記憶に残る顔
マキちゃんは、うちの部署のアイドル的存在だ。
明るくて朗らかで職場一の美人、仕事の業績もかなりのものだ。休憩時間には必ずお茶を入れてくれるし、残業も進んで引き受けてくれる。
よく気が利くというか何というか。かゆいところに手が届く、マキちゃんは孫の手みたいな女性だと思う。
艶やかなロングヘアーが印象的な彼女に、恋して早二年。
俺はようやく、告白するチャンスをつかんだ。
柄にもなく高級レストランを予約して、マキちゃんを夕食に誘ったのだ。
もちろん当日は上等のスーツに身を包み、バラの花束を抱えてレストランに向かった。
待ち合わせ時間ピッタリにやってきたマキちゃんは、職場にいる時とはまるで別人だった。私服姿の彼女を見るのが初めてだったせいかもしれない。
とにもかくにもレストランデートは順調に進み、ついに最終局面を迎えた。
「マ、マキちゃん! 実は俺、二年前からずっと君のことを――」
ビールジョッキを打ちつける音が、そこらじゅうで響く。美味しそうなツマミの匂いが漂い、あたりは白い湯気で満たされていた。
『居酒屋 ブロッケンハート』それが、この店の名前である。
そんなサラリーマンたちの笑い声と歓声が絶えない店内の一角に、寂しい男の背があった。
どこにでもいそうな平凡な顔立ちの、くたびれた男だ。彼は先ほどからずっと、店主にグチを聞いてもらっていた。
「それでね、ヒック。告白したんですよね、マキちゃんに。ヒク。で、見事に振られたわけですよ! あははは、ううっ、うううっ。大将っ、ビールもう一杯」
「へいへい! 旦那、大変でしたねえ。まあ、気が済むまで飲んでいってくれ」
それでも沈んだ表情の男に、大将は紙とペンを差し出した。それから手慣れた様子で、男にペンを握らせる。
「さあ旦那。これに愛しのマキちゃんとやらの顔をかいてみな! きっと驚くぜ」
男は頭に疑問符を浮かべながらも、黙って大将に従った。
とりあえず丸の中に、目と鼻と耳と口を書き込む。それから長い髪を付け足し、制服姿の上半身を書いた。
自分で書いた絵だというのに、男は呆然とした表情で絵を見つめている。大将が横から覗き込んできたところで、男はようやく顔をあげた。
「旦那、人間ってのは案外、相手の顔を見てないもんだよ。髪型ひとつ変わっちまうと、別人みたいに思えるもんさ」
次の日、職場でのマキちゃんは変わりなかった。相変わらず明るくて朗らかな、部署のアイドルだ。そして俺への接し方も、告白前と全然変わっていない。
前までとまったく同じ態度で接してくれるのは、嬉しくもあり寂しくもあった。
俺はこっそりと、マキちゃんの顔を盗み見た。やはり部署一番の美人だけあって、キレイな顔をしている。
でもなぜか、数分も経つと彼女の顔を鮮明に思い出せなくなっていた。
「斎田さん、お茶ですよー」
いつも通り、マキちゃんが運んでくれたお茶を飲む。しかし俺は、変な違和感を感じた。
「お茶の銘柄、変わった? なんか味が違うけど……」
「え、知りませんよ。いつもお茶入れるのは、私じゃないですから」
俺は平静を装ってふうんと聞き流したが、心の中で驚愕していた。
給油室なんて普段近づかないから、なおさらだ。まさか他の人が入れたお茶を、マキちゃんが我が物顔で配っているとは思わなかった。少なくとも部署内の男性全員は、マキちゃんがお茶くみをしていると信じている。
もちろん役割分担という意味なら、お茶くみ係と運ぶ係がいればちょうどいいかもしれない。しかしこれでは、一番大変なお茶くみの人が可哀想な気もする。
「普段、お茶入れてくれるのって誰?」
「斎田さんと同期の遠藤さんですよ。今日は遅れてくるそうですよ」
遠藤さん、さすがに俺もその名は知っていた。
仕事熱心で真面目な女性、というイメージしかない。どちらかというと、控えめで地味な印象だ。
そういえばよくマキちゃんと一緒にいる気がする、もしかしたら仲がいいのかもしれない。マキちゃんばかり注目されているが、遠藤さんも残業数なら負けていない。
しかしいかんせん業績が悪く、いつも上司に怒られている。
なんとなく遠藤さんのことを考えていると、急に肩をぽんと叩かれた。マキちゃんだ。
「ね、斎田さん。また今度、夕食誘ってくださいね! 恋愛とかは無理ですけど、ホテルくらいなら付き合いますから」
