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「子供たちは一つの部屋に集まって引っ越しの準備をしていたよ」
誰かが何かを察知したのだろうか。俺が言うよりも先に、紀野園を出なければならないことを理解している子供が数人いた。
「ここに着いたときシャガから電話があった。やはりダイが不安定になっているらしい」
比較的ユイは元気そうだから、明日電話してから見舞いに来いと伝えておいた。
「北川さんには協力してもらえることになったよ。これから忙しくなるだろうが、ユイは心配するな。俺でなんとかできる範囲だ」
まず北川さんに関西での新しい家を探してもらう。明後日には病院の先生に紹介状を書いてもらい、俺ができるのはその後だ。
編集の彼にも事情を説明しなければなるまい。
「……明日シャガが事故に遭うかもしれない。少なくとも俺は車に轢かれた。でも、もしかしたらあいつはその運命を変えれると思うんだ。轢かれる運命を変えてこれからも俺たちと共に居てくれれば強力な助けになると思う」
俺はただ一点。そこに賭けてみたい。
「どう思う?」
ベッドから動けないユイに俺は問う。
彼女は真剣に思案したあと、頷いた。
「……ありがとう。じゃ、今日はもう寝ような」
先生の許可も貰ってある俺は、ユイが眠るまで傍らにつき、俺自身もそのまま眠った。
「園長の体調は悪くない。紀野園の子供全員でお見舞いに来れば精神的に元気になるだろうが、まずお前たちからお見舞いに来てやってくれ。二人も会いたがっているだろう」
『うん』
次の日、朝から俺は家に電話を掛けた。
電話に出たのが丁度シャガだったためスムーズに話は進む。
「金は俺の机にある。病院への行き方はわかるな?」
『わかるよ。出来るだけ急いでいく』
「あ、ちょっと待」
ガチャ、と受話器が置かれる音がする。……切られた。
せめて一言車に気を付けろくらい言おうと思ったのに……。
「シャガらしくていいじゃない。そういうところスミレと似てるよね」
「待ちきれなくて先走るところか?」
「うん」
そんなところ俺にあるか……?
しかしユイは笑って肯定したため、事実なのだろうよ……。
「とにかく……シャガ、頼むぞ」
運命を変えてここにやって来てくれと願わずにいられない。
しかし……。
「スミレェ!!」
十数分後、俺の耳に少女の叫び声が届いた気がした。扉も閉めて外の音はあまり聞こえない状態のはずなのに、だ。
「!! ユイ、今の聞こえたか」
「今の……ってなに?」
ユイは寝たままで首をかしげた。なら気のせいか。いや……。
「……嫌な予感がする」
シャガと電話してからそれなりに時間が経っている。もう着いてもいい頃だ。
それでも来ていないってことは。
「スミレ、見に行って来なよ。私は平気だから」
……園長モード。ユイのせめてもの激励。俺が動けなくならないようにするための目。
ああ、わかった。どうなったのか、しっかりと見てくる。
「スミレ……!」
病室を出ると気のせいではない、微かだが確かな声、ユリの声が聞こえる。
ロビーか。
「ユリ!」
ロビーには少女と少年が一人ずつ。看護婦に宥められているのはユリ。その隣には……。
「ス、スミレさん! シャガが! シャガが!!」
「……ッ!」
ダイ。
「スミレ! シャガがね! ダイちゃんをねッ!!」
「僕が悪いんですッ! 僕が、僕が周りを見なかったから……ッ!!」
二人は駆け寄ってきて俺のシャツの裾を激しく引っ張る。
……必死だ。あまりに必死すぎる。
こんなに必死と言うことは、つまり…………。
「事故に遭った子の親御さんですか! それならこちらに!」
看護婦の一人が俺に言った。腕を捕まれ、走らされる。
彼女が止まったのは手術中のランプの点いた部屋の前。ソファに俺とユリとダイを座らせ説明を始める。
「現在お子さんは緊急治療を…………」
説明していたが、なにも耳に入らない。耳に入らないし、視界もぐらぐらと揺れる気がする。
シャガは運命を変えられなかったんだ。恐らく俺と同じ道を辿る……。
「…………」
そのあともされるがまま。俺は案内され、なにか書類の手続きをし、ユイの部屋に戻った。
「あ、スミレ。シャガどうだっ…………」
言葉を詰まらせるユイも俺の顔と子供たちの態度から瞬間で察したらしかった。
