2.燻る火種 (2)
「ディアルク?」
自分の声だけが、むなしく響き渡る。黄金の瞳がめぐらされ、その中に映る無人の玉座。そちらに歩み寄りながら、スゼルナは小さく肩を落とした。
「いないんだ……。どこに行っちゃったんだろう?」
玉座の腕置きを、指先でなぞる。ひんやりとした感触にスゼルナの目が少しだけ驚きをにじませ、彼女はそのままストン、と玉座に腰を下ろした。その唇がクスッと小さくほころぶ。
「思ったより、座り心地よくないんだ。こんな所にずっと座ってて、お尻痛くならないのかな?」
仏頂面でにらんでくる、この玉座の主を浮かべながら、彼女は笑みがこぼれる口元を押さえこむように手を当てた。ひとしきり両肩を揺らした彼女は、緩々と腕置きに両腕を交差させ、その上に頬を乗せる。
ふ、と襲われる睡魔に、彼女の黄金の瞳が瞬きを繰り返し始め、ディアルク、かすかに漏らされた吐息。それが規則的な寝息へと変わっていくのに、そう時間はかからなかった。
とざされた両目、薄く開かれた唇――桃に色づいたそれに、そっと触れるだけの接吻を落とせば、ん、小さな吐息混じりの声と共に、あどけない表情がわずかにしかめられる。その様子に、彼の口唇が美しい弧をきざんだ。
「そのような無防備な顔で――フッ。俺を誘っているのか?」
黒の外套が後ろに流され、黒衣に包まれた両腕がスゼルナに伸ばされる。彼女を抱きかかえたベルディアースの長身が玉座へと沈められ、はしる違和感に翠の瞳が細められた。
彼女の温もりが残された、その場所。無機質な冷たさでいつも出迎えるはずのその場所が今は、その機能を失っていた。彼の翠目が腕の中の彼女へと注がれ、指先がそっと彼女の金色の髪をかきわける。
と、にわかに響き出す足音。それに、彼の視線が上向いた。とらえたのは、闇に沈む周辺にもその存在を誇示し続ける、韓紅の彩り。
ひょろっとした体躯が、おもむろに立ち止まった。その口元には、嗜虐にまみれた笑みが浮かぶ。
「ただいま戻りましたよ~主殿。ってあらま、お楽しみはもう終わったってとこ? な~んだ、オレも混ぜて欲しかったのになぁ。残念」
「……何しに戻って来た? 貴様が我が城を出てより、まだ三日と経っておらぬようだが」
苛立ちを帯びた声音と冷酷な翠の眼差しに、韓紅の髪をバサバサとかきむしりながら、ロンディスはふう、と歎息した。
「そんな邪険に扱わないでくださいって。オレはただ、現状報告と誰かさんのご機嫌窺いに参上しただけですよ。クフフ、仕事熱心でしょ?」
「ならば、それを済ませさっさと帰れ。おまえに構っている暇はない」
「おっと、相変わらずの傲岸不遜ぶり。痛み入りますよ、主殿」
皮肉めいたロンディスの表情に、フン、と鼻が鳴らされ、見下すような冷徹な視線が浴びせられる。
「仕事熱心、と謳っていたようだが、それ相応の戦果をあげてきたのであろうな?」
「まあ、ぼちぼちってとこですかね。とりあえず戦況の方なんですけど、筆頭殿率いる本軍はイシュルの村周辺、ちょうど山間の辺りに陣を敷いて――って、こんなんはどうでもいいか。夜を待って四方から攻め込んだのはいいとして、あちらさんもさすがは正義神の末裔。ありていに言えば、ちょいと思わしくない状況ですね」
ひょい、と肩を竦めるロンディスに、フッと嘲笑が漏らされた。
「どの辺りが、仕事熱心だと言うのだ?」
「ん~……この城と戦場の往復、誰もが嫌がる我が主殿への報告を自ら買ってでる辺りとか、結構な熱心さだと思いません?」
「フン、無能めが……。で、原因はなんだ?」
吐き捨てられた問いかけに、ロンディスはボルドーの瞳を挑むように煌かせると、口角をニイッと吊り上げた。
「相手は少数、こっちはそれに比べりゃ多勢。質の問題があるのはしゃあないとして、乱れない統制、退きの見極め、んでもって常に一定以上を誇る士気の高さ。あれを維持されると、さすがにこっちもきついっつーか」
「御託は要らぬ。原因はなんだ、と訊いている」
苛立ちを含んだ低い声色に、ロンディスは両腕を組むと首を捻る。
「たぶん……あの、リーダーっぽいおっさんじゃないですかねえ? 接近戦でオレと互角の腕前。ま、獲物が鈍らだし、そんな大したもんじゃない。問題は、正義の上位精霊魔法の方だっつーの。そう何度も連続では使えないみてえだったけど、あれは直接喰らうと結構脳天にクる」
「ほお。たかが上位魔法、それほど支障はなかろう」
「本来はそうなんでしょうけど、あのおっさん、蒼髪の持ち主でさ~」
「蒼髪、だと?」
翠の瞳が、僅かに見開かれる。
チラリ、とロンディスの一瞥が眠りに落ちたままの少女に向けられた。
「金が光神、そして蒼といえば――。あの剣技と魔法力、そして正義の精霊との相性の良さ。ま、あとは推して知るべしってね」
ロンディスへ流されていた切れ長の翠目が、金色の髪に縁取られた少女の顔を捉え、クッと微かに歪められる。
未だ意識の戻らない彼女を抱きかかえ、玉座から立ち上がった黒衣がバサリ、と翻った。
「……案内しろ、ロンディス」
「お。出陣されるおつもりですか、主殿」
「蒼の色――この刻の中には、不必要な存在だ。俺が、跡形もなく滅ぼしてやる」
発した口唇が、残忍な笑みを刻む。
カツカツカツ――ロンディスの横を通り過ぎた黒の背が、次の瞬間、周囲の闇に同化するように溶け消えた。