6.不穏な舞踏会 (3)
翻るコートの裾――、瞬間。何の音もなく、視界から抜け落ちていく白の色。
「……っ!」
息を呑み、慌てて駆け寄るノラリダ。バッと柵から身体を乗り出し下を覗くが、予想していたような惨劇どころか確かに目にしていたはずの白の色合いもなく、ただ静かな中庭がそこには広がっているだけだった。
狐につままれたような思いを抱きながら、彼女はヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「なん、だったのよ、今のは……。夢? 幻? もしかして、幽霊じゃないわよね?」
フルフル、と頭を横に振れば、首元の細いチェーンに繋がれた指輪が小麦色の肌の上を跳ね回る。それを掴み瞳を閉じると、先ほどの出来事を瞼の裏に反芻しながら大きく歎息した。と。
「ノラリダ」
後方から名前を呼ばれ、ノラリダはビクッと両肩を震わせた。目を開け振り返れば、先ほどの白とは対照的な黒の色。それに全身と顔の半分以上を覆った見知った姿に、彼女はわずかに安堵しながら半眼を向けた。
「……どこに行ってたのよ、あんた」
「それはこちらの台詞だ。すぐに戻るからあのホールで待っていろと言ったはずなのに、何故こんな所にいる?」
「あんなキラッキラしたところに一人でずっといられるほど、あたしは殊勝な人間じゃないのよ。仕方なくあんたを探していたら、白い――」
「白い?」
突然口ごもるノラリダに、アルバがうながしをかける。が、ノラリダは曖昧な表情を浮かべると、なんでもない! と言葉を濁した。
(幽霊みたいなやつを見たって言ったら、こいつのことだからどうせまた……!)
過去にその類の内容で散々からかわれたことを思い出し、ノラリダはムスッと唇を尖らせた。
そよそよ、と心地よい夜風がそんな彼女の頬を撫でていく。それに目を細め、わずかばかり面立ちを崩すと、そういえば――と話を転換した。
「ねえ、なんで舞踏会に同行したいって言い出したのよ。あんたみたいな怪しいやつが、こんな表舞台のような場所に出てくるってよっぽどのことよね?」
「そうかもしれん。だが、担保に逃げられでもしたら、こちらは大赤字になるのは目に見えている。君の衣装一式もここにもぐりこむための封書も、あの短時間で全て俺が用意した。どれだけの出費がかかっていると思っている?」
「そんなの、わかるわけないでしょ」
「後できっちり手数料込みで清算してもらうからな?」
念押しのようにそう口にするアルバに、ノラリダは肩を竦めながら息を吐いた。
そんな二人の耳に、微かだが優雅なメロディーが届けられる。先ほど聴いたそれとは違う、どこか懐かしさの漂うゆったりとした曲調に、彼女はふっと口元を綻ばせた。
「素敵な音楽じゃない」
「そうだな。ところで――、舞踏会で王子に近づくつもりなら、少しくらいは踊れた方がいいんじゃないのか?」
眼前に、スッと差し出される左の手。それと黒のフードを交互に見やりながら、ノラリダは面食らったようにきき足を後ろに退いた。
「は? 何よ、急に。そりゃ、踊れないよりは踊れた方がいいんだろうけど……。あたし、そういう類はからっきしなんだってば。てか、そう言うあんたは踊れるわけ?」
「嗜み程度にはな」
恐る恐る伸ばされたノラリダの左手を取りそのまま引き寄せると、空いた手を彼女の腰に添える。俄かに強張っていく彼女の全身に気づき、アルバは囁くように告げた。
「俺の動きに合わせて、足を動かすだけでいい。あとは、俺がリードする」
タン。タン。響く足音に、つられるようにもう一つの足音が続く。
タン、タン――。タン、タン――。足元を見ながら、ノラリダは必死に彼の動きを真似る。憶測を誤り、アルバの足を踏みそうになるが、彼はそれを見越してか優雅に次のステップに移っていく。
(どこが嗜み程度よ……! めちゃくちゃ上手いじゃない!)
ジトっとした眼差しでノラリダが上向けば、一瞬だがフードの中の瞳と交差する。驚いた拍子に二人ともが視線を逸らせば、月光が満ちる中彼女の頬がほんのりと紅色を強めた。
「……これもまた、レッスン料が必要とか言うんじゃないでしょうね?」
「別に。俺はそこまで金の亡者ではない」
「よく言うわ。あたしに散々ふっかけようとしておきながら――」
タタン、タタン――。
まだ若干ずれるステップの音。薄水色のドレスの裾と蒼髪が、月の光を反射し鮮やかな円を描く。
バルコニーに落ちる二つの影が、寄り添い、離れ、また寄り添う。郷愁を誘う音色が、まるで恋人たちのひとときを奏でるような甘いメロディーに変わる。
輝く二つの蒼玉とその持ち主である目の前の少女に、黒フードの奥から漏れ出したのは高めの擦れた言の葉。
「……いだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
否定を示すアルバの声は、先ほどから変わらない低めのもの。
ノラリダはわずかに小首を傾げると、それにしても――と感心したように続けた。
「情報屋って、こんなことも出来るのね。ただの変態野郎だと思っていたのに……、予想外だったわ」
「見直したか?」
「多少は、ね」
タン――。タン――。タン――。
いつの間にか足音が揃っていることに気づき、アルバはそっとノラリダを解放した。
「まあ、これくらい出来たら十分だろう。あとは、君の誑かし術次第ってことだ」
「なんっか引っかかる言い方ね、それ。あたしは別に、船を貸して欲しいって頼みに行くだけよ」
「こんな情勢下で、そんな無謀な頼みをそうそう聴いてもらえるとは思えないが……。ああ、いっそ王子に気に入られて、船を借りるどころかそのまま妃の座に納まればスムーズに話が進みそうじゃないか? この舞踏会自体が、王子の花嫁選びだと専らの噂だしな」
「冗談。顔も知らないやつと結婚なんて、ありえないわ」
プッと吹きだしながら即答するノラリダに、アルバは若干意外そうに尋ねた。
「――“王子様”に憧れていたんじゃないのか?」
「それとこれとは話が違……ってなんで、あんたがそのことを知っているのよ。さては、セルムかミハロスに聴いたのね……!?」
詰め寄るノラリダを軽くあしらうように、アルバはクイッと黒フードを横に動かした。
「それはさておき。そろそろ戻らないか? いつの間にか音楽が止んでいる」
「本当だわ……! これで機会を逃したら、何のためにもぐりこんだかわからないじゃない! 急いで戻るわよ!」
ドレスをたくし上げ、バタバタと駆け出すノラリダ。途中、慣れない衣装につまずき、慌てて体勢を整える彼女の蒼目がキッとアルバを睨みつけた。羞恥に染まった頬をプイッと背けると、再び走り始める。
黒フードが小さくユラリと揺れ、ゆっくりとアルバの足も動き出す。と、それが徐に止まり、一瞬だが掌が口元の辺りを覆う。微かに肩を震わせてから、彼は何事もなかったかのように彼女の後を追った。