1.旅立ち (4)
「あたし、オルトの村に行くわ」
いつものように剣の修行を終え、風が心地よく通る草むらの上で思い思いに休憩を取る。
そんな中、ジッと地面を凝視していた蒼の瞳がフッと決意に満ち、上空に広がる同じ色合いを捉えた。
前触れもなく突如として告げられたその台詞に、その場に居合わせたセルム、ミハロスはまじまじとノラリダを見つめる。
シャリ。セルムの開きっぱなしだった口が、思い出したように目の前の赤い林檎の一部分を齧りとりゆっくりと咀嚼を繰り返しながら、彼の眼差しが胡乱げなものに変わっていく。
「なに言ってんの、おまえ」
「だから、あたし、オルトの村に行くって言ってんのよ。ちょうど剣の修行も、師匠の都合で明日からしばらく休みになったことだし」
「……本気ですか?」
ミハロスが念を押して問えば、ノラリダは真摯な瞳と共に鷹揚に頷いた。
「本気も本気よ。あたしは、オルトの村に行く」
「――とりあえず、理由を聴かせて貰いましょうか」
訝しげなミハロスがそう提案し、隣のセルムも賛成とばかりに腕組みをしながらノラリダに身体を向ける。
と、彼女から一筋の短い吐息が漏れ落ちた。
「あんたたちにも、前に話したことがあると思うんだけど――、あたしの初めての冒険」
「初めての冒険?」
鸚鵡返しにセルムが呟く隣で、ミハロスは懐のメモ帳を取り出しパラパラとページを捲ると、ザッと書かれた内容を目で追う。
「ああ、確かオルト、イシュル、アナサの長たちが一斉に会して、話し合いの場を設けた時のことでしたよね? 長老様に貴女も同行してて――そうそう、オルト、アナサにも貴女と同じ歳くらいの少女たちが同席していたとか。そして彼女たちと知り合った直後に、揃って事件に巻き込まれた、とありますね」
「ええ。その時のオルトの友達が――スゼルナが心配なのよ。オルトからの連絡が先月を最後に途絶えたって、父さんも言っていたわ。彼女の身に何かあったんじゃないかって、そればかりがずっと気になって仕方がないのよ」
ふーん、と相槌を打ちながら、セルムは頭の後ろで両手を組むと、怪訝そうな表情を浮かべた。
「でもよ、おまえ、そのスゼルナってやつとそのときの一回くらいしか会ったことないんだろ? いくら似たような立場だからって、おまえがそこまで心配する理由はないと思うぜ?」
「そうね、確かに一度しかあったことはないけど……。何て言うのかしら? あの二人とはそんなに軽くない縁を感じたというか、深い繋がりを感じたのよ。まるで、遠い姉妹のような――不思議な感覚」
「僕にはよくわかりませんが、遠い姉妹というのは言い得て妙かも知れませんね。光神オルティス、正義神イシュリード、そして希望神アナスタシアの三柱神は、兄妹だったらしいですから」
「そうなの?」
「はい。……たまにはちゃんと歴史の勉強もしてくださいよ、ノラリダ」
「……ごめん」
罰が悪そうに視線を逸らすノラリダに、はあ、と歎息が投げられた。
手にしていた林檎はあらかた食べつくしたらしい、口から覗かせた果軸を転がし遊びながら、セルムは苦い表情を浮かべた。
「なるほどな。今日の修行中、たまにぼうっとなって師匠に怒られていたのは、そういう理由かよ。オルトからの連絡、ただ遅れているだけだと思うけどな、オレは」
「この前はあたしもそうだと思ったわ。でも、あれから何日も経った――さすがに、遅すぎる気がする。途中でオルトの人に会えたのなら、それでいいわ。それで、ただ遅れていただけだって納得できるから。だけどこのままじゃあたし、いてもたってもいられないのよ!」
切々と語るノラリダに、セルムとミハロスは顔を見合わせると、小さく苦笑しながら揃って両肩を竦めた。
「貴女がそこまで思いつめているのなら、僕たちも出来るだけのお手伝いはしますよ。とは言っても、さすがにオルトまでは同行できません。僕たち三人が一斉に抜けてしまうと、この村の護りが手薄になってしまいますから」
「行けたとしても――そうだな。せいぜい、この村から一番近い大国アルバオくらいまでだかんな」
代わる代わるの申し出に、ノラリダは複雑そうな面立ちのまま緩々とかぶりを振った。
「あんたたちの気持ちは嬉しいけど、村から外に出る――そう簡単なことじゃないのよ? 現状を考えれば、そうそう村を出る許可も下りないと思う。グズグズしてはいられないもの。だからあたし、陽が昇らないうちに村を抜け出そうと思っているわ。見つかれば、拳骨どころじゃ済まないかもしれない。それでも――」
言い募るノラリダに、二人の少年はタイミングを見計らったように同時に吐息をついた。
「何を今更。オレたち、子供の頃からの一蓮托生ってやつだろ?」
「ですね」
「あんた、たち……!」
「ま、幼馴染の腐れ縁ってやつだから、勘違いすんじゃねぇぞ? アルバオまで行ったら、航路や乗り合い馬車や選択肢はいろいろあるだろうし、あとは自分で何とかしろよ? そ、れ、に! おまえ、極度の方向音痴じゃん? おまえ一人だと、アルバオに着けるかもわかんねぇから、途中で野垂れ死にされるの、オレだって後味悪いもん」
「な、なんですって!?」
俄かに憤怒を帯びたノラリダの手が、横に置かれたままの木剣を掴む。
それを捉えたセルムの灰白色の眼差しが、嬉しそうに煌いた。
「なんだよ、やるのか? さっきのおまえ、全然歯ごたえなかったもんな! ちょうどいいぜ、今日の本気の打ち合い、今この場でやったろうじゃん!」
「望むところよ!」
相変わらずの記録更新となる、百――何戦目かが勃発する中、ミハロスはフッと微笑を漏らした。
多少なりとも羨望の色が、オーキッドの瞳に滲む。
「……全く、素直じゃないんですから。二人とも」
誰にともなく呟きながら、ミハロスはメモ帳を広げ、ペンを走らせ始めた。
翌日、未だ陽の昇らない早朝。
背中には獲物である大剣を、そして手荷物にしては若干大きく重そうな袋を一緒に担ぎながら、ノラリダはセルム、ミハロスと共にこっそりとイシュルの村を抜け出した。