まだシャガは治療中。数時間経たなければ結果はわからない。……万に一つ、ここで目を覚ますことを祈るしかない。
(……いや)
俺は首を振る。そうじゃない。俺のすべきことは祈ることなんかじゃない。
「二人とも、今日はユイと一緒にいてろ」
「え、スミレ?」
「やるべきことを思い出した」
そう言って俺は部屋を出た。
ケータイ電話を取りだし時間を見る。午後八時過ぎ。……ギリギリアウトか。
しかし構わず電話番号を入力し、発信する。
『もしもし?』
「もしもし、紀野です」
『あ、スミレくん? シャガくんたちならお見舞いに行くんだーって言ってたわよ?』
「はい。そのシャガのこととこれからのことについてお願いがあるのですが……」
「……そう、シャガくんが事故に」
「はい」
車を走らせ、家に停めた後隣のおばさんの家にお邪魔した。
「スミレくんの奥さんのこともわかったけど……ユリちゃんはどうするの?」
「ユリは、ここに置いていきます」
「…………お願いって言うのは?」
「ユリを……俺の娘の面倒を見てほしいんです。詳しく話せないのですがユリは連れてはいけないんです。だからここに残して、でもまだまだ誰かに世話してもらわないといけなくて…………!」
おばさんは悲しそうな目をしてお茶を一口飲んだ。
コト、と湯飲みを置くと同時に口を開く。
「遠藤さん、覚えてる?」
「も、もちろんです」
「遠藤さんたちも今のスミレくんみたいに私に言ってきたのよ。息子と娘を頼みます、って」
「鷹さんと蛍さんが……」
…………。
「二人とも君と同じように意思の固そうな目をしてね。私は理由も訊ねたし引き止めもした。けど、止まらないのね二人とも」
「……」
「引き受けるわ。遠藤さんの頼みだったし、スミレくんからも頼まれちゃ断れないもの」
「あ……ありがとうございます!」
俺は深く頭を下げる。テーブルに少し頭を打つが気にしない。
感謝だ。感謝しか頭にない。
「あれ、シャガくんは? 回復したら連れていくの?」
おばさんが不意に訊ねた。俺はピクリと眉が動くのを感じた。
顔をあげて息を吐く。静かに口を開いて俺は言う。
「シャガは、死にました」
「え…………!?」
「昨日事故に遭ってそのまま」
「え、お、大怪我なだけじゃないの? う、嘘じゃないの……?」
首を横に振る。
おばさんは目を見開いて、呼吸も難しそうに細かい息を吐いた。
「しゃ、シャガくんが…………。ゆ、ユリちゃんは知ってるの!? あの子はシャガくんのこと好きだったからショックなんてところじゃ……!」
「……!!」
ショックなんてところじゃない、か。……なるほどな。
次にすべきことはわかった。
だからおばさんに告げるのはそれをした後になるであろう状況。
「ユリはショックから心を守るために記憶を失いました。……彼女の防衛本能の結果なのだと思います。だから…………」
だから、ユリにはシャガのことを一切話さないでやってほしいと、俺は続けて告げる。
おばさんはもうそれは言葉に表せない表情で、しかしコクりと頷いてくれた。
「ではユリのこと……お願いします」
「は……はい」
静かに俺は荷物を持ち、見送りもなしに俺は家を出た。次の目的へと向かう。
次にすべきこと。
ユリの心を壊すことだ。
ユリが何故、小さい頃の親友で初恋の人を忘れていたのかは全くの謎だった。
ショックで忘れたのは知っている。しかしそれがどのような状況でいつ、どこで忘れてしまったのかはわからなかった。
今の今まで、不明だった。
そしてそれを今から俺が実行する。
まさか初恋の人がシャガなんて半ば信じられなかったが。俺がミズキとして生きていたあの日にシャガは既に存在し、病院で眠っていたなんて思いもつかなかった。
……そしてミズキがシャガを知る方法がなかったように、ここでユリの記憶を消さねばならない。俺が。
「シャガは、どうなりました…………」
「……体は薬と時間によって回復することでしょう。しかし事故の瞬間頭を強く傷付けているようです」
「つまり…………?」
「意識が回復する見込みがありません」
医師は言った。苦しそうな表情で。
反対に俺の心は冷め始めていた。それでいい、とさえ思う。
「まだ幼いためこちらにずっと入院させることをお勧めしますが……」
「はい、十年は面倒見てやってください」
「…………それと」
医師は更に気まずそうに眉を歪めた。
予想はついた。
「もし目が覚めても左半身に障害が残るかもしれません」
