4.穿たれた楔 (1)
消える、消える――儚い、泡沫の夢たち。
4.穿たれた楔
「よい、しょ……」
吐き出した大きな息と共に、思わず漏れ落ちたのはそんな言葉。取っ手をしっかりと握りなおし、地面に置きっぱなしだったバケツを持ち上げる。チャプンと水の跳ねる音が、宙を舞った。
スゼルナは唇を噛みしめ、一歩一歩踏みしめるように、自宅に通じる道を進む。予想以上の手の中の重量に、腕が痺れ、今にもバランスを崩しかけそうになるところを、横から伸びた屈強な腕に支えられ、事なきを得る。
黄金の瞳が巡らされ、その人物を捉えた途端、嬉しそうな光を灯した。ヨシュア、唇がそう紡ぐ。
「大丈夫か?」
「うん、ごめんね。ありがとう。いつもよりちょっと欲張って多めに入れちゃったから、運ぶのに苦労しちゃって」
「多めに? おまえのところは、長老様と二人暮しだろ? 客人でも来るのか?」
「まあ、そんなところかな。あ、ヨシュア、いいよ。私が持つから!」
さも当然のようにスゼルナからバケツを奪い、軽々と手中に収めてしまうヨシュアに、困惑の声が上がった。
「別に構わないぞ? ちょうど、おまえの家へ向かうところだったしな」
「私の? おじいちゃんに用でもあるの?」
「ああ、今後の対策をな。初めの襲撃の時に比べれば、今はそこまで激しい攻めは受けていない。奴らの動きを見れば明らかに単調なものに変わっている。士気が低下しているのは間違いないと思うんだが、やはり、あの時のは……」
「ヨシュア?」
「すまない。ちょっと考え事を、な。現状は、こちらもまだ余裕を持って森の外側で対処が出来ているが、いつ苛烈さを増すかわからない。撃って出るにも、まだ戦力的に不足しているしな。何かしら補わないといけない。打てる手は、今のうちに色々考えておいて損はないからな」
「そうだね」
申しわけなさそうな表情でヨシュアとバケツを交互に見やるスゼルナに、彼は行くぞ、と促し先に歩き始めた。慌てて、彼女も後を追う。ありがとう、短く告げ彼の隣に並ぶと端整な横顔に問いかけた。
「そういえば、体調はどう?」
「ああ、昨日はあれから何度か剣を振るったが、全く問題なかった。前にも増して、調子が上向いた気がする。おまえの美味い食事のおかげかもな」
茶目っ気たっぷりにそう言われ、スゼルナはクスクスと笑みを零した。
「そんな、褒めすぎだよ、ヨシュア」
「そうか? おれは、正直に答えただけだぞ」
「うん、ありがとう。そうそう、さっきね、クラッカーを焼いてみたんだけど、久しぶりに作ったら思った以上にたくさん出来ちゃって、どうしようか困ってたんだ。良かったらおじいちゃんとお話がてら食べてくれると嬉しいな」
「クラッカー? 珍しいな、おまえが菓子を作るなんて」
「そうだね。おじいちゃん、お菓子類はあまり食べてくれないから、作っても自分で全部処理しなきゃなんないし、なるべく避けていたんだけどね」
苦笑を浮かべるスゼルナに、ヨシュアは一つ頷くと、わかったと応えた。
「ちょうど、朝飯を食いそびれていたところだし、こっちから願い出たいくらいだ。それに――おまえの作るものなら、言って貰えればいつでも……」
口ごもるヨシュア。スゼルナは不思議そうに、無邪気な眼差しで彼を見つめる。そんな彼女を目にした黄櫨色の瞳が、複雑な感情を滲ませた。
他愛もない会話を続けていると、いつの間にか目的の場所へと辿りつき、スゼルナが入り口の扉を開いている間に、ヨシュアがバケツを手に玄関を潜る。
「結局、家まで持って貰っちゃったね。ごめんなさい。でも、ありがとう」
「ついでだったし、さして重くもなかったから気にするな。長老様は、どこにおられるんだ?」
「たぶん、自分の部屋じゃないかな? あ、ちょっと待って、ヨシュア」
受け取ったバケツを一度その場に置き、スゼルナはパタパタと奥に駆けていく。と、すぐにその足音が戻ってくる。その手には、小皿にこんもり盛られたクラッカーの山。
「これ、なんだけど」
「また随分と作ったじゃないか」
「う、うん……。もし、無理なら――あっ!」
ひょい、と手の平から質感と重量が消え、スゼルナから頓狂な声が上がった。小皿を二本の指で摘み、微笑したヨシュアがヒラヒラと空いた手を振る。
「ありがたく頂いていく。それじゃ、またな」
「うん、またね」
幅広な背中が階上へと消えていくのを見送った後、スゼルナはバケツを手にすると、再び奥へと入っていった。
突然の頼みに、壁一面に敷き詰められた瓶を抜き差ししながら、布巾で拭っていた指が止まり、栗色の髪が翻った。
「お酒? あんたが?」
コクリ、と頷く目の前の金髪の少女に、赤の瞳が訝しげな光を灯す。綺麗に掃除されたカウンターに肘をつき、首を傾げながら更に疑問を繰り返す。
「でも、誰が飲むわけ? 長老様もあんたも、嗜む方じゃなかったわよね?」
「うん。おじいちゃんは元々飲まない人だし、私もそんなに強くないから、家には置いてなかったんだけど、その、お客様が来ることになって……」
歯切れの悪いその物言いに、紅の眼差しが鋭さを増していく。
「ふーん……それで?」
「そのお客様がお酒を所望してるんだけど、そんな理由もあって家にはないし、一人分でいいから分けて貰えないかなと思って、こうして酒場に来たんだ。……エッちゃんがいてくれて、よかった。おじさんだったら、こんなこと頼めなかったかも」
「お客様、ねえ……」
ふうと嘆息し顔を上げた彼女からは剣呑さは薄れており、代わりに浮かんでいたのは、呆れたような表情。頬杖をつき、スゼルナを見つめたまま小さく笑む。
「ホント、あんたって嘘のつけない子よね。まあ、いいわ。父さんに言われて、ちょうど酒瓶の整理をしていたとこだし、そっちに置いてあるやつの中から、適当に持ってっていいわよ。でもあたし、どの瓶に何が入っているかなんて知らないからね」
「いいの? あ、お代は……」
「いらないわよ、別に。いつもここの手伝いして貰っているし、そのお礼ってことにでもしといてよ。それじゃ不満?」
「ううん、そんなことない。ありがとう、エッちゃん!」
満面の笑顔のスゼルナに、エスィカは照れたように一瞬頬を染めたが、慌ててそっぽを向くと、再び仕事を始めるべく棚の方に手を伸ばした。