1.旅立ち (3)
修行の場から移動し、風が心地よく通る草むらの上に座り込み木の根元へ凭れかかりながら、ノラリダは疲労感を訴えてくる左の腕を丁寧に摩ると、小さく吐息をついた。
「今日の鍛錬もきつかったよなぁ……」
漏れ出した声にノラリダは蒼目を流すと、ゴロリと大の字になって横たわるセルムへコクリと一つ頷き、そうねと相槌を打つ。そして、彼の隣で腰を下ろし、ガックリと項垂れたままのアッシュグレイの髪へ、気遣わしげな眼差しを向けながら尋ねた。
「ミハロス、大丈夫? 相当応えたみたいだけど」
「だ、大丈夫です……と言いたいところですが、さすがにそんな強がりも続きそうにありませんね」
はあ、と両肩で深く息を漏らし、ミハロスはようやく顔を上げた。前髪をかきあげながら、酷く気だるげなオーキッドの瞳をノラリダ、セルムへ順に回す。
「最近、前にも増して師匠の扱きが半端ないものになっていませんか? もともと僕の体力がそれほどないのも原因かもしれませんが、やはり、魔物の脅威が増えていることを一緒に鑑みて――奴らの動きが活発化している、だからこその愛の鞭といったところなんでしょうか」
「そうなのかもしれないわね。だったら尚更、その期待に応えられるように腕を磨かないといけないわ。イシュルの村で一番若いのが、あたしたちなんですもの。みんなを護ってあげないと」
「だな」
「意気込むのは構いませんが、並みの魔族や魔物はいいとして――問題は、闇の8神と呼ばれる連中ですよ。精神を司り、残虐非道を極めた神々。そして、その頂点に君臨する存在――」
「ベルディ、アース……」
引き継いだように呟くノラリダに、ミハロスはゆっくりと首肯した。
「この前、師匠とノラリダの父ちゃんのひそひそ話を盗み聞きしたとき、確かそんな名前が出てたよな」
「ええ。神々には、普通の武器では太刀打ち出来ないと言われているのは、二人とも知っていますよね? 対抗出来るのは、神器を携えた者のみ――。とはいえ、今現在、神器を扱える者どころか、その神器の所在すら耳にしたことはありませんが」
「神器っつーくらいだし、やっぱ神様くらいしか使えないんだろうな」
セルムの言葉に、ノラリダは二人から視線を逸らすと虚空に蒼玉を向けた。幼い頃から教えられ脳内へと刻まれた、温かな存在をそっと口にする。
「伝説の三柱神――光神オルティス、正義神イシュリード、希望神アナスタシア。あたしたちは、正義神イシュリードの末裔……」
「ええ。1000年の昔、闇の最高神からこの世界を救ったとされる、伝説の三柱神。そして貴女は、その一人である正義神の直系。もし仮に神器に選ばれるとしたら、あなたの血筋から誕生するんでしょうね」
無言でミハロスの視線を受け止めた蒼髪が、緩々と縦に振られた。
(とはいっても、それがいつ現れるかなんてわかりっこない。どうせなら、あたしに使えないのかしら? そしたら、あたしが奴らをこの手で叩きのめして、世界の脅威を打ち払ってやるのに)
よ、とかけ声が上がり、セルムの上半身が起き上がった。
後ろ頭で両手を組み軽く伸びをすると、首を左右にコキコキと鳴らし、そういや、と口にする。
「伝説の三柱神で思い出したぜ。毎月のようにさ、他の二つの村から定期連絡みたいなのあるじゃん?」
「ええ。このイシュルの村が、オルト、アナサの中継地点のような場所にあるせいか、ここが情報の共有現場のような形になっていますね」
「そうそう。それでさ、今月に入ってアナサのお客っぽい人は見かけたんだけど、もう一つのオルトの方って誰か来てたか?」
「……え?」
内心の世界で魔族討伐に向かっていたノラリダは、セルムのその問いかけに現実へと引き戻され、呆けたような声を発した。
オルト、アナサ。どちらも、イシュルと同じ使命を担った隠れ里の名称だった。
腕を組み、真っ先に首を捻ったのはミハロス。
「そういえば、僕も記憶にありませんね。訪れたら、最低でも三日は滞在されるみたいでしたし、気づかない方が稀だとは思うのですが」
「だろ? こんなこと、今までになかったじゃん? だから気になったっつーか。――ん? どうしたんだ、ノラリダ」
「あ、うん。ごめん、ちょっと考え事をね。オルトの人、ただ遅れているだけかもしれないわよね? ほら、天候の関係で足止めをくらっているとかさ。いくら風の精霊魔法があるからって、悪天候の中だと精度が落ちるし、そういうときはそんなに使わないじゃない?」
「まあ、確かに。ですが、最近は穏やかな天候が続いていますよ? とはいえ、オルトはアナサより遠方にありますからね、あちらの方が果たして同じような感じだとは限りませんけれど」
「ま、明日明後日くらいには着くんじゃねえ?」
「だといいのですが」
「…………」
押し寄せる言い知れぬ不安に、ノラリダは胸の前でギュッと拳を握り締める。
楽観的なセルムと、神妙そうな顔つきのミハロス。彼らから視線を上向かせ陽の光に目を細めると、蒼の瞳が澄んだ煌きを放ちながら揺れ動く。
(大丈夫……。大丈夫よね?)
遠い空の先にいるであろう友人の名前を呟きながら、ノラリダはそっと目を閉じた。
彼女の心配を煽るかのように――。
オルトからの使者は、次の日、そしてその次の日もまた姿を現すことはなかった。