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そして2015年になった。日付は三月一日。時刻は十九時過ぎ。
俺がまだミズキだった頃、ユリが死んでしまった二日前に当たる。
「じゃあ、行ってくる」
「……うん、いってらっしゃい」
色樹園はもう大丈夫だろう。ユイ一人では不安だが、ダイもいる、フユカもたまに来るし園の子供たちも基本的に皆しっかりしてる。金も恐らく大丈夫だ。
「ほら、ユズ。お父さん行っちゃうよ」
ユイが俺の愛娘の手を引いて言った。不安そうなユズは小さく呟く。
「……どこに?」
「んー……遠くに、かな。もしかしたらすぐに帰ってこれると思うけどな」
もしすぐに帰ってこられるならそれが一番良い。勿論全てが成功して、と言うのが前提だ。
「そうだユズ。お父さん一つ憧れてたことがあってな」
「なあに?」
靴も履いて鞄も準備してからだったが、鞄を降ろし一度ユズを抱き上げる。
「お母さんにもされたことないんだよ。いってらっしゃいのチュー」
「チュー! ユズ、チューするよ!」
「ふふ……」
俺の愛娘はチューが好きだ。誰彼構わずする。俺に一番してくれるのはとても嬉しいことである。
「ほら、ちゅー」
「ちゅー」
ユズにチューしてもらう。
そのあと照れながらユイも俺にしてくれた。
「うん、これで満足。頑張ってこれるよ」
「がんばっておとーさん!!」
何の事かは理解してないだろう。だが親指を立てて俺を応援するユズは愛しくてたまらない。
「じゃあなユイ、ユズ。いってくる!」
「いってらっしゃい!」
「いってらっしゃい!!」
言って、俺は園を出た。
新幹線の中で俺はイヤホンを耳にさす。
ダイが昨日入れた曲をウォークマンで再生する。
「……」
ダイが高校の間に作った曲らしい。俺のために作ってくれたそうだ。彼が三年では部長になって、部員に手伝ってもらって演奏した。
五分ほどの曲と聞いていたが、八分ほど再生時間がある。
曲の中身は流石と言うべきか。美しいピアノの旋律に揃った吹奏楽器が調和している。
目頭が熱くなり、俺は夜空へ顔を向ける。
演奏が止んで数秒後、イヤホンから人の声が聞こえた。
『スミレさん。ここからは演奏じゃなくて僕からのメッセージです』
ダイの声だ。別撮りを編集したのか彼の声以外静かだ。
『スミレさんがいつも何かを気にしながら生きているのは僕も薄々気付いていました。それが多分、ユリに関することだろうってことも。昨日スミレさんが色樹園を出ていってしまうって聞いて、きっとその何かが数日以内にあるんだな、ってわかったんだ』
昨日聞いたと言うってことは……一昨日これを録ったのか。
『正直僕はスミレさんに出ていってほしくないです。駄々をこねて無理矢理にでも引き留めたいです。……でもそんなことしたら迷惑が掛かるし、何よりスミレさんが僕へ抱いてくれてる期待をそんな形で裏切りたくない。だからね。僕は、スミレさんの前では何も言わず、それを受け入れることに、するよ』
彼の声は震えている。俺も……更に目頭が熱くなる。
『それでね。僕はスミレさんにお礼が言いたかったんだ。けど、多分直接は言えない。恥ずかしいし、泣いちゃいそうだからさ』
お礼……なんていらないぞ、ダイ。俺は改めてお前にお礼される必要がないくらいにお前には色んな物を貰ったんだから。
『僕を、僕を産んだ女の人から受け取ってくれてありがとう。僕の名前をダイにしてくれて、ありがとう。僕を……体の弱かった僕を育ててくれ……て、ありがとう。僕の好きな、ピアノを、認めてくれてありがとう……!』
徐々にダイの息は荒くなっていった。言葉を必死に紡ぎ、それこそ本当に、頑張ってお礼を言っていた。
俺も堪えられず涙が溢れる。周りに人がいなくてよかった、本当に。
『ーーーーごめん、取り乱しちゃった。園長さんから受け取ったこととか名前のこととか聞いてね。ずっとお礼を言いたかったんだ。だから……ありがとう』
一度録音を止めたのだろう。落ち着きを取り戻したダイが晴れやかな声で説明してくれた。
『曲の方は聞いてくれた? あれ、今度の卒業演奏でも演奏するんだよ。スミレさんと母さ……園長さんの二人への曲だったんだけど、皆が気に入っちゃって。あはは』
