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「シャガ大丈夫なの……?」
ユリが不安げに訊ねた。静かに、細い声で。
「スミレぇ……」
「大丈夫だ。シャガはすごく疲れて眠ってるだけだから」
ベッドで眠るシャガの手を握るユリ。俺はその小さな頭を撫でて、少しでも気が楽になることを願う。
「…………」
ユリは横に座ってずっと手を握っていた。何分も、何十分も。
俺も特になにも言わなかった。シャガが助かることは知っていたし、今のユリはどんな言葉も耳に入らないだろうから。
しかし俺にも不安なことが浮かんできている。
「シャガ……」
ユリの様子だ。
今までユリがこんなに不安そうにした顔を、スミレとしての俺は見たことがない。いつでも元気に笑って、時に駄々をこねて泣き叫んだこともあったが、どれも辛そうではなかった。
いや、スミレとしてだけじゃない。シャガの時にもこんな顔をほとんど見なかった。あったとすればユイが遊園地で倒れた時。……あと俺が車にはねられる瞬間くらいだったか。
(俺が知らないときにもこうなっていたのか……?)
暗い物憂げな表情。このままシャガが起きなかったら、なんて考えて不安になっている顔。
そして俺が不安になってる内容ってのが。
(ユリはシャガに依存し始めていること……)
表情を見るだけでも相当であることがわかる。友を心配するのは当然だが、今のユリの目に宿る焦りと不安は、心の拠り所を無くすことを恐れた人間の目だ。心の拠り所、依存対象か……。少し厄介だな。
何が厄介ってシャガがそれに気付かないことだ。シャガはずっと、ユリは自分に何も思っていないと信じ込んでいるからな……数年後シャガが事故に遭ったとして、俺がそれを助けられなかった場合ユリは取り残されるんだろ。俺も何かしらの理由でいなくなる。
依存対象をなくすとまでは行かなくとも、幼い少女が突然一人になる苦しみに耐えられるのか……?
「ユリ、今日は一度帰ろう」
「!? や、やだ……」
ユリは一瞬驚愕を目に浮かべ、そして小さく呟く。俺が帰ると言うなんて考えてすらなかったか。
「ゆっくりシャガを休ませてやらなきゃダメだろ?」
「ユリもここで寝る……」
きゅ、と布団の端を握るのは可愛らしいが、やっぱり帰らないといけないぞ。
うーん、なんと言うべきか……。
「シャガは一人で寝たいみたいだ」
「……そんなことないもん」
「ここで寝たらユリが風邪引くぞ?」
「平気だもん」
「もしユリが風邪引いてたら、せっかく起きたシャガがすごく心配しちゃうだろうなぁー」
「そんなこと…………ないもん」
少し効いたか?
「起きてすぐ元気なユリを見れた方がシャガはすごく嬉しいだろうなー」
「……」
「頑張ってユリを助けたんだ。まず元気なユリを見たいだろ?」
「むぅ……」
そこまで言うと、ユリは仕方ないとでも言いたげに椅子から立った。
「わかった……帰る」
「よし、いい子だ」
じゃあ、と部屋から出ようとするともう一度ユリはシャガの元まで走っていき。
「また明日来るからね」
ぎゅぅぅうと手を握ってからシャガから離れていた。羨ましいやつ。
さて、犯人達については俺の知る通りだった。前から子供を狙っていたと。業者の車なのは本当にそこの業者だかららしい。
ユリを見ていたと言うがいつ見かけたのか俺には全くわからない。一度話を聞いたはずなのに全然予防出来てなかった。……忘れていたと言うのは許されそうにないな。他にも狙っていた子供がいると言うのだから、俺もタマを蹴り潰しときゃよかった。
そして俺が声を掛けた男は、やはり俺が十七の時に襲われたやつだった。ミズキからすると突然襲われて撃退したら復讐とか言われた、訳のわからない事件だからな。シャガとミズキは同じ顔だから勘違いした、ってのは今の俺だからこそわかる事実だ。
