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新緑の森の中を進みながら、木々の囁きや鳥たちの囀りに耳を傾ける。
森独特の匂いは、何故か心を落ち着かせてくれる気がして好きだった。
瑞々しい森の香りに酔いしれていると、その匂いの中に妙な気配を感じて、眉宇を顰めた。
「陛下」
「……ああ」
短的な言葉の奥に潜む、不穏な影にピクリと反応し、珠嬰は顔を上げた。
「何です?」
「……勘だけは妙に良いのだな、お前は」
ため息まじりにそう言った王の言葉に、珠嬰はいっそう眉を顰める。
「何です?」
極力苛立ちを表に出さぬよう、繰り返し同じ問を投じた。
「それで感情を抑えているつもりなのか。そのように睨まれればどうのような獣でも逃げ出してしまうだろうな。……まあ良い。これを持っていろ」
失礼な、とは言わずに、渡されたそれを見、視線だけを王に移す。
それは、柄の中央に紅玉が嵌められているだけの、簡素な懐剣だった。
「持っていろ。もしもの時のためだ。ないよりはましだろうからな」
一応、身を守ってくれる気ではいるらしい。
ぼんやりと、このまま刺客に襲われたことにして殺されるのだろうかなどと考えていた。だが、そうではなかったようで、驚きつつも、何か妙な心地がした。
いや、完全に信用するにはまだ早いか。
「入りませぬ」
懐剣をぐっと突き返すようにして、王の手に押し戻した。
今、この状況でこれを渡されたということは、もしかしたらこれを使わざるを得ないような状況下にある、ということだ。
「どういう意味だ」
「私には、それは扱えませぬゆえ、入らぬと申し上げたのです」
「おい」
「代わりに」
ちらりと周囲に視線を巡らせる。
かすかに、カサリと葉擦れの音が聞こえた。
「弓を」
静かな声音で告げる珠嬰に、王は眉を顰めた。
「何?」
意図が分からぬと訝る王に、珠嬰は溜息を吐く。
「そちらなら上手く扱えます。……僭越ながら、このように少数で行動しているのは、出来るだけ早く辿り着くためですね。しかし同時に我々は何者かに命を狙われている。ゆえに、少数ではありながら精鋭。なれど、わたくしにその懐剣を渡すということは、彼らの腕をもってしても、また王御自身の腕をもってしてもどうなるか分からぬ、ということなのでしょう? なれば、わたくしには懐剣ではなく弓を与えて頂きたい。戦力は、少しでも多いほうが良いのでは?」
一息に述べた珠嬰を王は呆れたように見つめた。
「お前……」
「何か?」
自身も命を狙われているかもしれないというのに、珠嬰の表情にさして変化はない。どころか、冷静すぎるほどに冷静だった。
「いや、いい。……悧達、弓を」
溜息と共に部下に命じ、弓を持ってこさせた。
「ありがとう存じます」
これまた感情の篭らぬ声で告げる。
頭上から王の溜息が聞こえた。
***
「……嬰、珠嬰」
ぼんやりと目を開いた。
どうやら危機的な状況下にあるというのに、眠ってしまっていたようだ。
我ながら肝の据わっているなどと感心していると、王の緊迫した顔が視界に映った。
「悪いが、しばし早駆けをする。落ちぬよう捕まっていろ」
何かあったのだなと察し、素直に頷いた。
振り落とされぬようにとしっかりと王の腰に手を回す。
王も珠嬰を落とさぬよう、しっかりと片腕で抱きしめる。
「はっ」
掛け声と共に一息に走り出した。
その視界の隅に、黒い影が過ぎる。
あれが刺客か、と冷静に判断する一方で、いったい何者に狙われているのだろうかと考える。
この国は、もともとは多くの強大な豪族たちの国が寄り集まって構成された国家である。ゆえに、内政はいつも定まらず、同じ国民同士でありながら、互いに争いあうこともしばし見受けられた。
そのような状況下でよく他国に何度も何度も攻め入れられるものだと思うのだが、しかしこれは逆に、豪族たちの目を内から外へ向けるための一つの方法であり、それによって、各々の部族が互いに競い合いながら、自らの国力を高めあっているらしい。悪循環のように見えて、そうでない一面が鑑みられる。
まあ何にしろ、どうせこの王の部族が国を治めることを不快に思っている者の犯行に間違いはなく、それならばどこかの州の州長であろう。
部族毎で州を治めているこの国の内情など、所詮、こんなものだ。
愚かな国よ、とせせら笑う反面、誰かに命を狙われているというのは却って心地良くもあった。自害さえ出来ぬ身の上にとって、誰かがこの現状をこの命を止めてくれることこそが、最後の希望であるとも言えるからだ。いったいいつまでこのようなことを続けていなければならないのだろうか。母のいないあの国に帰りたいとはもう思っていないが、されどこの国で王妃としてやっていく自信も気力もなかった。
「悧達!」
王の鋭い声に、はっと我に返る。
見上げると、次々と現れる刺客から王と妃を守るようにして、悧達と呼ばれた男が懸命に剣を振っていた。
確か、悧達とはこの庚国の禁軍の長を務めている者であり、国一番と謳われるほどの剣豪であったはず。
その男にここまで苦戦を強いるとは、よほど敵が強いのかあるいは数が多いのか。
まったく、どうして少人数で州都に赴こうなどとするのか。
この王のことだから何者かに狙われているのは知っていたはずだ。
何か考えがあってのことなのだろうが、本当に、
「……煩わしい」
「我慢しろ」
思わず口をついて出ていた呟きを王に聞かれてしまい、カッと頬が朱に染まる。
「援護します」
誤魔化すようにそう告げて、弓を構える。
馬上で王に支えられながらではやりづらいことこの上なかったが、それでも寸分違わぬ正確な腕に、王も側近たちも、この人形のように表情のない王妃に少なからず舌を巻いた。
予想外に刺客の数が多く、激戦を繰り広げながらようやく一段落着いたのは、そろそろ日も暮れようかという頃だった。