ああ、よかったよ。ダイの感謝の気持ちが伝わってきて気持ちがよかった。それこそ油断すれば泣いてしまうほどに。
『曲名はウォークマンの方ではmusic1とかになってると思うけど、勿論本当はそれじゃないよ? 本当の曲名はね』
【父さん、母さん】
『二人の前でそうやって呼んだことは一度もなかったと思うんだけど、ホントは友達の前ではずっとそうやって、スミレさんと園長さんのこと呼んでたんだ。だから曲名は普通の呼び名なんだけど、それでも……僕にはこれ以外浮かばなかったら……』
……いいんだ、ダイ。それだけで俺たちには十分すぎるほど嬉しいんだよ。
『父さん。結局スミレさんのことをそう呼べなかったけれど、僕はずっとスミレさんを父さんと思ってたんだ。だから、必ず帰ってきてちゃんと父さんと呼ばせてほしい。目をみて、父さんって呼びたいんだ』
だから父さん。必ず帰ってきてください。
そう言って、ウォークマンは止まった。
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「懐かしいな……」
俺は故郷を歩く。思い出がたくさんある故郷だ。
もう何年前になるのかわからないけれど、たった数年の出来事なのかもしれないけど。それでも、今の俺を作った大事な思い出が。
「はは、懐かしい。ここでたまたま会ったから時間合わせて登校したんだよなあ」
なんでもないただの道路だが、眺めているだけで思い出が蘇ってくる。昔の登下校の道。
『あ、城井くんおはよ!』
『き、紀野さん。おはよう』
『この間はありがとね!』
『ん? なんのこと?』
『倒れちゃった私を介抱してくれたこと! すぐに保健室に連れていってくれたから私元気になったんだ!』
『あー、うん。どういたしまして。元気になってよかったよ』
この時は少し可愛い女の子だな、くらいにしか思ってなかったはずだ。いや、それでも必死に会話しようとしたんだけどな。
『紀野さんはいつもこの時間?』
『んー! まだわかんないけど、多分このくらいの時間になるかな?』
『そっか……』
ここでこっそりユリの登校時間をチェックしてたなぁ。友達から聞いた話だけど、登校中に会えたら俺はその日一日機嫌がよかったらしいし。
その内陸上部の朝練でユリと会いにくくなってしまうんだけどさ。
んで、通学路の途中にあるこの公園にたまに寄って帰るんだよな。テスト期間とかに。
ブランコを並んで漕ぎながら話した。
『暑いねえ。まだ梅雨前なのにこの暑さ。長袖には少し暑さが厳しいねー』
『そうだなぁ。衣替えが待ち遠しい』
『ホントにねぇ……』
そんな普通の話だ。俺はなんとなく幸福感を感じていた。こんな時間がずっと続けばいい、なんて乙女チックなことも考えていたものだ。
しかし、ユリはそれだけでは満足できなかったらしい。
『あ、あのね城井くん』
『?』
『その、私が勝手に思ってるだけならちょっと……そう、ちょっとだけ寂しいんだけど。私結構城井くんと仲良くなれたなぁ……って、思うんだ……』
『うん。俺もそう思ってるよ』
『ホント!? よかったー。それでね、城井くんのこと下の名前で呼びたいなあ、なんて思っちゃったりして……』
『!!』
この時、多分ユリに惚れた。前から可愛いと思ってたし、もしかしたら一目惚れだったのかもしれないが。惚れたと自覚したのはこの時だったはずだ。
『どう……かな?』
『い、いい、良いよ!! なんなら呼び捨てにしてくれても!』
『え、えと、じゃあ……み、ミズキ…………』
『う……うん』
なんとも恥ずかしくて二人とも顔を逸らした。
『や、やっぱりまずは君づけで呼ぶことにする!! なんか……なんか、恥ずかしかった……』
『そ、そうだな。俺もなんか恥ずかしかった』
『……うー』
その後も俺は変わらず紀野さんと呼んでいたが、ユリは俺のことを名前で呼ぶようになった。家に帰ってきて思い出し、ニヤニヤする程度には嬉しかった。
いや、正直めちゃくちゃ嬉しかった。
さて、ここが碧天高校。外からギリギリ、グラウンドが見えるな。ここもよく放課後通ったものだ。