どうにかそれも防いでやりたいものだ。ミズキなら撃退出来るけどさ。
「つーかシャガも無茶しやがって……」
原稿用紙を眺めながら忌々しく呟く。まったく……。
そもそもの事件を知っていたのに起こしたのは俺だが、無茶したシャガがそれで叱られないわけがない。
俺に叱る権利はないけど、俺は叱る義務がある。ホント無茶しやがって……。
「明日叱るときは首をこう! だな」
ガシッ! と掴もうガシッ! と。
次の朝、ユリの家に泊まったダイを紀野園へ帰す。ユリの無事を喜んだと同時にシャガの怪我を心配していた。とりあえず園長に預けて、また元気になったときにシャガを連れていこうと思う。
「シャガもう起きてるかな?」
「んー。まだだろうな」
車の中、病院に向かう途中でユリが聞いてきた。助手席で足をぶらぶらさせてるのを見て思わず目を細める。昨日より元気になったようでよかった。
「だってシャガがよろこぶんでしょ? だったら元気にならないと!」
「そうだな」
頭を撫でると嬉しそうに笑った。あー、あと何年くらいこうやって頭撫でてられるんだろうなー。
「シャガ!」
病室の扉を開け、ユリは叫んだ。個室だから良いものの……。
今は十二時少し前。シャガが起きるのはあと四時間後くらいだろう。少し時間を待たなければならない。
「シャガが起きたらまずありがとうって言うの! それでお礼にクッキーつくってあげるの!!」
「……羨まし!」
始めの一時間はユリは俺に色々な話をして、シャガが目を覚ますのを待った。
「…………」
次の一時間は無言のままシャガの手を握って待った。
「お腹すいた……」
残るところあと一時間と言う時に、ユリは俺に訴えた。
そういえばそうだな。朝から忙しかったのと、ユリが急かすのですっかり忘れていた。
「じゃあ売店で適当に何か買うか」
「うん! シャガ、ユリが帰ってくるまで起きないでね。起きてたら怒っちゃうから!」
なんでだよ。
ふと笑みをこぼしてしまうユリの仕草。……あと四年ほどしか見れないのか。
「なにがいい?」
「おにぎり! こんぶ!!」
そう言うから真っ白のおにぎりと塩昆布を分けて買おうとしたら文句を言いやがった。何が悪いかわからない。まったく。
「こんぶおにぎり!!」
「あーなるほど。なるほどなるほど」
ユリに買うのはおにぎり一つとお菓子一つ。チョコクッキーが好きらしい。それだけでお腹いっぱいになってくれるから金の方は助かるよなぁ。すごい余裕はあるんだけど。
俺は適当に海苔弁当。
「いただきまーす」
ロビーのテレビを眺めながら二人で飯を食う。
他の患者も歩き回ってるし、壁は白いし、病院特有の匂いが鼻を刺激するが。まあ腹膨れさすだけだしいいか。一応飲食可能スペースなんだけど匂いの強い食べ物とか迷惑じゃないかなぁ、とか思う。
目の前でおじさんがハンバーガー食ってたから気にするのをやめたけど。
「シャガまだ起きない?」
「もうすぐだな」
そんな問答を数回繰り返して二十分ほど潰した。もう時計の針は四時を指している。本当にもうすぐだろう。
「……ん。すまんユリ、電話掛かってきたからシャガを見ておいてやってくれ」
「わかったー」
俺のケータイに掛かってきた電話を受けながら、病室を出た。
相手は編集の彼。案の定スターティングの話だった。
「それでですね。来月から結構先生に頑張ってもらわなくちゃいけなくなって……」
「来月……。うん、大丈夫です」
特に予定がなかったことを確認して、俺は答えた。
「ああ、じゃあお願いします。結構徹夜など強いるかもしれないですが、十分な睡眠休憩してくださいね」
「来月からね、来月」
そうかー、来月から忙しいかー。本当に特になにもなかったよな?