このとき初めて俺は、マキちゃんの笑顔に癒されなかった。
「残業っていいですよねえ、残ってるだけで残業手当もらえるし。あ、遠藤さん。コピー機使うなら、ついでにこれもお願いしていいですか?」
「あ、はい、大丈夫です。……マキちゃん、仕事のノルマは終わった?」
「それがなかなか終わらなくて……。遠藤さんお願い! あのデスクの書類だけ、頼んでもいいですか」
「う、うん」
俺が目撃したのは、おそるべき光景だった。
たまたま忘れ物をして会社に戻ってきたのだが、そこにいたのはマキちゃんと遠藤さんだけだった。そしてマキちゃんのデスクには、終わってない書類が山積みになっていた。
おそらくは、他の人に頼まれた仕事を安請け合いしたのだろう。にも関わらず、マキちゃんは爪の手入れに夢中にみえた。
遠藤さんはというと、自分の仕事そっちのけでマキちゃんの仕事をこなしている。これが毎日だとしたら、遠藤さんの業績が伸びない理由もわかる。
俺はこっそりと自分のデスクに寄り、忘れ物を取った。その反動で、隣にあった山積み書類が一斉に落ちてきた。
雪崩のようになった書類のせいで、二人がこちらに気づいてしまった。
「あ、斎田さん! どうしたんですか?」
マキちゃんが人懐っこい笑顔で聞いてきたので、俺はたじろいだ。遠くから、遠藤さんの「大丈夫ですか」という声も聞こえた。
「あ、ちょっと忘れ物。それより二人とも大変だね、もう十時まわってるよ」
ごまかすように俺が言うと、マキちゃんが目を丸くして時計をみた。そして、みるみるうちに顔を青くしていく。
「やばっ、十時半に約束してるんだった! 遠藤さん、お先に失礼します」
「えっ? あ、あの。マキちゃん、残った仕事は……」
「あ、置いといてください。明日、謝れば済むことだし」
遠藤さんの静止も聞かず、マキちゃんは飛び出していった。残されたのは俺と遠藤さん、そして書類の山だけだった。
しばらくは呆然としていた遠藤さんだったが、やがて諦めたように作業を再開した。その顔には、焦りや苦しみがにじみ出ている。放ってはおけないほど、彼女はやつれていた。
「遠藤さんは自分の仕事に専念していいよ。マキちゃんのは俺が片付けるから」
崩れた書類を戻しながら、俺はつぶやいた。背中に遠藤さんの、申し訳なさそうな視線が突き刺さる。
「でも斎田さん、今からじゃ残業代もらえませんよ? それに、頼まれたのは私だし」
「それじゃ、お茶、入れてくれませんか? 今日はまだ、美味しいお茶が飲めてないんですよ。それが残業代ということで」
ちらりと遠藤さんの顔を見てみると、彼女はびっくりしたように目を見開いていた。
ほつれた短い黒髪が額にくっついており、後ろでまとめられた髪もボサボサになっている。
青白い肌に、つぶらな瞳と低い鼻が際立って見える。そして頬だけは、ほんのり熱を帯びたように赤い。疲れのせいで、体温が上がっているのだろう。
すぐに頭から消えてしまったマキちゃんの顔より、遠藤さんの方が可愛く感じた。
居酒屋ブロッケンハートの大将は、ふと半年前の客を思い出した。
マキちゃんとやらに振られたその男は、ひどくくたびれた印象だった。
(どっかで野垂れ死にしてなきゃいいけどな)
そんな大将の心配をよそに、また新しい客がやってきた。大将は気持ちを切り替えるように、大きな声で挨拶した。
「いらっしゃい! お客さん。カップルさんかい?」
店内に入ってきたのは、スーツ姿の男女だった。二人とも幸せそうな顔をしており、大将の方まで心を躍らせた。
「どう、遠藤さん。いい店だろ?」
「ええ。斎田さんって、本当に色んなお店を知ってるのね」
男の言動に、大将は不思議そうに首をかしげた。大将は、スーツ姿の男にまったく心当たりがなかったのだ。
「お久しぶりです」
大将の動揺を知ってか知らずか、男はにっこりと笑ってみせた。
もちろん覚えのない大将は、愛想笑いをしながらすまなさそうに尋ねる。
「へい、まいどご贔屓に。……と言いたいんですが、あんま見かけない顔だが、どちらさんだったかね?」
すると男は、面白そうにケラケラと声をあげて笑った。それからもったいぶるように一呼吸置くと、自信に満ちた声で言った。
「大将。人間の顔なんて、案外覚えてないもんだよ」