3.死神の憂鬱 (2)
足の動作はそのままに、翠の双眸が上下左右と流される。
が、映るのは変わらない闇の静寂。ふと、手の中の儚い存在を思い出し、そっと持ち上げる。
「不思議な花だ。水を与えているわけでもないのに、萎れる気配がないとは――」
指先で摘んだそれを見つめながら、その生気溢れる姿に翠の瞳が穏やかな色を灯した。
一頻り眺めてから、目線を逸らす。その視界の中で、廊下のあちこちに屯する集団を幾つか収めた。
(ここは、来賓のスペースか。このような人込みに紛れていらっしゃるとは、考えにくいが……)
本人の意思による逃走、はたまた第三者による誘拐ならばそれもあり得る、と彼女は隙間を縫うように移動しながら、軽く会釈を挟みつつ注意深く一つ一つのグループに監視の目を光らせる。
「本日の邪王神様のご機嫌は、あまりよろしくないようだが――」
「憎き光神の末裔どもを滅亡させた際、生き残り――」
「希望神の末裔らしき輩と一戦を交えたらしいが、その――」
「最高のもてなしとは、心が躍――」
和やかな談笑に耳を傾けつつ、最後のグループのニヤニヤとした笑みに若干の不快感を覚え、彼女が顔を顰めながら早足で通り過ぎると、その一団は彼女が来た道へと流れるように移動を始めた。
「陛下」
その呼び名に、頬杖をつきながら不愉快に彩られていた翠の瞳がスッと一瞥された。
玉座の横へ歩み寄り、そのまま膝を折る女。その揺れる翠髪を捉え、ベルディアースの表情が僅かに崩される。
「……おまえか。首尾は?」
「申しわけございません。城内を一通り探し回ったのですが、どこにもいらっしゃらず、足取りは全く掴めませんでした。もしかしたら、前回と同様、城外へ拐かされた可能性もあるかと」
小声での滔々とした報告に、ベルディアースから舌打ちが漏らされた。
彼の反応に、彼女の美しい柳眉が疑問を刻む。
「しかし、納得がいきません。邪王妃様はなぜ、貴方のお傍を離れたのですか? もし仮に拐かされたとしても、お一人の時を狙ったはず。遠目にしか拝見したことはありませんが、身勝手な振る舞いをされるような方には、到底思えませんでしたが」
「フン、さてな。俺にも、あれの行動は理解が出来ぬ」
艶やかな黒髪をかきあげながら嘯く彼の翠目が、ふと一点を凝視した。
彼女の長い指の間に見え隠れする、白い儚げな印象を与えるもの。
「それは何だ?」
「この花のことでしょうか」
彼の視線に気づいたらしい、広げられた彼女の掌の中に鎮座した小さな花。
細められるベルディアースの翠石の前に、そっと差し出されるそれ。
黄色い花芯が、不意に呼び起こす黄玉の輝き――彼の美しい相貌が、徐々に険しくなっていく。
「先ほど、中央殿の廊下を移動していた際に拾ったものです。周りに花が装飾されているわけでも、外に通じる窓もないのに、どこから紛れ込んだのか不思議に思いまして――興味がおありですか、陛下」
「いや、もう良い。退がれ。引き続き、任を遂行せよ」
「御意」
折り目正しく頭を垂れ、立ち上がろうとした彼女の面立ちが、強張りを見せた。
なっ、息を呑むその声に、ベルディアースの眼差しが再びそちらに流される。その瞳が、俄かに面積を増した。
二人の視界の中で、彼女の手に握られていた花が、前触れも無く発光を始める――瞬間。パリン、乾いた音と共に砕け散り、細かな破片がすぐさま虚空に溶け消えていく。
広げられた手の中には、まるで元から何もなかったかのように、白磁の肌だけが残された。
「これは……!」
「微かな魔力の波動を感じた。この源は……、まさか……!」
スクッと長身が伸び、一呼吸の後に黒の外套がベルデイアースの歩幅に併せるように宙を舞い始める。
陛下、呼び止める声を片手の一振りで制し、出入り口まで轍を刻む赤い天鵝絨の上を滑るように移動する。
と、前方から韓紅の髪をバサバサかきむしりながら歩む細身の男。
ボルドーの瞳が近づく黒衣に気がつき、不思議そうに一度、二度と瞬かれ、緩々と立ち止まる。
「あん? どうかされましたかっと、主殿」
「適当にあしらっておけ」
すれ違い様に言い放つと、ベルディアースの外套が円形に広がる。迸る魔力の波に一瞬呆気に取られた韓紅の髪の男は、ハッと我に返るとようやく不満の声を上げた。
「はあ? 急にどうし――って、ああ! 理由聴く前に消えちまうとか、マジかよ! 相変わらずの投げやりっぷりっつーか、人の話を最後まで聴かないっつーか……。ったく、残されるこっちの身にもなって欲しいもんだぜ」
ひょい、と肩を竦め歎息する男の耳に再び靴音が紛れ込み、顔を戻した彼の前を颯爽と通り過ぎていく影が一つ。
見覚えのある横顔を捉え、ニヤリ、と口元を緩めた男の手が伸び、彼女の手首を掴む。
「おいおい、アンタもオレを一人ポツンと、こんな寒々しい場所に置いて行くつもりかよ~つれねぇなあ」
「あの方に命じられた任務が、まだ続行中だ。邪魔をしないで貰おうか」
「はあ……。仕事熱心だねえ、ホント。その情熱を、オレ様にも向けて欲しいもんだぜ~」
「寝言は、寝てから並べろ」
「あらま、オレはいつでも本気モードだっつーの」
冗談とも取れるその物言いと共に引き寄せられ、くびれの際立った彼女の腰に男の手が回される。
彼女の翠の瞳が、キッと冷酷な色を灯した。
「……何のつもりだ?」
「ハハハ、わかっているくせに」
ボルドーの瞳が獰猛な獣のような煌きを放ち、スルスルと伸びた指先が、彼女の豊満な胸元を弄り始める。
刹那、彼女の手の甲が虚空を裂いた。
おっと、小さく叫んだ男が仰け反り、解放された彼女は衣服を正すと、冷たく彼を睨みつけ背を向ける。
「――失礼する」
靴音高く歩み去っていく彼女の凛とした後姿に、ピュ~と口笛が鳴らされる。男は窄めた唇を元のニヤニヤ笑いに戻すと、両手を頭に絡めながら無人の玉座へと大股で近寄り、ドガッと荒々しく座り込む。
「……フッ、興味ないな」
眉間に皺を寄せ仏頂面を作ると、低く抑えこんだ声色を発する。
片手を上げ、少しばかりポーズを決めていた彼の顔立ちが俄かに崩れていき、ぶっ、堪えていた全てが、口から噴出された。
「全然、似てねぇ~~っ!!」
愉悦の哄笑が謁見の間全体に響き渡り、次の来賓を告げる声さえもかき消す。
一頻り静寂を震わせた後、ケッつまんねぇの、一言が徐に吐き捨てられた。