3.穏やかな日 (3)
並べられたそれに、翠の瞳が胡乱げに面積を減らす。
「なんだ、これは」
「え、サンドイッチだけど……あ、ディアルク、それそのまま一緒に食べるんだよ?」
「なに……?」
クロワッサンに挟まれていた生ハムを摘み上げていた指先が、ピタリと宙で静止した。ムスッとした面持ちで、スゼルナが両の手の平で包むように持ち上げたそれ――緑や赤や黄の、色とりどりの野菜を覗かせた茶褐色の物体――を受け取る。
「ごめんね、朝食を作った時の残りものしかなくて、サンドイッチくらいしか作れなかったんだ」
「……」
形の良い眉を訝しげに顰めながら、彼の手が動く。咀嚼し飲み下した相変わらずの仏頂面に、スゼルナは恐る恐る問いかけた。
「ど、どうかな?」
「……不味い」
「ええっそんなはずは……!」
放たれた一言に、俄かに平静を失うスゼルナ。慌ててもう一つのサンドイッチに手を伸ばし、少しだけ切り離すと口に含む。その表情が、怪訝そうなそれへと変化した。
「普通に食べられると思うんだけどな? でも、ごめんなさい。あなたの口には合わなかったみたいだね」
「……さてな」
その物言いに、スゼルナは一度瞳を瞬かせると小首を傾げた。
「ねえ、ディアルク。もしかして、この中に嫌いな野菜でもあるの?」
「フンッ……馬鹿馬鹿しい。付き合いきれぬ」
そう言い捨て明後日の方を向く彼に、スゼルナはきょとんと目をぱちくりさせたが、次の瞬間プッと小さく吹き出した。
ジロリ、と絶対零度にまで冷え込んだ眼差しが彼女に突き刺さる。
「何が、おかしい?」
「だって、ディアルク、見た目は大人びててすごくクールな雰囲気なのに、今のあなた、ただのわがままな子供みたいだよ?」
「…………」
無言の彼にクスクスと笑いを漏らしながら、スゼルナは再びサンドイッチをちぎると、はい、と彼の眼前に差し出した。
僅かに流された翠の瞳が、スッと睥睨される。
「……何の真似だ?」
「このままじゃ、さっきの一口以外食べてくれない気がするもの。だから、はい。傷の方はだいぶ良さそうだけど、何か食べないと、身体持たなくなっちゃうよ?」
「…………」
「えっと、こういう時は――そうだ、あーん……っ!?」
指先に突如として訪れる柔らかい温もりに、スゼルナの表情が硬直した。
見えない滑りが指腹を掠め、伝わるゾクリとした感触に思わず引き抜くと、今まで咥内へと誘いこんでいた彼の口元が、フッと綻んだ。
「これならば、悪くない」
「ディ、ディアルク……っ」
「どうした? 早く次をよこすがいい」
「う、うん……」
サンドイッチの欠片が、若干震えを帯びた指に挟まれ、彼の前へ運ばれる。スゼルナの手首が徐に掴まれ、ゆっくりと引き入れられていく。ピクン、と彼女の肩が跳ねるのを視界に捉えた翠玉が、愉悦を灯す。
「……っ」
爪の間にまでしなやかな舌先を差し込まれ、丹念に弄られる。絡まれ吸い付かれ、何度も行き交うむず痒さに、遂にはスゼルナの唇から悩ましげな吐息が零れ落ちた。それを見計らったように、全てが解放される。
ほんのりと染まった顔を俯かせ、自ずと早まっていた鼓動を落ち着かせようと、スゼルナは深呼吸を繰り返す。
小刻みに揺れる指が、サンドイッチに触れたまま動きを止めた。
「ククッ。何を躊躇っているのだ?」
「だ、だって……!」
「ならば、仕舞いにするぞ?」
楽しげな声が、耳を撃つ。顔を上げ、交差した翠の瞳に強く首を振ると、スゼルナははにかむように視線を彷徨わせながら、口を開いた。
「全部食べて欲しい、な……」
「よかろう。早く、我が前に差し出すがいい。無論、どうすべきかわかっていような?」
コク、と小さく肯定を返し、スゼルナの白磁に包まれた指が、作業を始める。
甘美に色めいた艶事は、彼の前へと並べられていたサンドイッチが姿を消すまで続けられ、最後の洗礼を受け終えた彼女は、今にも倒れそうなほどに朦朧とした意識の中を漂いながら、後片付けに移っていた。
