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「ユリ、寝る前にちょっとこっちにおいで」
「なぁに?」
俺はユリを和室に呼ぶ。黄色のパジャマの彼女は少しだけ小さなあくびをした。
この可愛らしい姿も、今日で最後だ。
「本当に困ったらこの封筒を開くんだ。中にはまあ……いろいろ入ってる」
ユリに宛てた手紙とか、ユリ以外に宛てた手紙とか。わかりやすい万札と俺の連絡先も入れておいた。
生活費、進学費等は隣のおばさんに一任してある。銀行の口座をわざわざ作った。おばさんの目が飛び出すような額だろうけど、あの人も一人だ。ユリのために正しく使ってくれる。
「この封筒のことは隣のおばさんにも秘密だ。ユリが将来、本当に自分のことを任せられると思った人が現れた時にこの封筒のことを話すんだ。開くかどうかは置いておいてな」
「ユリのことを任せられる人……?」
「ああ、俺やシャガのように。家族になりたいと思える人に言うんだ」
そして、ミズキはこの封筒の存在を知っている。ユリが亡くなったあと探しに行こうとした。
彼は見つけることが出来ないままだったかもしれない。少なくとも俺は見つけられなかったが、存在だけはユリから聞いていた。
……つまりユリにとってミズキは家族になりたいと思った人だったわけだ。
「わかった」
緊張した面持ちでユリはそれを受け取った。
内容が内容なだけに少し重いそれは、彼女の手に印象深かったことだろう。
「それでな、ユリ。シャガのことを話したいんだ」
「! な、なに!」
ユリの目が見開かれる。聞きたかったけど、聞くべきでないと察していたのだろう。
俺が口に出した瞬間の食いつきは俺の想像を超えていた。
「シャガはどうなったの!? ダイちゃんはちゃんと助かったの! だから嬉しそうにシャガは笑ってたんだけど、一瞬ユリを見たときとても寂しそうにも見えて、なにかユリに叫んでくれたけどわからなくて……。大丈夫だよね? 大丈夫なんだよね!?」
「……」
落ち着いて聞いてくれ、とは言わなかった。
彼女の興奮の醒めないうちに俺は告げる。
「シャガは死んだ」
「…………ッ!!」
息を呑む音が俺の耳に届いた。
おばさんに話した時より彼女は苦しそうに呼吸をする。
「ハ……ハァッ……ハァッ……!」
呼吸は徐々に過呼吸に近くなる。
なにかを伝えようと口を開くが、喉が震えて上手く発音できていない。
「う……うそ、だよね……!?」
やっとのことで絞り出すのはそんな言葉。
俺は黙って首を振る。
「う……そ。うそ……しんじ、ない……ハァッ、ハァッ。シャガ、が」
「嘘じゃない。死体も見てきた」
「!?」
ユリが、もう真っ赤に染めた目で俺を見た。
悲痛な思いがその目から滲み出ていた。
「シャガは死んだんだ。もう帰ってこない。二度と会えない」
「嘘……嘘……。私は、信じない……」
「本当だ。ユリの前に現れることは二度とない」
「嘘……いや……嫌ぁ…………」
ユリは封筒を完全に落とし、封筒を持っていた手は彼女の頭を抱えだした。
もう俺の目なんて見ていない。焦点の定まらない瞳は畳を揺れ、彼女自身も大きく震えだす。
「嫌……いや……イヤだ、シャガ、死ぬ、なんて、やだ。ヤダ、ヤダ……」
「ユリ……」
「イ…………」
そこで、壊れる。
「イヤァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアァァァアアアアァアァアアァアアァアァァァアアアアアアアアア!!!!!!!!」
家の中に響く耳をつんざく悲鳴。
それを発するユリは壊れ、目は大きく見開かれている。綺麗な髪は乱れて顔は破裂しそうなほど赤くなった。
「イヤアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
もう俺には彼女を止められない。止める権利なんてない。
壊したのは俺だ。だから壊れる彼女から決して目を逸らしてはいけない。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
後悔もしてはいけない。辛いのは俺じゃない。
悪いのはユリじゃない。運命を変えられない俺だ。
ここから俺にできることはなんだ。
「アアアアアアアアアアああああああああ、あああああああああ、あああ、あ……あ…………」
壊れる彼女を最後まで見続けることだけ。
徐々に弱る彼女を見続けるだけ。
「あ…………シャ、ガ。シャ、ガ……?」
もう正常でない彼女は、最後に家族だった者の名前を呟く。
開ききった口から溢れるその言葉の意味を、彼女は理解できているのか。
「シャガ……? シャガって…………」
「……」
ユリの意識はそこで切れた。
プツ、と電気を消した灯りのように、何も残さず完全に消えた。
「悪い……」
ユリの体をベッドまで運び、その横に例の封筒を置く。
彼女の記憶がどこまで消えたのかはわからない。この封筒のことは忘れないだろう。シャガのことはほとんど消えてしまっただろう。
命を掛けて助けた誘拐事件、精一杯遊び回った遊園地。あんなに楽しくて、必死だったのに消えてしまう。
「…………」
それでも俺は進んでやろう。
意図的に作り上げてしまったシャガの犠牲を無駄にしないためにも。
「スミレ、本当にいいの?」
「ああ。問題ない」
ユイの病室で俺は返した。
ユリが眠ってから約二時間後。俺に必要なものは全て家から紀野園に運び終えた。
紀野家には俺の痕跡はほとんど何も残っていない。明日の朝、ユリは俺が遠藤夫妻に置いていかれた時のような喪失感を味わわせてしまうことだろう。
