4.穿たれた楔 (2)
指先で摘まれた一枚のクラッカーが、緩々と上へ移動していく。それをジッと見守っていたスゼルナの喉が、コクリ、と音を立てた。
クラッカーが姿を消し、噛み砕かれる音が小さく響く。そして落とされたのは、フッと鼻で笑ったかのような表情。
「まあまあ、だな。食せぬこともない」
「本当? よかった……」
不遜な態度を気にも留めず、スゼルナはホッと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、次はこれを乗せて食べてみて」
微笑みながら、傍に置いたままのバスケットから小さな包みを取り出し、中身を取り出すと、ナイフを当てひとかけらを切り取る。
「なんだ、この奇妙な塊は」
「チーズだよ。私が作ったからちょっと形は歪かもしれないけど、味は悪くないと思うんだ――はい、どうぞ」
差し出されたそれを彼は無言で受け取ると、あまり乗り気のないまま口に運んだ。と、翠の双眸が僅かに大きさを増し、驚いたような感情を映しこむ。
スッと伸ばされた指がナイフごとスゼルナの手を掴み、グイッと引き寄せた後、ナイフの先に刺さったままの乳白色の欠片が、彼の口内へと収まる。ゆっくりと咀嚼をするその面立ちは、彼にしては珍しく機嫌の良さそうなもの。
(チーズ、気に入ったのかな?)
ぼんやりとそう思いながら、スゼルナはナイフを動かし、並べられたクラッカーの上に次々とチーズを乗せていく。それに合わせるように、彼の手もまた、盛んに行き来を繰り返した。
その様子を柔らかな黄金の瞳と嬉しそうな笑みが追う。と、バスケットの中にまだお披露目されていない物があることに気づき、スゼルナはナイフを仕舞うと、それを両手で覆いながら取り出した。
「あのね、これ、なんだけど……」
「それは、酒か? フッ、本気で所持してくるとはな。存外、律儀な女だ」
「うん……。でも、どんな種類のお酒が入っているのか全然わからなくて、あなたが望んでいるものと違うかもしれないんだ」
「ほお。そのような怪しげなものを、この俺に差し出すのか」
「だ、だって……私、お酒に弱いからきき酒なんて出来ないし、色や匂いで判断なんて、お酒の知識もないからそれ以上に無理だよ」
「無理、となぜ言い切れる? 試してみねば、わかるまい?」
トクトクトク、と流れ落ちる音と共に、赤紫の色がグラスへと注がれていく。慣れた手つきでグラスを掴んだ彼は、それを手の平の上で転がす。赤紫の漣が、グラスの内側を辿り、まるで生き物のようにうねりを作りあげた。
一連の動作に釘付けだったスゼルナの頬がスッと音もなく包まれ、視線を彼へと戻した黄玉の中で、翠の輝石が面白そうに煌く。
「ディアルク……?」
目前でグラスを傾けた彼の喉が、小さく波打った。
悪くない、そう呟いた唇が鮮やかな弧を描き、再び赤紫の液体を含む。と。
「っ!」
頬を伝い、後ろ髪に絡められる五本の指。金色のみつあみが、僅かに跳ねた――その瞬間。覆い被さるような、接吻。
突然の強奪劇に、思わず薄く開かれた口唇へと流れ込む、芳醇だが強烈な味わい。トパーズの瞳が、大きくさざめいた。自分の意思とは関係なく広がるそれに、慣れない身体が既に反応を示し、脱力していく。コク、と白皙の喉が動いた。
二本の手が拒絶に閃き、いとも容易く黒衣が離れる。解放された先でグラリ、と世界が揺れた。
「な、なにを……っうっん……だ、め、頭が回る……っ」
傾ぐ彼女を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた彼の口元が愉悦を湛える。
霞がかかったように視点の定まらない金の眼が、この場所ではないどこかを捉えた。
「ん……前にも、こんなことがあったな……」
途切れ途切れの呟き。
彼女が――微笑んだ。懐かしそうに、楽しそうに。ちょっとだけ申しわけなさそうに。
「誤って口にして、こんな風になっちゃって……。その時は、彼が――ヨシュアが介抱してくれたんだっけ……迷惑、かけちゃったな……」
混濁していく全てに、スゼルナの瞳が緩々と閉じられていく。狭まった視界に、翠の彩が残忍な光明を灯した――ような気がした。
「……っ」
零れ落ちる吐息が、周りの風景を染める。
首元に、鋭い痛みが疾った。それはまるで、あの晩向けられた黒刃が傷跡を刻んだように轟く。
何が起こったのか理解出来ないまま、いつの間にか甘い痺れに変わっていたその旋律に微酔むように、スゼルナは闇の中へと意識を手放した。
***
「私を、殺して」
呟かれたそれに、彼の表情がピクリ、と僅かな反応を示した。
彼女の記憶へと繋いでいた意識をそちらへ戻しながら、スッと翠の双眸を細める。
「お願い、私を殺して。このままだと私、取り返しのつかないことをしてしまう……! だからその前に、私を殺して。元々、そのつもりだったはずだよ」
「おまえを、殺す? フッ、それほどまでに死に急ぎたいか?」
クイッと彼女の顎を持ち上げ、今にも弾けそうなほどに潤みを帯びた黄玉を翠石が捉える。
「心配せずとも、今のおまえはもうすぐ消える。全ての経験と周知の喪失――それも一種の“死”と言えよう」
「でも、でもね、“私”という存在が残される限り、きっとまた――繰り返される」
溢れ出す想いが俄かに涙へ変わり、黄金の瞳から止め処なく流れ落ちる二本の透明な轍。その線を這うように彼の口唇が辿っていく。
ん、思わず傾けられ露になる白い首筋に口付ければ、立ち昇る甘い香に、徐々に狂わされていくような錯覚に襲われ、眩暈が――する。
あのときの彼女も、そういえばこんな風に涙を流していた――。