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王の妃  作者: s
8/12


 子供の頃は良かった。

 母様がいたから。

 父王は何よりも母を愛していた。

 子供ながらにそれはよく分かっていた。

 だから、父が、私にも優しく接してくれるのだろうということも。

 父と、会話らしい会話をした記憶はほとんどない。

 それでも他の公子や公主たちよりも遥かに上質で多くの絹や玉を賜っていた。

 だから、父はどの子供たちよりも私を愛してくれているのだろうとそう思えた。思うことにしていた。そう思っていればこそ、他の異母兄弟姉妹からの嫌がらせも度重なる暗殺――食事に毒を混ぜたり殺し屋を雇って命を狙ったりする行為は、彼らにとってはそれもまた嫌がらせの一つであり、ただの遊びの一環に過ぎなかったのだろうが――からの逃避も耐えられたのだ。

 けれど。

 それも、母が度重なる他の妃たちからの嫌がらせによる心労で自ら命を絶つまでの間のことだった。

 最後まで、私に声をかけることのなかった母。

 母が死んだとたんに、まるで初めからいなかったかのように、私に興味を示さなくなった父。

 その日から、私は、本当の意味で一人になった。

 嫌がらせも暗殺も止んだ。父からの贈り物もピタリと止んだ。

 もう誰も私が生きていようがいまいが、どうでもよくなったかのように、何もかもが突然に終わった。そして、それから私は、日々をただ生きているだけの人形のようになったのだ。


 あの日、あの瞬間、氷旺に会うまでは。


 静かな宮の夜が、一瞬にして恐怖へと染め替えられた日。

 必死に逃げ惑う侍女や文官たちの背を眺めながら、珠嬰は一人、宛がわれていた自室でぼんやりと窓辺にもたれて座っていた。

 このまま死ぬのだな、とどこか淡々とした思いで、眼前に繰り広げられている光景を見つめていた。

 と、一際大きな足音が聞こえてきた。


 ああ、誰かが私を殺しに来る。私を迎えに来てくれる。


 ふつりと湧き上がった感情が何なのかも分からぬままに、大きく扉が開かれた瞬間、進入してきた男と目が合った。

 妙に堂々とした風格のある男だった。

 お互い、一言も言葉を発することはなく、どれくらいそうやって見詰め合っていたのかは分からない。

 そうしてふと、男は何を告げることもなく、踵を返した。

 とたん、心がさざめいた。

 どうして?

