2.伸ばされる魔手 (2)
タタタ、小走りに駆けながら、スゼルナは手の中の一輪の花を胸元でしっかりと握り締めた。
サマンサの教えでようやく発現できたそれは、彼女の薔薇とは出来も大きさも全てにおいて未熟なものだったが、自分の力だけで生み出した小さな小さな花――。
スゼルナの手に宿った光を吸収し現れたそれに、黄金の瞳はこの上もない喜びを溢れさせ、青緑の瞳は驚きと共にどこか切ない色を湛えていた。
不思議そうに小首を傾げるスゼルナに、サマンサは緩々とベビーピンクの髪を横に揺らし、良かったですね、と微笑した。
(サマンサさん、不思議な人だな……。初めて会ったはずなのに、いろんなことを話してしまった。見た目は冷たい感じかなって思ったけど、すごく――安心感のある人)
じわ、と広がる温かさに、スゼルナは口元を綻ばせる。
そんな彼女から齎された、重要な情報。
(誕生日、だったなんて……知らなかったな)
出会ったのがつい最近、ましてや彼は自分のことを一切語ろうとはしなかった。スゼルナが彼について知り得たことは全て、他人伝いで聴いたようなものだった。
彼の部屋へと続く廊下を、逸る気持ちを抑えながら走り続ける。
(どうして、自分の誕生日を憎んでいるの? とても素敵な日なのに……)
響く靴音に合わせて踊る金色のみつあみが、不意に静止した。
黄金の瞳が二度、瞬かれる。その先で、ユラリとアッシュグレイの髪が靡いた。
「あなたは……っ」
何度目になるだろう、脳裏に蘇る、彼と見知らぬ女が口付けを交わす場面。その女が、目の前の女に重なり、スゼルナは驚きと不安に瞳を揺らした。
そんな彼女の爪先から額に至るまで、マゼンタの瞳が値踏みをするように上下する。その視線の居心地の悪さに、思わずスゼルナは顔を顰めた。
フッ、女の唇から漏らされる見下したような笑み。
「こんな貧相な小娘に、この妾が後れを取っているなどと、ありえるはずがないわ。そうよ、あの女、勝手な憶測ばかり並べ立てて、妾を陥れようとしていたのよ。アハハハハ、虫唾が走る」
「……何を、言っているの?」
「ねえ」
艶めいた声が、スゼルナの耳を撃つ。
「お前という存在がなければ、あの方の御心に乱れが生じることはなかったのよ? 冷徹な美貌、膨大な魔力、何もかも深遠へと導くカリスマ、一度味わえば虜となる絶技、あの方の全てが妾のものだった――。なのに……!」
憤怒に燃えるマゼンタの瞳に射抜かれ、スゼルナは無意識に後退していたことに気がついた。
下げていた足を踏み留めると、顎を引き迫力負けしないようにと全身に力を籠める。
「あなたは、あの人の――なに? あなたとあの人が、その――キスしているところを見たんだ。どういう関係か、教えてくれる?」
「ハッ、人間の小娘ごときが、あの方の妃気取り? あの方を碌に満足させられない愚鈍な存在のくせに、笑わせるんじゃないわよ!」
「つっ!」
刹那。ヒュン、風を斬る音に、スゼルナは反射的に身体を横に倒した。
疾る鋭い痛みに黄金の瞳が細められ、弾かれたように伸ばした指先に、ヌルリとした感触が伝わる。
白磁の頬に刻まれた紅の轍、それを見とめたマゼンタの瞳が狂喜を孕んだ。
「たっぷり甚振ってから、最高に愉しい地獄へ、蹴落としてあげるわ……!」
女の手元がしなやかに波打ち、そこから伸びた鞭がスゼルナに襲いかかる。
その動きに併せるように膝を折り、一瞬にして間合いを詰めると、スゼルナから女の足元を払うような回し蹴りが放たれ、慌てて後退した女に、ダン、一際強く響く踏み込みの音。
ガッ、重い衝撃が交差した腕に直に伝わり、耐え切れなくなった女の均衡が崩れる。
それを狙って、更に畳み掛けるようにスゼルナの身体がクルリと回転し、横からの蹴撃が虚空に軌跡を描いた。
「くうっ、人間風情がなめた真似を……!」
構えた鞭の持ち手にスゼルナの一撃が受け止められ、近づく金色とマゼンタの色。
複雑な感情を滲ませる黄金の瞳の前で、屈辱と怒りに塗れたマゼンタの瞳が挑戦的にクッと歪む。
「お前が、あの方をどれほど想っているか知ったことではないけれど、あの方は、妾を求めてくださった――」
「! そんな、こと……!」
「それがどういう意味を持つか、そのちっぽけな頭でも理解出来るでしょう? アハハ、お前はもう、用なしなのよ……!」
「っ」
躊躇いを滲ませるトパーズの瞳の中で、マゼンタの双眸が妖しく煌く。
フワッ、俄かに充満する甘ったるい香りに、全身を絡めとられるような錯覚。
瞬間、スゼルナの細身が後ろへよろめくようにグラリ、と傾いだ。突如として霞む視界に、朦朧としだす意識。
「これ、は……、一体……っ」
「言ったでしょう? 最高に愉しい地獄へ、蹴落としてあげるって……!」
何が起きたのかわからぬまま、女の高笑いを徐々に遠くに感じながら、スゼルナはその場に昏倒した。
空虚な廊下に、規則正しいヒールの音が木霊する。
と、翠の瞳に何かが映り、彼女はゆっくりと立ち止まった。
「花……?」
腰を屈め、拾い上げたそれは小さな可愛らしい一輪の花。
「なぜ、このような所に?」
見渡してみるが、目に飛び込んでくるのは変わらない闇の静寂。
外から流れ入ってくるような窓や扉も周辺にはなく、飾られている花束もない。この場所には、どう考えても不釣合いなその存在。
疑問が浮かぶが、それに対する答えは得られないと判断した彼女は、それを指に摘んだまま、命じられた捜索を再び開始した。