気づけば、木漏れ日の入射角度が変わっている。スゼルナの黄金の瞳が、上空へと巡らされ、ふっと曇った。
「私、そろそろ帰らないと」
「ほお、また俺の下から逃げ出すのか?」
「ち、違うよ! 昼前には戻るって彼に言っちゃったんだ」
「彼、だと?」
「うん。私ね、あまり歳の変わらない幼馴染がいるんだけど、私なんかよりずっと大人ですごく強くて優しくて、私の方がいつも甘えてばかり。その彼が、その……体調を崩して今、療養中なんだ。こういう時でもないと、私、役に立ってあげられないから――ディアルク?」
急に黙り込んでしまった黒衣の男に、スゼルナは怪訝そうな面持ちを向けた。
黒糸が緩やかな螺旋を舞い、明らかに苛立ちを含み出した切れ長の眼差しが更に鋭さを増す。同時に零れ落ちたのは、酷く抑揚のないもの。
「いや、何でもない……」
「そう? ちょっと不機嫌そうな気はするけど……。じゃあ、私行くね。楽しい時間を、ありがとう。今は大丈夫そうだけど、この辺もいつ危険になるかわからないし、早くどこかに移動した方がいいよ? でも、そうなったらあなたには、もう二度と会えなくなるのかな……」
寂寥に包まれ、憂いに満ちた黄金の瞳が視線を下げる。それに返されたのは、低いが今度はよく通る声音。
「――次にここへ来る時は、酒を持参してくるがいい」
「え……?」
「この地には、まだやるべきことが残っている。それを完遂させるまで、動くわけにはいかぬのでな」
「でもそれなら、また怪我をする可能性だってあるよ?」
「フン……。あの時は、少々戯れが過ぎただけの話。次の負傷は、到底ありえるものではない」
「もし、もしそうなら――。また、逢いに来てもいいってこと?」
「好きにしろ」
「……うん!」
頷いたスゼルナの表情が、一瞬で華やぐ。それを捉えた翠玉の瞳が微かに揺らぎ、そして――フッと柔らかい光を灯した。
***
「あなたは、私から全てを奪った。憎んでも憎んでも、憎みきれないはずなのに――っあなたを、あなたをそんな風には思いきれないよ……。思えたら、どれだけ楽になれるかわかっているはずなのに……!」
擦れた弱々しい声が耳を掠め、彼は翠の瞳を巡らせた。
その先で、虚ろなトパーズの眼差しがどこか遠く――中空を捉える。
「あなたと一緒に過ごした時間がそれでも嬉しくて、幸せで――。私は……私は、どうしたらよかったの? どうしたら、あなたと――!」
彼女の金糸が波打つように揺れ、二つの黄玉が滲ませたのは、切なげな煌き。
その僅かに上気した頬をあやすように覆い、彼女の耳たぶを軽く噛みながら彼は囁きかける。
「俺とおまえの運命の糸を、もう一度紡ぎ直してやる――。さあ、次の記憶を俺に見せるがいい。全て、我が手で消し去ってやろう」
「でも、私、私は……あっ」
彼の指が徐に彼女の顎先を掴み、親指の腹が薄桃に色づく唇を撫で回す。
微かに見開かれた黄金の瞳の前で、クッと細められる翠の色。――思い出の世界で告げた名が、不意に彼の耳の奥を刺激した。
「……呼べ、我が名を。おまえの記憶から抜け落ち泡沫と消える、その前に」
「名、前? あなたは、あなたは――邪王神ベルディアース……っ」
「俺がいつ、その名をおまえに教えた?」
彼女の答えに、ザワリ、と長い黒髪が蠢いた。感情の昂りに併せて迸る膨大な魔力に、黒縄が呼応する。
強まった手首の縛めに、彼女からか細い悲鳴が上がった。は、荒くつかれる呼気。
潤みを帯びたトパーズが彼を見据え、小刻みに震える紅唇が逡巡しながら薄く開かれていく。
「ディア、ルク……」
熱い吐息に紛れて飛び出したそれに、彼の口唇が残忍に歪む。
彼女と逢瀬を重ねる度、内から昂ってくるざわめき――それまで数多の経験を繰り返し、この腕で幾重にも、幾人にも悦楽を享受させてきたにも関わらず、初めて抱いた感情だった。
真白な首元の紅痕が、目に留まる。細い傷の上を覆うように色づいた、所有の証。
それを刻んだのも、その感情からくる衝動的なものだった。