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 紀野園の前には救急車が停まっていた。

 今年中学生になった少年に救急を呼ぶように言ったのでしっかりこなせたか。


「ユイ!」


 乱暴に駐車し運転席から暴れるような勢いで飛び出した。電話した少年、ナオキが俺に気付いて駆け寄ってくる。


「スミレさん! よかった間に合って。今すぐ園長さんについて救急車に乗ってあげて! 園のことは俺達でなんとかするから!」

「悪いナオキ!」


 救急車に寄り隊員の一人に夫であることを告げる。すぐに俺は車に乗せられ病院へ向かった。

 ユイは苦しそうに呼吸をする。顔色も悪い。正しくシャガの時、遊園地で見たのと同じ状況だ。


「スミ、レ。ハァ……ハァ……スミレ…………!」

「ユイ……!」


 弱々しく俺に伸ばす手を取る。強く握ると少し安心した表情になった。


「ごめんな、こんな状況になる前に幾らでも出来ることがあったのに……!」

「いい、よ。わかってる……から」


 苦しそうに、冷や汗を流して、それでもユイは笑ってくれた。本当に彼女にはわかっているんだと思う。だから笑ってくれる。苦しくて仕方がないはずなのに、笑ってくれる。

 ……ごめん、ユリの未来を優先してしまって。


「ユイ、きっと大丈夫だ。大丈夫だからな」

「ハァ……ハァ……うん…………」


 病院へはすぐに着いた。

 着くとユイはすぐさま奥へと運び込まれる。俺も追いかけたが、途中で止められてしまった。

 心配だ。不安だ。通路にあるソファにうなだれ座るも、落ち着かない。

 その不安は俺の手を携帯電話へと伸ばさせたが、ケータイを開いたところで手を止める。


(……シャガはどうなる。あいつは見舞いに来るときに事故に遭うんだろ)


 それに、今はユイがどうなるかわからない。先が完全にわからない以上出来ないことを増やすべきじゃないか。

 変なことはせずに大人しくユイを待とう。


「ふぅぅ……。大丈夫だ」


 自分に言い聞かせる。悪い方向に考えるべきじゃない。


「そうだ、あの時スミレはなにも言わなかっただろ。きっと大丈夫だ」


 あの時。

 俺が轢かれ、九年経って目を覚ましたあの時だ。

 過去に戻ることを思い付いた俺を、スミレは止めなかった。止めなかったし、助言もなかった。ユイになにか起こるなら、未来の俺は確実に変えようと助言したはずだ。

 それがなかったと言うことは、きっと大事には至らないと言うことだ。


「大丈夫だ……大丈夫……」


 頭を垂れ、ケータイも置いて。一人で俺は呟き続けていた。






「紀野さん。とりあえず落ち着きました」


 数時間経ち、俺は呼ばれた。ユイを調べてくれたであろう医師に連れられ、彼女がいる個室の病室へ入る。


「奥さんに起きたのは、心臓が原因の病気です」

「心臓……?」


 ユイは穏やかに眠っていたが、腕には点滴。他の部分は布団で見えないが、コードが伸びていて健康であるとは言えなかった。


「ええ。誰か心当たりなどありませんか? 遺伝的に心臓に何か抱えていたりなど……」

「そんな人ユイの血縁にいな……あ」


 いた。


「心当たり、ありますか?」

「彼女の祖父が、心臓の病で亡くなりました」

「ふむ。きっと同じようなものでしょう」


 ……じゃあユイも助からないってのか。


「いえ、安心してください。奥さんはまだ若いのと、発見がギリギリ間に合う段階でしたので命に別状はありません」

「ほ、本当ですか! よかった……」


 よかった。本当に、よかった。


「ですが、環境は変えるべきかと思われます」

「転地療養……ですか」

「ええ。少しこの辺りの空気や環境は奥さんの体によくありません。ここよりもっといい病院も遠方にありますので、出来るならばそちらに行かれた方が良いかと」

「場所を、変える……か」


 俺は眠るユイを見ながら考える。

 ユイの病気が治るのならそっちに行った方が良い。だが、問題がいくつかある。

 まず紀野園はどうする。まだ里親もいない子供や、ろくに歩けもしない赤子さえいる。そんな子達を置いて俺たちだけ引っ越しはできない。

 そして、ユリだ。仮に俺たちと共に行けば、未来は確実に変わる。そうすれば城井瑞樹と出会えなくなってしまう。城井瑞樹と出会えないなら、必死に今まで生きてきた俺たちの存在そのものが否定されてしまう。

