8.忍び寄る影 (3)
緋に染まる視界。それを覆いつくすように広がったのは、深淵の闇。頭の中で重なる、あの時の情景。
ノラリダの両目が大きく見開かれ、カタカタ、と蒼髪のポニーテールの先が細かく揺れた。炎に包まれたのは――、まぎれもない、彼女の目的地。
「……っ」
一瞬で込み上げてくる激情。だが、叫びたい衝動に駆られても、その声はただただ荒い息とくぐもった呻きに変わる。ノラリダはフラリ、と傾ぐ身体を支えるため、一歩、二歩と後退した。
それに混じるように、規則的に草を踏みしめる音が耳を掠める。
「あんた、は……っ」
ノラリダのかすれた声に反応するように、濡れ羽色の長髪と黒の外套が背後の爆風を受けて広がった。それらに縁取られた、恐ろしいまでに整った顔立ちと冷たく煌く翠の光がノラリダの目に飛び込んでくる。
(こいつが魔族の親玉――、ベルディアース……!)
直感が告げてくる、その名前。
それに応えるように、黒衣を纏った男が凄艶な笑みを刻んだ。
「蒼髪の女……、こんなところにいようとはな。先刻のはどうやら魔力の無駄撃ちだった、というわけか。フン、とんだ茶番だな」
「……! さっきの爆発は、あんたがやったのね……!?」
村の惨状、それを引き起こしたであろう張本人を眼前に捉え、ノラリダはきつく拳を握った。
爪が掌に食い込む感触が訴えてくるのは、直接的な痛みではなく沸き起こってくる憤り。
「どうしてこんな――、村のみんなの笑顔を、幸せを、何の権利があってあんたが奪うのよっ!」
絞り出すような声で咎めると、彼女の蒼目が敵意をむきだしにした。
「罪も無い、村の人たちを――!」
許せない! 叫んだノラリダの手が地面に突き刺さったままの大剣を引き抜き、ベルディアースとの距離を一気に詰める。うなりをあげながら、重い斬撃が振り下ろされた。
「――罪が無い、だと? フッ、笑止」
「何がおかしいのよ!」
渾身の一撃を軽くかわされ、次に放った横薙ぎのそれも虚しく宙を斬る。
人を小馬鹿にしたようなベルディアースの面立ちに苛立ちを覚え始めたノラリダは、体勢を更に低くすると、斜め下から上に向かって伸び上がり様の剣撃を放った。
わずかに反らされた彼の鼻先を剣の切っ先が掠めていき、黒糸を数本斬りおとす。翠目が、スッとその面積を減らした。
「貴様らの罪は――、この刻の中に存在すること、それ自体が既に罪」
「なんですって……!?」
謳うように紡がれた暴言に、ノラリダが激しい剣幕を覗かせた。
トン、片足で飛び上がり、体重を乗せた上段からの攻撃は、差し出された彼の掌に易々と受け止められ、彼女の表情が愕然としたものに変わった。
刃を挟んだ彼の指先が、ボウッと黒い炎に包まれる。
「この程度の力量で、俺に刃向かうとはな。先刻の輩の方が、まだ愉しませてくれたぞ?」
嘲りを含んだ口調で凄むベルディアースの翠の瞳が、ノラリダを一瞥する。その眼差しが苛立ちと歪みを帯び、冷酷に煌いた。
「――運命など、この俺が握り潰してくれる。あれは永遠に我がもの。断じて貴様らに渡しはせぬ……!」
「運命、ですって? 何を言っているわけ……?」
吐き捨てるように呟かれた意味不明な内容に、ノラリダは眉を寄せた。
ベルディアースの唇に、薄い笑みが浮かぶ。急激に高まる魔力に呼応して、彼の黒髪がなびいた。その中に漂い浮かぶ、左耳のダークレッドのピアス。
次の瞬間、彼女の大剣にピシリ……ッと細かい亀裂が疾った。
「!」
背中を駆け抜ける嫌な予感に、ノラリダは躊躇いなく剣柄から手を離すと、ザッと黒衣の男から距離を取る。刹那、亀裂が刃全体に巡り一瞬で黒く変色したかと思うと、大剣だった残滓が彼の指の隙間からボロボロと崩れ落ちていく。
最後の塵を払うように手で虚空を斬るベルディアースに、ノラリダは愛用の武器の末路に血の気が引く思いを抱えながら、無我夢中で両手を突き出した。
「イシュティアルダ!!」
解放された二度目の精霊魔法は、しかし、その威力もスピードも先程より弱体化したものだった。
虚空を貫く、裁きの雷。それは狙い違わず、驕れる咎人へと鉄槌を下す。
迫る蒼色の攻撃に、ベルディアースはふん、と鼻を鳴らすとスッと右手を伸ばした。
「シェザード」
淡白な声が紡ぐ、闇の精霊魔法。
主の召喚に従い現れた漆黒の閃光が、真正面から正義の精霊の一撃を受け止める。
ドォオオン! 辺りを引き裂く爆音と共に、ぶつかりあった二つの魔法がお互いを相殺し合い、激しい衝撃がノラリダの両手に直に伝わる。グラリ、と彼女の身体がよろめいた。
(うそ……! あたしの魔法が、押し負けた……!?)
立ち込める爆風から、黒衣の死神が姿を現す。その手には、燃えさかる闇色の剣刃。
「死ね」
短くそれだけを宣告し、ベルディアースは刃を振り下ろした。