8.忍び寄る影 (1)
緋に染まる視界。それを覆いつくすように広がったのは、深淵の闇。
叫びたい衝動に駆られても、その声はただただ荒い息とくぐもった呻きに変わる。
『こんな風が吹く時分には、決まって紅色の雨が降り注ぐ。貴女に故郷があるなら――、すぐに戻られた方が賢明かもしれませんよ?』
そんな言葉が――、脳裏に鮮やかに蘇った。
8.忍び寄る影
「!!」
蒼い髪が、跳ね起きる。
はあ、はあ、何度も何度も息を吐き呼吸を落ち着かせようとするが、流れる滝のような汗、鼓膜にまで響きそうなほどに早鐘をうつ心音が拍車をかけていく。
ノラリダは頬にかかる髪を耳の後ろへと流しながら、大きく息を吸いゆっくりと吐き出した。
「今のは――、なに? 夢にしては、妙に現実的だったような気がするわ……。それに、あの言葉――」
彼女の背筋が、わずかに凍る。
幻のような白い影が残していった不吉な置き土産に、ザワリと起こる胸騒ぎ。彼女の蒼目が、不安にさざめいた。
横になっていた寝台を飛び出し床に降り立つと、窓から差し込む陽光に包まれた部屋の中を早足で移動し、扉の前へと進む。彼女の指が取っ手に伸ばされた、その瞬間。
カチャ。扉が外側に引かれ、見慣れた姿が徐々に視界に入り込む。眼鏡に覆われたライトブラウンの双眸が少しだけ驚きを浮かべ、そしてすぐに明朗な柔らかい色彩を灯した。
「おはよう。とは言っても、もう昼すぎだけど。随分、疲れが溜まっていたみたいだね」
「……どいて、アルバード」
彼女にしては珍しい、低く擦れたその声音。
それに、アルバードは満面に広げていた笑みを半分近く削ぎ落とした。
「ノラリダ?」
「あたし、早く行かなくちゃ……っ、早く……!」
焦燥の滲んだノラリダの様子に、アルバードは怪訝そうな表情のまま彼女の肩に手を置くと、ジッと蒼目を覗き込んだ。
「とりあえず、落ち着いて。何があったんだい?」
「わからない、わからないけど、すごく胸騒ぎがするのよ! だからあたし、行かないと!」
趣旨のつかめないその内容に、彼はわずかに沈黙を落とす。考えるような素振りのあと、茶色の髪が小さく縦に振られた。
「――何があったのか知らないけど、君の荷物、宿の方から取り寄せておいたよ。隣の部屋に置いてある。それとテーブルに軽食も用意してあるから、少しでも口に出来るならした方がいい」
アルバードのうながす先に視線を投げたノラリダは、彼と扉の間をすり抜けるとそちらに歩み寄った。扉に手をかけ、押し開こうと力を籠めた彼女の耳に届けられる、真摯な問いかけ。
「戻ってきてくれるよね?」
「…………」
無言のまま蒼髪が部屋の中へと消え、扉が閉められる。虚しく響く開閉音に、アルバードは大きく歎息した。
「――まったく。君は、何のために王子に会いにきたのか忘れてないかい? ……出航の準備、進めていたんだけど、止めても無駄なんだろうね」
ぼやくように呟き頭を横に振ると、彼は自嘲めいた笑みを浮かべ、どこかへ歩み去って行った。
イシュルの村は、アルバオの東に位置し、森に囲まれ、なおかつ山々の間の窪みのようなところに構えられていたため、人目につきにくく、住人以外でその存在を知る者は皆無と言ってもよい程だった。
閉鎖されたその空間で、脈々と受け継がれてきた正義神の血を絶やさぬよう、薄めぬよう、彼らは常に最善の方法を選択しながら、ひっそりと息づいていた。全ては、来るべき刻のために。
まとっていた風の精霊たちが霧散していくのを感じ、ノラリダはゆっくりと瞳を開けた。飛び込んでくる、大きく茂った一本の木。三股に分かれた街道の中央、目印のようなその木の根元――そこが、彼を初めて見かけた場所だった。
少しだけ頬が緩むのを自覚した彼女は、慌てたように表情を引き締める。鋭さを増した蒼玉が、緑に茂った森の端をとらえた。遠目には変化のないそれが、心なしか底知れぬ不気味さをたたえている――そんな気がして、ノラリダはギュッと拳を握るとバッと駆け出した。