7.王子の花嫁候補 (5)
再び落ちる静寂に、ノラリダはハッと我に返った。掴んでいた腕を慌てて放すと、しまった……! という表情で床に倒れた巨躯を見やる。
「お兄様!」
沈黙を破った甲高い声の持ち主が走り寄る様子をとらえながら、ノラリダはばつが悪そうに後退した。その背が、トスン、誰かにぶつかる。
「君の腕前を直で見たのはこれが初めてだったけど、あのゼノンを一撃で投げ飛ばすなんてすごいね。黄金騎士たちに喧嘩をふっかけるくらいだから、相当自信があるんだろうなとは思っていたけど」
低く抑えられた声音が発する吐息に耳元をくすぐられ、ノラリダは両肩を強張らせながら振り向いた。
迎えたのは、嫌味のない爽やかな笑顔。白い歯を除かせながら、彼は言葉を繋ぐ。
「僕を助けてくれたんだよね? ありがとう」
「あ、あたしは別に、身体が勝手にあいつの放った殺気に反応しただけよ。か、勘違いしないでよね!? あんたがどうなろうと、あたしにはぜんっぜん関係ないんだから! それよりあんたは、あたしに言うことがあ――」
目映いオーラ全開の彼と、その一挙手一動作にたじたじとなるノラリダ。二人の会話を遮るように、ドスドスドス、と荒々しく巨大な影が横切っていく。
「もの凄く不愉快だ……っ! 国に帰還するぞ、アヴィス!」
朱色の瞳が、ギロリと獰猛に輝きながら、ライトブラウンの瞳を上から見据えた。
怒りに満ちた低い声音が発せられ、ビリッと辺りの空気を振動させる。
「このままで済むと思うなよ? アルバオは、ミドルーアを完全に敵に回した。この借りは必ず返す」
「…………」
そう吐き捨て大股で歩み去っていくゼノン、そして恨みがましい眼差しをノラリダとその隣に向けた後、身を翻し小走りに駆けていくアヴィス、二人の姿が消えたのと同時にガヤガヤとざわめきたつ賓客たち。
「……まいったな。まさかここまで大事になるなんてね」
「自業自得じゃない。ま、まあ、少しはあたしだってやりすぎたかなとは思っているけど」
腕を組んで視線を逸らしながら、悪かったわね、と小声で呟くノラリダに、クスッと笑みが零された。
「君のせいじゃないよ。自分でまいた種なんだ、自分で刈り取らないとね」
チラリ、とライトブラウンの瞳が後方に流された。それに気づいたらしい、なでつけられたペールブロンドの髪、穏やかな菫色の瞳に端整な顔立ち、燕尾服をきっちりと着こなした青年がスッと彼に歩み寄る。
先ほどまでノラリダの自由を奪っていた、張本人。その登場に、彼女は反射的に距離を取った。
彼から短く耳打ちをされた青年は、かしこまりました、とすぐさま踵を返す。その洗練された無駄のない物腰を逐一警戒しながら、彼女は青年が姿を消すまで見送るとようやく緊張の糸を解いた。
「あいつ、何者? どこか既視感があるんだけど」
「彼は、マキス。代々、アルバオ王家の執事を輩出しているマキシュナイゼン家の者だよ」
「執事!? あんな隙のない動きでどこか得体の知れないオーラをまとったやつが、執事ですって!?」
「うん。マキスは僕の乳母の息子でね。僕とはいわゆる乳兄弟の間柄なんだ」
「乳兄弟? 何だか妙に納得する関係ね、それ。どうりで、既視感があるはずだわ……」
蒼の瞳が目の前の彼を映し、ノラリダはげんなりとした様子でため息をついた。
彼女の感想に、そう? と意味深に微笑むと、彼はグルリとライトブラウンの双眸を一巡した。
ザワザワ――、止まない喧騒。一様に浮かぶのは、不安と慄きの濃い陰影。
「さて、と。次は、この場をなんとか収めないといけないね」
「どうする気?」
「こうする気」
訊ねた彼女にニコッと口元を緩めると、彼はホールの中央まで進み出た。ザッと周りを見渡してから、大きく呼吸する背中。それを眺めていた彼女の鼓膜に、凛とした声音が響き渡った。
「アルバオを支える、諸侯おのおの方。不安を煽るような真似をして、申しわけありません。更にはこんな狂言のような舞踏会に巻き込んでしまったこと、軍事国家と名高いミドルーアと決裂してしまったこと、本当に心苦しく思います。全ては、私の不徳の致すところ――。とはいえ、私は考えを曲げるつもりはありません」
瞬時に疾る緊迫した雰囲気。
不満の声やわだかまりが高まっていく中、彼はスッと右の手を掲げた。
「が、同時に、我が愛すべきアルバオを戦火に巻き込むことは絶対にしないとお約束します。なぜなら――。私がこの場で、アルバオ国王の座につくことを正式に表明するからです」
突然の王位継承宣言に、どよめきが起こった。
彼の表情がわずかに曇り、そっと俯く。
「その責務からずっと目を背けていた私が、こんなことを口にするのはおこがましいと思われるでしょう。けれど、アルバオを愛しているこの気持ちに嘘偽りはない。アルバオを護ること、そしてそのためにおのおの方のお力を拝借すること――、どうかこの私にお許し頂きたい」
深々と腰を折る赤いシルエットに、一瞬だが静寂が落ちる。
次にその場を劈いたのは、割れんばかりの歓声と拍手の大群だった。