まあそんなこと考えてももう電話切ったし、いっか。
「ス、スス、スミレ! シャ、シャガ起きたよっ!」
「ん、そうか。……ってユリ、顔赤いけど大丈夫か?」
電話を終えた俺にちょうどのタイミングでユリは話しかけてきた。シャガは無事目を覚ましたらしい。
「だ、だいじょーぶ!」
「本当か? 風邪とかうつったんじゃないだろうな?」
「だいじょーぶだってば! ……ユリクッキー食べてから行くからスミレ先行ってて!」
「本当に大丈夫なのか……?」
半ば強制的にユリに病室まで押されて、俺は扉を開けた。ユリはその瞬間驚いた猫のように飛び上がって逃げてしまう。……本当になんなんだ?
扉を開けると居るのは当然シャガ。寝そべったまま天井を見上げ、左手を頬に当てて呆けていた。
「……お前もどうしたんだ」
「え、あ! スミレ! どうした!!」
ガバッと体を起こそうとして、シャガは痛みに顔を歪めた。
あーあ、脇腹の辺りの骨にヒビが入ってるってのに。
「げっ、マジかよ。確か折れるより治りが遅いんだよな」
まあな。それより頭とかは大丈夫なのか? 医師が言うには、普通の子供より腹筋が有ったから腹は大丈夫だとか。
助けてほしそうだったから体を起こすのを手伝ってやる。
「少しクラクラするかな……。なんか一日中寝てたときみたいな気分の悪さはある」
そりゃそうだ。お前は入院期間中ずっと寝てたんだから。
「言っても二時間くらいだろ?」
「いや……」
そういえば俺もそんな風に思ったっけな、と思い出して少しばつが悪くなる。訂正してやろう、その間違いを。
「お前が寝てたのは一日と二時間なんだよ」
「え」
「あまりに大きいダメージと急な環境の変化に体が追い付かなかったらしい。それでも一日で目覚めたのは先生も予想してなかっただろう」
当然と言えば当然だ。大人に殴られて蹴られて、マイナス十度の所で思い切り体動かしてたんだから。
ユリを助けるためとは言え精神的にも物凄く疲労したことだろう。奴らと対峙した時の恐怖心は今もまだ思い出せるくらいだから。
「じゃあ今から医者が来るのか?」
「ああ。だがその前に」
「?」
さて、俺の義務を果たすとするか。
俺はシャガの額を指差して言う。
「なんであんな無茶をした」
思ったより低くキツい声が出た。まあいい、叱ってるわけだから多少はな。
「……ユリが心配だったから」
シャガは申し訳なさそうに俯いた。この時点で十分反省していると言ってもいいのだろうけど……。
俺が話したいのはこれらのあとだ。
「今回は命に関わらなかったから良かったものの、お前はまだ六才だぞ? 大人とは圧倒的に違うんだ」
「うん。だから頭使って対抗しようと……」
わかってる。俺もそうした。未来の俺に言われるまでもなく俺は体で勝てないのはわかっていた。
けれどやはり俺が言いたいのは、言われて救われたのはこれじゃない。
「シャガ、お前が元高校生なのは疑ったりしない。それこそ、今回の対処の仕方を見て、小学一年であることが信じられなかった。けどな」
俺は続ける。本心から言ってやりたかったあの言葉を。初めて会ったときは微塵も思わなかったけれど、一年同じ家で過ごし、話し、笑い。
そうする内に少しずつ思い始め、そして今回の火事誘拐事件で確信した。
「高校生だろうと小学生だろうと、お前は俺の息子だ。一人で突っ走らずに俺を頼れ。父親の俺を」
「…………」
言うとシャガは首を垂れた。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、呟く以上に小さな声が落ちる。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
「……ん」
何に対して謝ってるか、なんてことは俺が一番わかってる。俺が一番この瞬間のシャガを理解している。
だからあの日俺がスミレにしてもらったように、俺は今シャガのこの小さな頭を撫でてやろう。
「ごめんなさ……うぁぁぁああああ」
泣きじゃくるシャガを見て思う。
俺とユリはずっとお前の家族だ。ずっとずっと家族だ。忘れるんじゃないぞ。
と。
「やーだぁぁぁぁああああああ!!!」
「え、ちょ、ユリ」
「シャガと寝るもんーー!!!」
大声をあげて泣き叫ぶユリ。俺が何を言っても聞かず、シャガまでがもう為す術がなくなってしまった。
さっきちょっと良い話したのに、しまらないなぁ……。