 ……いや、ユリは。ユリは恐らく…………。


「今すぐに決めなくてもいいでしょう。奥さんの容態が落ち着き次第二人で話し合っては如何でしょうか。出来るだけ早い方が我々も準備がすぐに出来ますので、早いに越したことはないのですが」

「ええ、はい。ありがとうございます……」


 医師に頭を下げる。医師は困ったように手を振って病室の扉の方へ。


「いえいえ。すぐに何か起こるわけではないでしょうが、何かあればそのブザーで呼んでください」

「はい」


 医師は扉を開け、病室を出ていった。

 部屋には俺とユイが取り残される。無機質な機械の音が煩わしい。


「…………」


 ユイの手を握る。

 温かくて、脈すら感じられた。

 操おじいちゃんが亡くなった時の手より遥かに温かくて、ユリが力を失うあの時よりもずっとずっと力強さを感じた。

 ……よかった、ユイが生きていて。ユイが生きていて、本当によかった。


「ユイ、よかった……よかったよ…………」







 数時間後、どうにか調子を取り戻した俺はシャガに電話することにした。


「……」

『もしもし? どうしたスミレ?』


 夕方四時頃では彼らは外に遊びに出掛けていなかったようだ。すぐにシャガが電話に出た。


「紀野園長が倒れた」

『!?』


 短く告げる。

 しかしシャガが質問する前に説明を付け足さねば。


「今日の昼頃に倒れて、今は検査して病院で眠ってる。でもまだ傍にいて様子を見てやらないと行けないようだから今日は帰れん。その連絡だけだ」

『あ、ああ。わかった。ダイちゃん泊まらせてやったらいいんだな?』


 察しが良くて助かる。


『園長さん大丈夫なのか? それと、ダイちゃんたちには秘密にしておいた方がいい?』

「……正直園長の容態はわからん。まだ起きてないからな。ダイたちのことはお前に任せたい。園の子供は皆もう知ってるから教えてもいいとは思う」

『わかった』


 落ち着いた様子で返事をするシャガの声を聞くと、やはり先程のナオキより歳上であることを実感する。

 高校生……いや、あと数日で大学に通い始めるところだったシャガにならダイとユリを任せられる。


『なんでそこまでの事情知ってんだよ。話したことあったか?』

「ただの予想だ。ともかくそっちは任せた。俺は早ければ明日の朝に帰るからな。紀野の様子を見ているから」

『あいよ。…………スミレも紀野のくせに』

「え? ちょ、おま」


 そこで電話が切れた。

 え、待てよ! なんでお前そんな事情知ってんだよ!? 話したことあったか?!

