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王の妃  作者: s
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 カサリ、と落ち葉を踏みしめる音に、珠嬰は緩慢に後ろを振り返った。

 予測どおりの人物を見つけ、また、涙が頬を伝った。

「珠嬰」

 その涙を氷旺の手がそっと拭う。

「……」

「その、手当てをしに来た」

 何も言わない珠嬰に動揺しているのか、氷旺の声はどこか頼りない。

「手当て?」

 顔を上げると氷旺と目が合い、ふっと微笑まれた。

「手を。それと腕も。痛めているのだろう?」

 さも、自分は気づいていたのだという振りをして、氷旺はそっと珠嬰の手を取った。

「……お怪我は、もうよろしいのですか?」

 触れられた場所からカッと熱が上がったことに知らぬフリをして、おずおずと氷旺の肩を見上げた。

「ああ、大事ない。この程度の怪我、慣れている」

「左様にございますか」

「ああ」

 沈黙が降りる。

 だが、決して嫌なものではなかった。

 先に沈黙を破ったのは珠嬰の方だった。

「此度の一件、黒幕の検討はついたのですか?」

 こくり、と氷旺の喉が鳴ったのが分かった。

「……ああ。すでに、調べはついていたし、後は証拠だけだったんだが」

「例の、毒矢ですね」

 正確に言うならば、その矢に塗られていた毒、ということになる。

 氷旺は、複雑な表情を浮かべて、そうだ、と頷いた。

「矢はどこにでもあるようなものだが、あの毒は桐国製のものだった」

 それが決定打だった。

 これでもう、父王は一切の言い逃れなど出来ないだろう。

 桐は滅びるのだろうか。

 あのような思いを味わった国だとしても、祖国だと思えば哀愁が湧く。

「いつも肝心なところで詰めが甘い方のようでしたから。我が父は」

 零れそうになった泣き言をぐっと飲み込んで笑ってみせる。

 愚かな父上。

 何故、庚を滅ぼそうなどと思ったのか。滅ぼせるなどと夢見たのか。

 所詮、小国の王、世界の広さを知らぬ小さき山の主、ということなのだろうか。

「珠嬰」

「お気になさらず。それから私を処罰なさるというのならどうぞご随意に。疑われても仕方のない立場にあるのですから」

 初めから、桐王が疑われていたのなら、全て納得がいく。

 一年余り王に見向きもされなかったことも、この青洲までの旅に、突然、何も知らされずに連れてこられたことも。全て、詮議にかけられていたのだとしたら。

 さしずめ、父王が計画犯で珠嬰が実行犯といったところだろうか。

 どこまで私は振り回されれば良いのだろう。

「疑っていない」

 思いのほか強い言葉だった。

 ごくりと唾を飲み、目を泳がせた。

 今の言葉の真意を必死に咀嚼しようとした。

 疑っていない、とは?

「初めから、疑っていなかった。言っておく。この一年余り、お前を、その、放置……状態にしていたのは別に、疑っていたからではない」

「よ、良いのです。お気を使わずにどうか」

「聞け! いや、聞いてくれ。聞いて欲しい。お前に。全てを」

「……」

「桐国に攻め入った日、本来は完膚なきまでに滅ぼすつもりでいた」

 はっと顔を上げた。

 氷旺の揺らぎのない深い漆黒の瞳が目に写る。

「桐国国王の企みは、庚国国主として、決して赦されるものではなかった」

 こくりと頷く代わりに目を伏せた。

 氷旺は淀みのない声で続ける。

「だから、見せしめのためにも打ち滅ぼしてしまおうと考えていた。これは庚国の総意でもあった」

 だが、と呟き、氷旺はそっと珠嬰の頬に触れる。

「俺は、お前を見つけてしまった」

 動揺し、数度瞬きを繰り返した。

「自分でも不思議なんだが、その、急に惜しくなってしまったんだ」

「??」

「つまり、その」

 言いづらそうに目を泳がせる氷旺に小首を傾げる。

 つまりだな、と氷旺が一つ咳払いをした。

「一目で落ちた。お前に」

 真剣な顔で言われ、激しく動揺した。

「だから、王に、お前と引き換えなら許してやっても良いと告げたんだ。その、お前の意思を完全に無視していたことは謝る。すまなかった。……怒っているか?」

「いいえ! 怒ってなど……いません」

 今は、もう。

「そうか」

 安堵の表情を浮かべる氷旺に、とくりと胸が脈打つ。

 おそるおそる氷旺の手が、珠嬰の髪に伸びた。

 それを特に怯えることなくすんなりと受け入れ、そのことに安堵した氷旺がふわり、と笑んだ。

「陛下、あの」

 落ち着かない。とても困った。

「今回のことで桐王も懲りたはずだ」

 珠嬰の髪を撫でる氷旺の表情はとても優しい。

 そのことに、少しだけ安堵する。

「今回のことは俺自身にも非がある。本来なら滅ぼすべきところをたった一人の女のために覆したんだからな」

 そうやって口元を歪めて笑う様は本当に嫌味で。

「臣にも桐王にも馬鹿にされ、付け入られる隙になってもしょうがなかった。だが、桐王もこれでしばらくは大人しくなるだろう」

「……はい」

 伏せた瞳からはもう涙は流れなかった。

 自業自得なのだから、仕様がないのだ。

 それに、何となく、氷旺にならまかせても大丈夫な気がする。

 桐国のことにしろ父のことにしろ、私のことにしろ、そう悪いようにはならないかもしれない。

 そう思うのは私の頭が楽観的過ぎるだろうか。

「珠嬰」

 顎を掴まれ、上向かせられる。

「だから、この一年余り、お前のもとにほとんど足も運ばずにいたのは、別にお前に問題があったからではないからな。その、俺の問題だったんだ。お前という妃を迎えること、桐国の行く末を覆したこと。これらについてのことを臣達に認めてもらうため、納得させるためだったんだ」

