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王の妃  作者: s
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 仕方なく、珠嬰(しゅえい)はゆっくりと目を開いた。

 視界の先に広がる何もない空間を虚ろな気持ちで見つめる。

 寝台の上には自分ひとり。

 他には誰もいない。

 しかし、それをたいして気に留めることもなく、珠嬰は気だるげに寝台を降りた。

 寝台の横に置かれた水盆で顔を洗い、よれた夜着の帯紐を解いて、侍女が用意したのであろう着替えに手を伸ばした。

 一連の動作の全ては事務的に、流れ作業のごとく規則的に淡々とこなされていた。

 しゅるしゅると衣擦れの音だけが静かに響く。

 一通り着替えを済ますと、珠嬰はちらりと備え付けの大きな鏡を盗み見た。

 ところどころ解れて絡み合った、ぼさぼさの髪が目に留まる。

 整えれば柔らかく艶やかであろうその髪の一房を掴み、苛立たしげに舌打ちして振り払った。

「厭わしい」

 自身の現在の境遇か、あるいはそれでもその立場ゆえ身奇麗にしていなければならぬことへの苛立ちか、何に対して向けた言葉なのか。

 鏡に映る自らの姿を見つめながら、珠嬰は忌々しげに再び舌打ちした。

「朝っぱらからご機嫌麗しいことだな」

 背後からかけられた声に、盛大な舌打ちを披露する代わりに、思い切り顔を顰めてみせた。それも、鏡越しに。

「おい」

 不快な男の言葉に、煩わしげに視線だけを動かして背後に立つ男を冷ややかに睨みつけた。

「何か」

「……挨拶もなし、か」

 皮肉げに口元を歪めてそう諫言する男に、珠嬰は、鼻を鳴らして応えた。

 その様子に、男――珠嬰の夫であり、この(こう)国が国主氷旺(ひおう)――は、盛大にため息を吐いた。その溜息にますます珠嬰の苛立ちが募る。

「今更にございましょう、陛下」

 それだけ言うと、珠嬰は再び鏡台に向かい、解れた髪に櫛を通し始めた。

 その拒絶の色の激しい後ろ姿を氷旺はただぼんやりと眺めていた。


 忌々しい。用がないのならば早々に立ち去れば良いものを。


 冷え切った夫婦の生活には、暖かな笑みも一欠片の優しさも感じられない。

 凍てついた珠嬰の心が、ますます翳りを帯びていく。

 何故部屋になど訪れてきたのか。

 ここは本来二人の部屋であったはずだが、珠嬰がここに嫁いできてから一度たりとも氷旺がここで寝起きしたことはない。少なくとも、珠嬰の知る限りでは。

 さらさらと涼やかな音が聞こえてきそうなほどに、ほつれていた髪がほどけていく。何か御用か、とこちらから尋ねることさえも疎ましく、早く立ち去らないものかと苛立ちながら、鏡越しにちらりと王に視線をやった。

 すっきりと整えられた短めの黒髪に、細く長く、鋭い濃茶の瞳の人物がこちらを見ていた。長身だがどこか飄々とした雰囲気からは細身の印象を受ける。しかし、間近で見ると案外しっかりした体格で、麗しい見目ではないが、さほど悪くもない。

 この男の印象を一言で言うならば、得たいが知れない、というのが一番相応しいのではないだろうか。

 何にしろ、じっと見られている、というのは実に不快である。このようにひどい姿をそれもこの男に見られているというのがまた、幾許かの羞恥と激しい苛立ちを生む要因となっている。

 なれど、今更だ、とどこか冷めた心であっさりと割り切り、この男の目に自分がどう映ろうが知ったことではないと言い聞かせることにした。

 いったい何を考えているのか、鏡に映るその表情からは読み取れない。

 いや、鏡越しでなくとも普段からこの男が何を考えているのか、読み取ることは決して容易ではないのだ。

 物も言わず、じっと珠嬰の髪を見つめていた王と、ふっと目が合った。

 慌てて、しかしそうとは気取られぬように視線をはずす。

「おい」

 かけられた声にビクリと反応しそうになる肩を寸前で抑える。

 この男の発する言葉は、全て呪詛のように聞こえてならない。

 というより、聞きたくない。耳に入れたくないのだ。

「……何か?」

 努めて平静に応えて、梳き終えた髪の一房を左耳の下で一つに結わえて丸め、団子にして髪留めを挿した。この部屋には、侍女さえもあまり近寄らぬため、煩瑣なことも自らやるしかなく、自然、珠嬰はこういったことが上手くなっていた。

 と、王が珠嬰の手から半ば奪うようにして髪留めを取り上げた。

 中央に純白の輝きを放つ真珠が嵌めらた、その銀製の百合の花飾りは、珠嬰の豊かな黒髪によく映えている。

 王が少しだけ角度をずらして、珠嬰の髪に挿し直した。

 なるほど、確かにその位置の方が良い。

 しかし、認めるのも礼を言うのも癪というもの。

 考えあぐねていると、王がおもむろに口を開いた。

「……出掛ける。支度しろ」

 ピクリ、と肩眉を跳ね上げて王を睨むように見上げる。

「何故?」

 何処へ、という言葉よりも先にそう聞き返していた。

 出掛けるなら王一人で行けばよい。

 何故私が。

 それには答えず、王はじっと珠嬰を見つめた。

「……数刻後、迎えに来る」

 それだけ言い残し、王は部屋を後にした。

 珠嬰には、諦めと疲労感だけが残された。






 ***



 ことの起こりは、今から一年ほど前になる。

 当時、珠嬰はまだ庚国の正妃ではなく、桐国の公主であった。

 民のほとんどが農耕を生業とする、豊かな緑と穏やかな国民性だけが取り柄の貧乏小国である。

 そんな桐国に、突如として庚国が攻め入ってきたのは、まだ百合の花が咲き始めたばかりの頃。争いとは無縁の国であった桐国にとって、軍事国家として名を馳せていた庚国の襲撃に対抗し得るだけの力はなく、いとも容易く陥落してしまった。その惨劇たるものや、王宮中に燦然と咲き誇っていた純白の百合を一夜にして紅く染め替えるほどであったと言う。

 そうして死の淵まで追いやられた王は、この圧倒的なまでの恐怖と混乱をもたらした恐ろしい侵略者に、望みは何か、と問うた。

 その結果として、珠嬰は庚国へと嫁ぐこととなったのである。

 庚国国王が望んだものとは何か、何故、珠嬰が縁もゆかりもない男の正妃とならねばならなかったのか、ことの真意は全く分からぬまま、国のためだと父王に泣く泣く説得されて、現在に至っている。

 桐国には、他にも公主は大勢いた。にも関わらず、何故自分だけがこのような屈辱を味わわねばならないというのか。ただ、母の身分が低いというだけで、このように理不尽な目に合わされねばならないのか。

 なにゆえ、祖国を滅ぼしかけた、最も憎い男のもとへと嫁がねばならないのか。

「本当に、厭わしい」

 先程、氷旺が触れた簪を抜き取り、しばらく掌の上でぼんやりと眺めた後、隅にある屑籠へと無造作に投げ捨てた。投げられた簪は、一度だけ壁に弾かれて、キン、と乾いた音をたて屑籠に入る。

「……支度をせねば」

 無感動に呟き、珠嬰は侍女を呼ぶための呼び鈴を鳴らした。








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