 結婚したことは察しがついても戸籍の流れなんてどうやって…………。


「スミ、レ」

「あ、ユイ。大丈夫か…………?」


 身体を起こそうとするのを手を振ってやめさせる。今は身体を動かさない方がいい。


「私、どうしたの……」

「子供たちと鬼ごっこをしているときに倒れたと俺は聞いたが、覚えてないか?」

「あ……そうだ。走ってたら心臓がなんか」

「うん、それが原因らしい」


 走ったことで心臓が活発に脈打ち、その負担のお陰で発覚したようだ。昨日の遊園地で何もなかったのは走らなかったからだと思われる。

 天井を見つめ、焦点のなんとなく合わないユイの手を握り、俺は話をする。


「ユイ、落ち着いて聞いてほしいんだが」

「私の体、結構大変なんでしょ?」


 先に言われた。首だけ俺の方に向けて微笑んでいる。

 え、ああ、そうだ……。と情けない返事をしてしまう。


「子供たちの世話はまた出来るようになる? それが出来ないくらい駄目?」

「……わからない。けど、それを望むならこの町から離れなければならない」

「そう」


 依然彼女は微笑みを絶やさない。悲しそうに眉を下げ、目は赤くなっているが、頬は引き上げられていた。


「でも子供たちを置いて引っ越しはできないだろ? だから正直どうすればいいのか俺はわからないんだ」

「……こんなこと言うと酷いのかもしれないけどね」


 ユイの、俺の手を握り返す力が強くなった。微笑みは消え、意思の強い表情に変わる。


「スミレの力で園ごとお引っ越し出来ない?」

「……ほぇ?」

「私は園長だけど権力なんてないし、人脈も大したことない。ましてやお金なんて全然持ってない」

「あ、そうか。俺がまた作ればいいのか」


 どこか知らねえけどユイが行った方が良い病院へ、俺が紀野園ごと持ってけば良いんだ。ユイは言いたくなさげだけど、金なら腐るほどあるからな。


「じゃあ俺先生に何処か訊いてくる」


 ユイの手を離しつつ椅子から立つ。

 病室を出るために扉に手をかけ。


「ねえ!」


 ユイに呼び止められた。


「ユリは……どうするの?」


 寝転んだまま、顔だけこちらに向けて言った。


「…………」

「あの子は、連れていけないんでしょ……? ミズキくんと、出会えなくなるから」

「……ああ」


 その通り、ユリは連れていけない。多分スミレと言う人間がユリの前から姿を消すのは確定事項なのだ。

 そうしなければ大変な矛盾が発生する。未来が大きく変わってしまう。…………ユリは死んだままになるのかもしれない。


「さっきも少し考えたんだけど、な。やっぱりユリは一人になる運命なんだと思う。俺の頭が回らないだけかもしれないけど、あいつを連れてあの日の俺(城井瑞樹)と出会えるとは思えないから」


 その運命だけは変えられない。変えたくないし、変えてはいけない。

 ユリの両親はミズキとユリが幸せになることを望んでくれた。前園長の操おじいちゃんもその手助けをしてくれた。今まで頑張ったであろう何人もの俺の努力も無駄にしたくない。

 たくさんの思いを託された今の俺が、一番大事な部分を壊せるわけがないだろ?


「……じゃあ置いていくんだね」

「ああ。でも」


 俺は扉を開く。一歩出て、振り返ってユイに言う。


「一つだけシャガに賭けてみたいことがある」


 運命を変える子供の、最も運命の定まらない瞬間に。

 俺は賭けたいことがある。









 先生に聞けばその病院は関西にあるらしい。ユイにはとりあえず聞いた話をし、やはりそちらに引っ越そうと決めた。

 関西……。随分遠いし、どんな手続きと準備をすればいいのか全くわからない。ただ引っ越しするんじゃなくて、子供たちの学校とかが特に時間が掛かりそうで…………。

 と、途方に暮れそうになって思い出したことがある。今はそれを引っ張り出すために紀野園に戻っているわけだ。


「……よし」


 駐車場に停め、車を降りた。紀野園は随分静かだ。

 図書室に着いても誰とも会わない。


「まあいい。それより」


 俺は奥の金庫に手を伸ばす。7、2、3、1、0だったな……。必死に考えてわかったが、これじーさんの名前になっている。

 ポケベルで彼の名前を入力する。72で【み】。31で【さ】と言ったところか。

 最後に【お】を意味する0を入力すると鍵が開いた。


「えーと? あ、あった」


 いくつかある大事な封筒の中から目的のものを取り出す。


「六時前……微妙だな」


 時計は五時五十分を指していた。

 いや、一度電話しておくべきだ。


「072…………」


 じーさんの遺した封筒の内一つ。その中に書かれた電話番号をケータイに打ち込む。

 十桁の数字……打ち終えた。


「ふぅ……」


 なぜだか緊張し、俺の指は震えていた。

 今まで誰かに頼り続けて、また新しい人に俺は頼らねばならない。その人もまたいなくなるのか……?

 そんな不安が、妙に緊張させてきやがる。


「……えい!」


 コールボタンを押した。すぐさまケータイを耳に当てる。

 無機質な呼び出し音は余計俺を緊張させ、焦らせた。


(頼む出てくれ……! 早く…………!!)


 プツ、と呼び出し音が途絶えた。

 繋がった…………!


『もしもし?』

「も、もしもし! きの、紀野操です!」

『紀野操……?』


 間違えた!

 渋い男性の声が電話の向こうで唸っている。


『操さん……なるほど、君がスミレくんか』

「え、お、俺の名前……」


 どうして、と呟くと同時に返事が来る。


『操さんに言われていただけさ。いつか頼りに来るかもしれない、と』

「そうなんですか……」


 じーさん……どこまで俺たちを助けてくれるんだ。本当に、本当に感謝してもしきれない。


『では用件を聞こう。君は今どんな状況でどうしてほしいのか』

「はい。お願いします、北川さん」


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