「わかってます。シャガのことお願いします」
「わかって…………? わ、わかりました」
手続きを済ませ、シャガの顔を見に行った。
「…………」
死んだように全く動かないが、手は温かい。先日のユイ程じゃないが生きていることは感じられた。
…………シャガ、必ず2015年3月4日には間に合え。それを逃しちまうとどうなるのか俺は全くわからない。
操おじいちゃんが心配していたように、お前の心がどうなるのか俺にはもうわからないから。だから必ず間に合え。
「じゃあな」
その部屋からも俺は出た。
そして…………。
「なあユリ」
家に帰る車の中、俺は助手席へ声をかける。
「なに……?」
シャガの事故が気になっているのだろう。テンションの低いユリは小さく返事する。
更にテンションを下げるようで悪いが、話しておかねばならないことがある。
「明日から俺もシャガもいなくなる、って言ったらユリ一人で生活できるか」
「な、なにが?」
突然の質問に戸惑うユリ。すまん、上手く話し始められない。
「ユリはもう大きくなった。多分家事も一通り教えたし、十分にこなせる。生活自体は一人でも暮らせると思うんだ」
「う、うん……」
戸惑ってる。少しずつ理解してくれ。
「明日から一人だ、っていきなり俺たちがいなくなった時一人で寂しくないか?」
「……寂しいと思う。多分泣いちゃう」
だよな…………。
「けどね」
しかしユリは寂しいだけで止めなかった。
状況を想像したのか涙目になっているにも関わらず、言葉を続ける。
「スミレやシャガがいなくなっちゃうときは絶対理由があると思う。二人はいっつも私に優しくていっつも私のこと考えてくれてたから、二人がいなくなるときは理由があると思う」
「……ふむ」
「もし私に理由を言わずにいなくなっちゃうなら、それも多分私のために二人が言わないんだと思う。それなら私は二人がいつか帰ってくるまで我慢する。我慢して頑張って、一人で暮らすよ」
もうユリは何かを察したのだろう。先ほどの泣きそうな顔から一変、笑顔に表情を変える。
目は赤い。
「そうか」
と俺は呟くしか出来ない。
ユリは薄々俺がいなくなることを察したはずだ。だから弱音のまま止めず、俺を引き留めないように心強い言葉まで絞り出した。
優しくて強いユリ。……決して楽じゃない生活を一人で過ごさないといけないユリ。
本当にごめん。お前のためなんだ。分かってくれているだろうが、謝らせてくれ。
「あ、スミレ。ひとつだけスミレが勘違いしてることあると思うんだ」
「ん?」
もう家の前と言うところでユリが言った。俺が勘違いしてること?
「うん」
なんだろう。浮かばない。
確かに楽じゃないが厳しすぎることもない、とかか? 金はおばさんに預けるから金には困らないだろうよ。
そう言うことではなさそうだが。
「私は一人ぼっちじゃない、ってこと」
「……!」
思わず目を見開く。
俺が心配していたことをユリは既に克服しているって? どうやってその域に辿り着けたんだ。
「隣のおばさんもいるし、近所のおじいちゃんおばあちゃんもいるよ。美容院のおねーさんも友達だし学校には先生も友達もたっくさんいるもん」
だから私は絶対に一人ぼっちじゃない、とまるで言い聞かせるように言った。教えてもないのにそんな言い方出来るんだな。
昔から……いや、今よりは未来だ。高校の時の言い聞かせるように話すのは、もう今には出来るようになっていたのか。
だが言い聞かせているのは誰にだ。俺か、ユリか、あるいは両方……。
「スミレも一人じゃないよね?」
「俺か……?」
「うん」
俺は…………。
「俺は……俺も一人じゃないさ」
昔はそう思っていた。この時代に来た頃は。俺はどうしてもここでは他と違う存在な気がしていたから、一人だと勘違いしていた。
でも紀野家がどこまでも俺を支えてくれた。あの頃のバカな俺は何を思って一人だとひねていたのかは知らない。ずっと皆が傍に居てくれてたのにな。
「今こうしてユリもいる。園長もダイも、他の園の子どもたちも皆いるしな。俺も一人じゃないよ」
「だね!」
と、そこで家に到着する。いくつかの荷物を持って家に入る。
…………これでユリは置いていける。この子は俺が思っているより何倍も強い。昔の俺の方がその強さを知っていたのに、いつから過小評価するようになったのか。
本番はここからだ。
俺はここで愛娘の心を壊さなければならない。