 心の奥底に、すとん、と何かが落ちた。

 同時に、少し苛立った。

 嫌われているものだとばかり思っていたのに。

 何と分かりにくい男なのか。

 いやしかし、はじめから全く心を開くつもりのなかった私もいけなかったのだ。

 何と愚かだったのだろう。お互いに。

「それと、誤解があってはならぬゆえ、一応言っておく。采凛は監視のためにつけていたのではなく、桐と庚の刺客からお前の身を守らせるためにつけていた。その、お前自身があのように強いとは知らなかったものでな」

 いらぬ気を回してしまったかもしれない。すまない、と告げる氷旺に、緩く首を振って微笑む。

「全て、聞いた。お前の桐国での暮らしを」

 一瞬、息を詰めた。

「……采凛ですね?」

 氷旺は、どう思っただろう。

「ああ。……随分と、采凛には色々な話をしていたのだな」

 幾分か不機嫌になった氷旺に気づかず、珠嬰は苦笑した。

「ええ。自分でも不思議なのですが、采凛といると心に溜まっていた澱がするりと溶け出してしまうような感覚に陥るのです。おそらくは、采凛がとても細やかに配慮してくれているおかげなのでしょうね」

 何故、采凛があのように心を許してくれているのかは分からないが、本当の意味で単身この国に嫁いできた身としては、そういった気遣いはとても有難いものだった。

「このようなことを言うと、采凛には嫌がられてしまうかもしれませんが、何となく、采凛となら良き友となれるような気がするのです。可笑しな話だとは分かっています。私は友人の一人もおりませんし、だから友というものがどういうものなのかも知りません。そしてこれは私が一方的に思っていることですから、采凛にしてみたら迷惑かもしれませんし」

「……あいつ、羨ましい位置にいるな」

 一息に語り終えた珠嬰に、聞こえるか聞こえないか程度の声で、氷旺がぼそりと呟いた。

「え?」

「いや、何でもない」

 何故かばつが悪そうに目を逸らされた。

「珠嬰」

 真っ直ぐに名前を呼んでもらえるのがくすぐったい。

 きちんと“私”を見てくれているのだと分かるから。

「はい」

「すまなかった。この一年余り、俺はずっと……その、怯えていたのだ」

「怯えていた?」

「ああ。俺は、お前の祖国を滅ぼしかけた男だ。故にこそ、お前に嫌われていても当然だと」

「……」

「しかし、お前がお前なりに妃としての務めをきちんと果たしてくれていたこと、それはとても感謝している。庚王の妃という立場をたとえ形だけではあっても受け入れてくれているのだと思い、嬉しかった。だがな、だからこそ、それならそれでも良いか、と思ってしまっていたんだ。お前にあまり、多くを望むべきではないと。ただ側に在ることだけでも満足すべきなのだろうと。……けれど、どうやら俺は間違っていたようだ」

「……陛下」

 片頬に添えられた手から、氷旺の想いが温もりとなって伝わってくるようだった。

 じんと染み入るこの想いが何なのか、珠嬰はもう、知っていた。

「だが、愛している。心から。これは紛れもない真実だ。……信じて、くれるか?」

かあっと顔中、みるみるうちに赤面していくのが分かる。

この人は、何もかもが率直なのだな、と思った。

「はい」

 消え入りそうな声で呟き、ぐっと息を吸い、吐き出す。

「私も、お慕いしております、氷旺様」

 そう言って満面の笑みを浮かべた。

 それまで見たこともない、人形じみている、と言われる表情とは打って変わって花が綻ぶような笑みに、氷旺は大きく目を見開いた。

 加えて、初めて“陛下”ではなく、きちんと名前を呼んでもらえたのだ。

 ドクリ、と鳴った鼓動はどちらのものか。

「珠嬰。お前……何度、俺を落とす気だ?」

 ニヤリ、と笑んだ氷旺に一瞬、息を詰めた。

「なっ!」

 ぼっと顔から火が出そうになる。

「ひ、氷旺様!」

「悪い。だが、お前が可愛い過ぎるからいけない」

 先程の珠嬰の笑みに負けないくらい、氷旺も満面の笑みを浮かべる。

 以前までなら馬鹿にされたと怒っていたところだが、今はただただ恥ずかしくなるばかりだ。

 不思議なくらいに淀みがなくなっていた。

 自分の気持ちを知る、ということがこれほどまでに力があるのだとは知らなかった。この変化を素直に嬉しいと感じている。

「珠嬰、婚礼の儀を仕切り直ししよう。今度こそ本当の意味で妻になってくれ」

 これでもう、誰にも文句は言わせない。

 臣下もこの一件で認めざるを得ないだろう。

 王の身を、祖国を裏切ってまで守り通した王妃の存在を。

「お前を永久に幸せにする。だから、俺の側に居て欲しい。嫌か?」

 それでもちょっと不安げに問うのは、一年という、若干の後ろめたさがあるからかもしれない。

 けれど、珠嬰は氷旺の不安を払拭するように緩く首を振る。

「いいえ、喜んで」

 再び柔らかに微笑んだ珠嬰に、氷旺は苦笑してその身を引き寄せた。







 ――庚国耀明暦三年、覇王劉氷旺と桐国公主楊珠嬰の婚儀は、七日七晩に渡って盛大に執り行われ、後の世に、戦乱の世にもたらされた一つの小さな奇跡の恋物語として語り継がれることとなる。










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