3.穏やかな日 (1)
消える、消える――儚い、泡沫の夢たち。
3.穏やかな日
辺りに充満する、香ばしい匂い。それに鼻腔を擽られながら、スゼルナは慣れた手つきで包丁を繰り出す。鮮やかな切り口を覗かせていく、色とりどりの野菜たち。それらを円形の皿に盛ると、暖炉の方へ足を向け、火にくべた鍋の様子を横目にしながら杓子で何度もかき混ぜ、そっと口をつける。広がる、予想以上の味わいに彼女の表情が綻んだ。
「ん、いい感じに煮込めたみたい」
次に、傍にかけてあったミトンを手に取り身につけると、鍋を吊るす部分よりさらに上に設えてある鉄製の扉に手をかける。開けると、フワリ――一気に飛び出す白い煙に混じり、嗅覚を捉えて離さない、食欲をかきたてるような香り。
素早くオーブンから引き出された四角のプレートには、無駄なく並べられた手の平大ほどのクロワッサン。その出来栄えに、自然と彼女の目元が和む。
焼きたての二つを掴むと、先ほどの野菜の隣へ滑らせ、鍋で完成したスープと一緒に盆に乗せると、作業が一段落したことに吐息をつき小さく伸びをする。
「早く、おじいちゃんとヨシュアのところに持って行ってあげなくちゃ」
ふと、窓の方に視線が動いた。そこから見渡せるのは、森を形成する無数の木々。深く鮮明に刻まれる、その色。
「翠……」
その呟きが、昨夜の記憶を呼び起こす。
衝撃的、だった。薬草を取りに森の奥へと踏み込んだ先で、重傷を負った男を見つけ手当てをし、そして、刃を向けられた。あの一瞬で終わりを覚悟したのに、次に気がついた時には――奏でられる陶酔の中だった。
刻まれたままの、冷たい痕。恐る恐る伸ばされた指先が、ゆっくりと下唇をなぞっていく。
(キス、されたんだよね……?)
途端、かあっと熱を帯びる頬。耳までも薔薇色に染め、スゼルナはふるふると首を振った。
(なにかの偶然で、あんな風になっちゃったとか? だって、好きでもない相手とキスなんて、そんな簡単に出来るものじゃないって思うんだけどな)
そう考えてから、小さく口元を緩める。
(でも、私も人のこと言えないよね。初めて会った男の人にキスされたのに……なんでだろう? 全然、嫌じゃなかった。もしかして私、キスなら誰とでも出来ちゃうの?)
堪らず、プッと吹き出してしまう。
(よくわからないけど、やっぱり好きな人との方がいいな)
くっきりと脳裏に浮かぶ、美しいエメラルドのような翠の双眸。
スゼルナの顔立ちが柔らかさを増し、黄金の瞳が夢見るようにうっとりとした雰囲気を纏う。
(あの人は、誰だったんだろう? この村の関係者じゃなさそうだし、旅の人かな? でも、いつ戦いが激しくなってもおかしくない状況だし、この辺に居るなんて危ないよ。今度会えたら、早くここを立ち去った方がいいって伝えてあげなくちゃ)
自ずと顰められていた表情が、はたと静止した。何度も両目が瞬かれ、忘れかけていたはずの熱が、再び全身を駆け巡る。
「今度、会えたら……」
反芻して、浮かんだのは苦い笑み。どんな顔をして会えばいいのか、突き飛ばして逃げてしまった相手に。
そういえば、と一人ごちる。
「ご飯はちゃんと食べてるのかな? あんな状態だし、なるべく体力はつけた方がいいと思うんだけど……。持って行ってあげたら――ううん、まだあの場所に留まっているかもわからないのに。でも、あの傷だったら、そんなにすぐには動けない……かな?」
チラリ、と一瞥された先。そこには、切りかけの野菜とプレートに並んだままのクロワッサンたち。
戸惑いに揺れる黄玉に、決意が宿る。胸の前で作られた拳に、グッと力が籠められた。
コンコン。人差し指の第二関節が、軽やかな音を立てる。
どうぞ、の返事に、スゼルナは片手でドアノブを回すと、身体全体を使って扉を押しやった。と。重い木の扉の感触が、フッと立ち消える。その理由が、傍に佇む青年の伸ばされた腕だということに気づき、彼女は破顔した。
「ありがとう、ヨシュア。もう起き上がっても大丈夫なの?」
「ああ、おかげさまでな。元々、負傷自体は治癒の魔法で塞がっていたし、一晩寝たらこの通り身体も軽い。これなら、今からでも戦線に復帰出来そうだ」
「……うん。ヨシュアはこの村の戦士団のリーダー。あなたが前で指揮を執らないと、みんな混乱しちゃうものね」
彼の横を通り抜け、一つしかない部屋のテーブルへと手にしていた盆を置きながら、スゼルナは俯いた。
「でも、出来ることなら、あまり無茶なことはやめて欲しいな……」
「スゼルナ。おれのこと……その、心配してくれているのか?」
肯定の意味を込めて一度頷き、スゼルナはヨシュアへと向き直った。真摯な眼差しで、彼の黄櫨色の瞳をジッと見つめる。
「当たり前だよ。あなたは私の大切な幼馴染……。あなたが怪我をしたと聴いたとき、目の前が真っ暗になって、どうしたらいいのかわからなくなった……怖かったんだよ?」
「そうか……。すまない、心配をかけた」
優しく包むような声音に、スゼルナはゆっくりと首を振った。
コツコツ、と靴音を響かせ近づいてくるヨシュアの端整な面立ちに、小さく笑みを投げかける。
「それに――。戦士団のみんなだって怪我なんかしないで無事でいてくれたら、どれだけ嬉しいかなって思うもの」
「……そう、だな」
フッと自嘲めいた表情を浮かべながら徐に視線を逸らすヨシュアに、スゼルナは不思議そうに小首を傾げた。
「ヨシュア?」
「いや、なんでもない。それより、さっきから腹が減って仕方がないんだが、その美味そうな朝飯には、いつになったらありつけるんだ?」
「あ、ごめんね。別に出し惜しみをしていたわけじゃないんだけど、冷めないうちによかったら食べて」
「ああ。おまえの作る飯は、冗談抜きで美味いからな。遠慮なく頂くとする」
「そんな、大げさだよ。あ、食べられる分だけでいいから、ね? それじゃあ私、出かけてくる。昼前には戻ると思うし、後片付けは私がするから、食器はそのままにしておいてね」
「わかった、助かる。こんな状況だ、くれぐれも気をつけるんだぞ」
「ありがとう。ヨシュアも――無理なお願いかもしれないけど、ちゃんと全快してから、戦士団の仕事に戻ってね?」
「ああ、そうする」
大きな手の平が、スゼルナの黄金の髪にそっと置かれる。撫でられる心地よさに目を細めていると、ヨシュアが微笑していることに気づき、彼女もつられるように笑みを浮かべた。