情のまま小依から視線を外していた。
ロングコートのフードを深く被り、右腕の巨大なカッターの刃をきらめかせながら、カッターハンドはゆっくりと右腕を振り上げる。
カッターハンドが淳太に対してソレを降りおろすのだ、と判断して小依が淳太の名前を呼ぶよりも、カッターハンドが思いもよらない行動に出る方が遥かに速かった。
「えっ――――」
ぱさりと。音を経てて外れるフード。
露になったその顔は、紛れもない、マスクを着けた小依の顔だった。
「わた……し……?」
カッターハンド――小依は、目だけで優しく小依へ微笑みかけると、音も経てずにその場から、まるで煙のように消えてしまった。
数瞬、小依はポカンと口を開けたままだったが、やがて地面から弾かれるようにして淳太の胸に飛び込んでいた。
「う、うわぁッ!?」
そのまま押し倒されかけたが、しっかりと持ちこたえ、淳太は推定五十キロを今度は受け止めた。受け入れた。
小依はまだ言葉を何も返さなかったけれど、きっとそれが淳太への精一杯の答えだった。
「淳太君……淳太君っ!」
まるでそれしか言葉を知らないみたいに何度もそうよんで、小依は少しだけ背伸びをして唇を重ねた。
全部が、繋がってしまったかのような感覚。
全能感にも似たその感覚に溺れながら数秒過ごして、小依はゆっくりと惜しむように口を離した。
しばらく淳太は驚いたような表情を見せていたが、やがて小依の顔を見てクスリと笑みをこぼした。
そっと、淳太の手が頬に触れる。
「なんだ、やっぱり裂けてなんかないじゃないですか」
「えっ……?」
口元に伸ばした手が、触れるハズのなかった頬に触れた。