『ミズキ君! 今暇!?』
バイトを始めた頃から俺は学校からすぐに帰るようになっていた。だから放課後、校内に俺の姿は無くなっていたんだけど。
逆にバイトがない日はグラウンドで友達とサッカーなんかしたりしていたんだ。
『ん? どうしたの?』
サッカーしてるから暇じゃないと言えば暇じゃないんだけど、ある日ユリに呼ばれたときは急いでそっちに走っていった。
『今度大会があるの! それで練習してるんだけど、先輩も先生も皆自分たちの事で忙しいみたいでさ! 良かったら私のタイムを計るの手伝ってほしいんだー!』
『大会かー、そりゃ頑張らないと。良いよ、俺でよければ手伝う』
友達も空気を読んで俺をサッカーから追い出してくれた。
さて、そこからはグラウンドの端でタイムを計る。
ユリがストップウォッチを俺に渡しながら言うんだ。
『あのね、本当に良かったらでいいんだけど、私の走るところも見ててほしいの』
『走るところ?』
『うん、走るところ。っていうより走るフォームだね。悪いところがあれば教えてほしいの!』
素人の俺には難しそうなので唸っていた。
『わかる範囲でいいから! ね?』
『わ……わかった』
両手を合わせるユリが可愛くて、結局頷いた。
それ以降俺はユリの大会には出来る限り行くようになり、他の選手の走り方も見て、俺なりに勉強して。ユリの力になれるように努力した。
『ミズキ君が見てくれてると思うと力が湧いてくるんだー。だから、いつも見に来てくれてありがと!』
そんなこと言われたら見に行かないわけには行かないよな、普通。
思い出巡りの最後は河川敷か。
ここは言うまでもない。俺が告白した場所。
『ここ好きだよ、私も。急いでたからどこに行くのかなって思ってたよー』
クリスマスイブ、二人で遊びに行った帰りに俺の自転車から降りながらユリは行った。
『急がないとこの綺麗な景色は見れないからさ』
俺も自転車を停めながら返す。
夕陽に照らされた川は、やはり俺の大好きな景色を作り出す。
『とりあえず座ろっか』
『うん』
ユリが座ったので、俺も隣に座った。
『ありがとね、今日は』
『いえいえどういたしまして。紀野さんは楽しかった?』
『楽しかったよー! クリスマスイブに誰かと出掛けるのなんて久しぶりだったし、それに……』
『それに?』
川を眺めていたユリは口を閉じた。橙色に染められた横顔は静かに笑っている。
数秒間の沈黙のあと、彼女はこちらを向いて言った。
『ミズキくんと一緒だったから、楽しかった』
『…………うん』
ユリが綺麗だから照れ臭いのと、嬉しいと思ったせいで俺は顔を逸らし、小さく返事した。
俺は覚悟を決めてユリに向き直る。
『紀野さん!』
『は……はい!』
ユリが一瞬眉をしかめて返事した。何が気に入らなかったのかを、俺はその時一瞬で理解した。
『今日は俺も楽しかった!』
『うん!』
『紀野さんと……ユリと、一緒だったから俺も楽しかった』
『!!!』
このときの心底嬉しそうなユリの表情を俺は死んでも忘れない。
『四月に初めてユリに会ったときからずっと思ってて、ユリが俺のこと名前で呼んだときに気付いた。そこからどんどん強くなっていって、今日改めて確信したんだ。だから』
『……うん』
じっとユリの目を見つめる。
潤んだ瞳は、きっとこれから俺が言うことを察しているんだろう。察していて、それでも俺の言葉を待っていてくれるんだ。
大丈夫、緊張することはない。俺が彼女に思っていることをそのまま言うだけだ。
『……俺はユリと、恋仲になりたいです』
『…………』
潤んだ瞳の女の子は、目の端から雫を流しながら。笑った。
『ふふ、恋仲って、ミズキくんそんな言葉なかなか使わないよ?』
『……あ……はは……』
やっちまった、と思った。背中に冷たい汗が流れ、顔が熱くなって今すぐ逃げ出したい気持ちになった。
が、ユリが優しい笑顔を浮かべて言う。
『私もミズキくんが好きです。こんな私でよかったらお付き合いしてください』
『!!!』
息がつまり、目を見開いた俺の返事を待たず、ユリは目を閉じた。
叫びたいくらいに喜ぶ気持ちを抑えて、俺は出来る限りの優しさを持って。それに応えた。




