7.王子の花嫁候補 (4)
しん、とその場が静まり返る。一斉に突き刺さってくる視線、視線、視線の攻撃にノラリダは思わず足を一歩退いた。カッ、慣れないヒールが床を滑る。にわかにバランスを崩し、宙に投げ出された彼女の手が引き寄せられ、その先で包まれる温もりに彼女は蒼目を大きく見開いた。
「な、な……っ」
「大丈夫? 足は捻ってない?」
耳元で囁かれる、優しげな問いかけ。瞬時に、ノラリダの全身が熱を帯びた。
「何すんのよっ、この変態っ!!」
強烈な一撃が彼女から放たれ、密着していた身体が後方によろめく。が、彼女曰くの変態は、軽やかなステップを踏み体勢を整えると、前髪をかきあげ、クスッと笑みを漏らした。
そのやりとりを眺めていた朱色の瞳が嘲りを浮かべ、彼女を値踏みするように上下する。
「これはまた、随分と生きのいいお姫様だな。おまえが選ぶのだから、さぞや名のあるご令嬢なのだろう?」
「彼女は、僕の命の恩人。というより――、僕の女神様かな」
「ぶっ」
突拍子もないその一言に、ノラリダは思わず吹きだした。
ライトブラウンの瞳が、心配そうに彼女を覗きこむ。
「どうしたんだい? やっぱり、どこか痛む?」
「あ、あんた、よく臆面もなく、あんな台詞が言えるわね……っ」
「僕はただ、本当のことを口にしているだけだよ?」
自然にサラリと返された答えに、ノラリダは絶句した。じんじん、と痛みが増していく額に手を当てながら、彼女はありえない、とばかりに首を振る。
(こいつ、意図的にじゃなくて無意識にやってるわけ? なんて性質が悪いのよ……っ)
「納得がいきませんわ!」
横から挟まれた物言いに、ノラリダは顔を向けた。真っ赤に紅潮した頬、怒りに満ちた猫のような瞳が、彼女と視線が交差した瞬間鋭利な刃と化す。
アヴィス、名を呼ばれた少女はノラリダをビシッと指差すと、甲高い声を張り上げた。
「そんな、どこの馬の骨だかわからない女を選ばれるなんて、正気の沙汰とは到底思えませんもの!」
「どこの馬の骨って、あたしは――!」
ノラリダを遮るように、スッと手が差し出される。同時に彼女の前に進み出る、赤い背中。淡々とした声音が、静まり返ったホールに響き始めた。
「僕はいたって平静だよ、アヴィス。誰かに脅されているわけでも、特別な見返りがあるわけでもない。けれど、彼女と出会って僕は運命を感じたんだ」
「運命だなんて、そんなのうわべだけの感情にしかすぎませんでしょう!? 一時の感情に振り回されるなんて、国を預かる者としての責務をお忘れになったの!?」
「……そうだね。君の言い分も、もっともだと思うよ。だけど、彼女に出逢えたおかげで僕は――。本当に久しぶりに、心から笑うことが出来たんだ」
「笑う? 何を仰っているの? わたしの前でのあなたは、いつも笑顔でいらっしゃったわ」
それはこんな顔? と微笑む彼に、言葉を失うアヴィス。硬直する彼女に、彼は少しだけ寂しげな表情を覗かせた。
「僕は幼い頃に母を、そしてつい先日父を亡くした。残されたのは、この巨大な王国アルバオ。――途方に暮れたよ。のしかかる、王位につかなければならない責任と重圧に。いつしか僕は、笑みを浮かべることは出来ても、純粋に笑うということが出来なくなってしまったんだ」
彼の双眸がアヴィスの横に流され、受け止めた朱色の瞳が剣呑に輝いた。
「そんな折、君から婚約の話が舞い込んだ。自分の行き詰まりを感じたよ。全てのしがらみに耐え切れなくなって、逃げるように城を抜け出した。その先で――、彼女にめぐり逢ったんだ」
向けられたライトブラウンが灯す優しげな光に、ノラリダは鼓動が小さく跳ね上がるのを感じた。彼のその表情はまるで――、彼女の知る物語の中の王子様。初めて会ったときに抱いたものと同じ所感は、ここぞとばかりに彼女の胸をかきたてていく。
(なんて目をしてるのよ……っ、ああもう!)
ノラリダの内心の葛藤を察したのか、彼は口元をほころばせた。それは屈託のない、嬉しそうな笑み。
「彼女と過ごした短い時間、僕は僕自身を偽っていたけれど、すごく――、すごく楽しかったんだ」
彼の微笑が、少しずつその面差しを変えた。ニコッ、描かれたのは満面に近い、だがどこか冷めた作られたような笑顔。
「――アヴィス。君は、僕を心から笑わせることが出来るかい?」
「わた、わたしは……!」
「もう良い、アヴィス」
ボソリとした制止の声に、アヴィスの表情がハッとなった。隣の長身を振り仰ぎ、彼女は必死の形相で言葉を紡ぐ。
「ですが、お兄様! わたしはまだ……!」
「おれとて、このままで済ませるつもりはない。これほどの屈辱は、今まで味わったことがないからな……! 我が国と我が妹の誇りのため、ミドルーアはアルバオに宣戦を布告する!」
ザワリ――。静まりかえっていた周囲が、その一言ににわかに騒然となる。それを全身で受けながら、ミドルーアの王子はグッと拳を握った。
「これは、手付金代わりだ。遠慮なく受け取るがいい!」
ブンッ、空を凪ぐ音。一瞬で詰め寄った豪腕が、アルバオの王子に振り下ろされる。誰かの悲鳴が耳を掠める中、ノラリダは反射的に彼の前へと飛び出した。
「なにっ!?」
朱色の瞳が見開かれ、その中に二本の腕に絡めとられた自身の豪腕が映る。
相手が怯んだ隙を狙い、ノラリダは流れるように身を屈めた。
「はあああああ!」
フワリ、巨体が宙を舞い、綺麗に弧を描きながらドサッ――床へと強かに背中から落下した。