 どうして、この男も私を独り、置いていくのだろう、と。

 何故、殺してくれないのか。

 男が去った後も、珠嬰はぼんやりと開かれた扉を見つめていた。

 それから間もなくして、父王が私の部屋を訪れた。


 ――庚に行け


 ただそれだけを告げると、父王は奇妙なものでも見る目つきで私を一瞥し、それきりもう二度と会うことはなかった。






***



 空から鷹の鳴く声が響く。

 青洲までもう目前といったところにある林の中。

 静寂が辺りを支配していた。

 と、ふいに珠嬰が天空に向けて弓を構えた。

 掲げた弓に矢を番え、振り絞り、一息に射ち放つ。

「……っ……やっ」

 思わず漏れた気合の言葉と共に、矢は一直線に空を切り裂いて行く。

そうして、大空を飛び回っている鷹を真っ直ぐに射抜き、射ち落とした。

 一声だけ、鷹が軋むように鳴いた。

 声を発する者はいない。

 出来るはずもなかった。

 突然、奇怪な行動に出た己が主の妃を誰もが凝視する。

 聞こえてくるのは珠嬰の荒い息遣いだけ。

 珠嬰の肩が微かに震えた。

「……わた、しがっ……どのような、思いで……」

 荒い息遣いはそのままに、吐き捨てるように言う。

 父と氷旺。桐と庚。

 秤にかけ、息が詰まる思いだったというのに。

 数人がはっとしたように、落ちた鷹のもとへと駆け寄って行った。

「…………それをっ……それを……」

 見たこともない優しい笑みを浮かべて崩れ落ちていった氷旺の姿に、どれだけ傷つき、己を呪ったか。もう生きては行けぬ。そう思った。

 だというのに、この男はどうしてそんなにも満足気なのだろうか。

 震える声を吐き、何かを諦めたように構えていた弓を静かに降ろした。

 珠嬰の頬を一滴だけ涙が伝う。

 すでに泣きはらした目は赤く腫れていた。

 これ以上泣くまいと、珠嬰はぐっと唇を噛み締めて俯く。

 長い長い沈黙。

 鳥の鳴き声一つ聞こえてはこなかった。

 風でさえ木々を揺らすのをためらっているかのようだ。

「……悪かった」

 ふいに静寂を打ち破ったのは、氷旺のただ一言。

 珠嬰はじろりと後ろを見やり、おそらくはニヤついているのであろう自分の夫を睨みつけた。

 氷旺はそんな珠嬰を見つめながらますます目を細める。

「悪かった。愛している、珠嬰」

 謝罪と告白とどちらに重点を置いているのか。

 しばらくの間、二人は無言で睨み合っていた。

 いや、真実睨んでいたのは珠嬰だけで氷旺は、何よりも大切なものを愛でるように最愛の妻を見つめていた。

 先に折れたのは、意外にも珠嬰の方だった。

「…………勝手になさるが良い!」

 バサリ、と長裙の裾を翻して、颯爽と歩き始めた。

 氷旺のいる方とは逆の方向へ。

「……ああ、そうする。悪いな、愛してる、珠嬰」

 怒りに満ちた足取りで踵を返した珠嬰の後ろ姿を見つめながら、知らず、氷旺は微笑んでいた。そっと、肩口に手を当てる。

 そこに毒矢が刺さった形跡はない。

 珠嬰は、いっそ恐ろしくなるくらいに正確に、刺客の胸だけを射抜いていたのだ。

 あの距離であの角度で、どうやったのかは分からない。

 いったいどんな腕を持っているのかおよそ計り知れない。

 ただ氷旺の肩口にあるのは、刺客に隠し持っていたらしい小刀で、倒れる瞬間に斬りつけられた傷だけ。

 その傷口の手当をしながら、悧達が眉宇ひそめて溜息をつく。

「貴方の人でなしぶりにはほとほと愛想が尽きますね。いっそのこと、一度、お亡くなりになられた方が世のため人のためだったのではないですか、陛下」

 少々(・・)手荒い看病の仕方に、氷旺が顔を顰めた。

「っ。悧達、いいのか。お前、好青年という化けの皮が剥げているぞ」

「知りません。いいんです、どうでも。大事な女性を泣かせて何がそんなに楽しいんですか、全く。珠嬰様でなかったら貴方は今頃当に死んでいましたよ?」

 睨みつけながら涙を流して矢を放った珠嬰の姿を思い出し、氷旺はふっと微笑む。

「何。珠嬰の腕ならば大丈夫だと思っていたし、事実、大丈夫だっただろう? というかだな、そもそもお前こそ焦って王妃を止めろとか何とか言っていたくせに、珠嬰の泣き顔を見て手のひらをまるっと返しおってからに」

「それについては、黙秘です。私は陛下の臣ですから、たとえ心中がどうあれ、そう口にすべき立場にありますので」

「……逃げたな。まあいい」

 すました顔でしらっととぼける悧達を睨みつけ、溜息をつく。

 珠嬰が氷旺を弑すかどうか、可能性は五分であった。

 しかし、結果は杞憂に終わった、ということになる。

「……それにな。俺はあの時、何というか、珠嬰に殺されるのならそれも悪くないと思っ」

「悪いです! ……だって、絶対に泣きますよ、珠嬰様は。実際、泣いていらっしゃったじゃないですか。全く。あの方の素晴らしい弓の腕に感謝こそすれ、泣かせてしまうとは、本当に男の風上にも置けない最低ぶりですね」

 悧達は、ばしばしとわざとらしく肩を叩いて手当てが終わったことを告げる。

 その手を煩わしそうに振り払い、氷旺は鼻を鳴らしてニヤつく。

「何だ、妬いているのか。悪いが珠嬰は俺のものだ。というかな悧達、珠嬰のことは桐妃と呼べ。名前で呼んでいいのは俺だけだ」

「妬いていませんし、珠嬰様は珠嬰様のもので、そもそも人をモノ扱いするんじゃありません! それと私は珠嬰様ご本人から名前で呼んでいいと許可をいただいているのでいいんです」

「な、何だと。いつだ、いつ」

「五月蝿いですよ。それよりとっとと追いかけたらどうですか!」

 ばしん、といい音を響かせて叩かれた肩を庇うようにして氷旺が立ち上がる。

「言われなくても分かっている。一年も我慢したんだ。もう、待てるか馬鹿」

「貴方が待たせたんでしょうが! この甲斐性無し!!」

「お前は、本当にその二重人格ぶりを何とかしろ!」

「いいんですよ、この落差がグッとくるそうですから! ほら、とっととお行きなさい!」

「おい、それは、どこのどんな阿呆の意見だ!」

「もういいですから、ホラ。これも持っていって」

 押し付けるようにして渡された軟膏と包帯に、氷旺は首を傾げた。

「何だ、これは?」

「おそらく弓の使い過ぎでしょうね。指の皮が擦り剥けているようでした。きっとご自身は気づいておられないでしょうが。それと手首も傷められているようですからこの湿布も」

「……」

「何ですか。ご自分が気づかず私が気がついたからといって、剥れてないで早く珠嬰様の手当てをして差し上げてください。手だけじゃなくて心も。何なら私が行ってもいいんですよ!?」

「ならぬ! ……俺が行く」

 王の目に微かに浮かんだ不安の色が、大きく揺らめいた。

 包帯を手のひらで転がしながら、目を閉じる。

 しばらくはじっと考え込むように黙っていたが、やがて目を開け、包帯と軟膏を握り締めた。

「……行ってくる」

 再び目を開けて、珠嬰のもとへと足を向ける。

「陛下」

 歩みは止めずに振り返る。

「きちんと誠意を持って話せば、珠嬰様はきっとご理解して下さると思いますよ」

 好青年然とした微笑を浮かべる悧達に、氷旺も切ないような笑みを浮かべた。

「ああ。そうだな」

 この一年余りを振り返り、ぐっと腹に力を込めた。

 心許ない、という不安と焦燥を滲ませて、氷旺は己の世界を一瞬で塗り替えた(ひと)のもとへと急いだ。






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