……まあ、だからといってどうするわけでもないが。
「北川さんが早速良いところを紹介してくれたんだ。少し山の中だけど広くて綺麗な建物だってさ」
「そんなの都合よく見つかるものなの?」
うん、元学校らしい。
「一ヶ月くらいあれば皆引越しできると思う。その間子供たちはユリに会うだろうけど、シャガのことは秘密にしてもらいたい」
「……うん。わかった」
ついでに俺のことも。未来では何故いなくなったのか知らなかったから、出来るだけ知らせたくない。
未来との辻褄合わせ、それとユイの体のことだって。あいつは知らなかったから……。
「もう未来を変えるなんて出来ないかもな……」
「え?」
「いや、なんでもない」
シャガのようにはもう。
無理だな。
さっそく新設紀野園となる学校を訪れた。
「スミレくんか?」
待ち合わせ場所で男性に声をかけられた。
五十代……ギリ六十代に見える背の高い男性だ。スーツに身を包み、髪も綺麗に整えられており清潔感が漂う人だった。
見覚えが全くない人だが、声に聞き覚えがある。
「あ、北川さんですか? 俺は紀野スミレです」
「そうか。君の言う通り北川だ。よろしく」
そう言って彼はスマートに胸ポケットから名刺を差し出した。身のこなし、少しの所作のはずなのにすごくカッコいい。
俺は一瞬見とれ、受け取るのが遅れた。
北川さんの名前が書いてある。
「……あ、すいません! 俺名刺なんて持っていなくて」
「ああ、別に構わないさ。とりあえず車へ乗ってくれ。学校へ向かおう」
「は、はい!」
俺のことを咎めることもなく北川さんは彼の車へ手を向けた。彼が歩く後ろについていく。
何故だろう。今まで俺より年上の人と話す機会なんて山ほどあったのに、北川さん相手では妙に緊張してしまう。
醸し出す雰囲気が少し異質と言うか、でも親近感を覚える。……ああ、シャガと少し似ているかもしれない。シャガと違って動きの一つ一つが洗練されているから余計になんていうか…………そう、格の違いを思い知らされる気がする。
「ここは元々小学校でね。ほら、そこがまず職員室として使用されていたところだ」
校舎へ入り、一番近い部屋を覗く。
「事務室にするならここですかね」
「そうかもな。ここが一番事務室に合うだろう」
一階、門に一番近くて、少し狭い校庭がよく見える。この部屋が事務室だな。
他にも彼は様々な教室や、元図書室を魅せてくれる。
敷地は広く、中も同じくだ。もしかしたら紀野園より広いかもしれない。
「さて、これで粗方回ったか」
「結構綺麗でしたね。普通に学校を出来るくらいじゃないですか」
「まあな。でも人が集まらなかった。山奥だしな」
なるほど、と俺は頷いた。確かにここに来るまでの道に民家はあまりなかった。いや、あったにあった。けれど見かけるのは皆お歳を召された方々ばかりだ。
「あと、あの山の向こうにここより新しい学校がある」
「や、山の向こう!?」
「あっちの学校に人が集まるからここが学校として機能したのは十年もなかったかなぁ。だから尚更綺麗なんだろう」
「山の向こう……」
範囲が広すぎて想像つかない。
雨の日とか、もうどうするんだ。片道何時間かかるんだよ。
「それでスミレくん。もう書類にサインしたあとだが、改めてここでいいかね?」
「勿論です! もしかしたら紀野園よりも良いところですので、断る理由がありませんよ!」
「そうかそうか。それならよかった」
北川さんは嬉しそうに頷いた。あまり笑わない人だと言うことは少し見ただけでわかったが、今は目を細めて少しだけ口元が緩んでいる。
「引っ越し業者もこちらから手配してある。明日から荷物を取りに行っても大丈夫なんだな?」
「はい、ある程度まとめてありますので大丈夫です」
北川さんが助けてくれたのは物件の紹介だけではなかった。今話している引っ越しの話もすごく助けられている。
新しく孤児院を建てると言うことで、正式に市や府県に認められた。多くはないが援助金も貰える。
そんな手続きも北川さんのコネクションでこなしてもらえた。
だから俺は何度も彼に頭を下げて言う。
「何から何まで本当にありがとうございます。このご恩はいつか必ず返しますので……」
「また言っているのか。そもそも操さんに大きな恩があるから……って話も何度もしたな。とにかくスミレくんは気にしなくて良い」
と、返されるのももう何度目か。
操おじいちゃんは昔北川さんを助けたらしい。そして北川さんが成功してから、今度はその恩返しとして紀野園に手を貸したそうだ。
操園長は北川さんに恩を感じ、北川さんはまだ恩を返しきっていないと言う。
互いに恩を返し合うのは少し変わっているが、それはそれで絆として二人を結びつけて、その繋がりに俺も運良く混ぜてもらえた。
俺も、どうにかして必ず北川さんに恩を返そうと思う。
「じゃあスミレくん。またな」
「ありがとうございました」
車で駅まで送ってもらった。俺は車から降りて頭を下げた。
「あ、そうだ」
一度運転席の窓を閉めた北川さんだったが、開きながら言った。
見送るつもりだった俺はその場にいたので顔をそちらに向けて聞く体勢になる。
「ここまで車で来て察していると思うが、あの物件から最寄りの店まで車で最低でも30分掛かるから」
「え」
「必要なら従業員一人くらい紹介する」
「い、いえ。多分大丈夫です……多分」
ニヤリと頬を引き上げる北川さん。
今日始めてみる顔だ。
「まあ大変なことはあるがしっかりやっていけよ」
「はい!」
そして車は道を走っていった。
見えなくなったところで俺も新幹線を待ちに駅の中へ向かった。




