1.太陽の翳り (3)
バタン! 扉の開閉と、徐々に小さくなっていく彼女の足音。
それがかき消えると同時に、彼の利き腕が虚空を薙ぎ払った。そこから発生した黒い衝撃波を受け止めたのは、部屋に一つしか存在しない、薄らと光明が差し込む窓。
派手な破壊音に、ガラスの破片たちが淡い煌きと共に舞い散る。
すぐさま肌に纏わりついてくる外気に濡れ羽色の長髪を揺らされ、ベルディアースの剣呑な翠の眼差しが更に鋭さを増す。
ギリッ、今にも響いてきそうなほどに奥歯を噛みしめると、彼は大股で出入り口へと歩を進めた。
と。部屋の中央辺りに差し掛かった頃、不意に耳を掠めたノック音に黒衣が静止する。
「入れ」
酷く抑揚のない許可に、ゆっくりと反応が生じる。
現れたのは、結い上げたアッシュグレイの髪を幾筋も肩や背中へ垂らし、マゼンタの瞳に熱を燻らせ、魅惑的な唇に挑戦的な弧を描いた女――。
彼女を見とめた翠玉が、一瞬で不快に彩られる。
「……何の用だ、ラミルベイア」
「もちろん、先ほどの続きを、ですわ。途中で、余計な邪魔が入りましたもの……。さあ、邪王神陛下。今日の良き日――妾が、精一杯にご奉仕させて頂きますわ」
踵の音を響かせながら近づき、スッと黒衣に女の指先が這わされる。それが彼の胸元にまで伸びた瞬間、その手首が掴まれ彼女の身体が傾いた。
アッシュグレイの髪が黒衣に吸い込まれていき、彼の掌が有無を言わさず彼女の乳房を鷲掴む。
「あんっ、そんな性急ですわ」
色味を含んだ吐息が漏れ落ち、ベルディアースの瞳が細まった。口唇が、静かにラミルベイアの首筋を伝い、彼女がうっとりとした眼差しを向ける。
「ん……、やはり貴方は、あんな貧相な小娘ではなく妾のことを――」
「…………」
回された女の両腕の中で、ベルディアースの眼光が鋭利に煌く。
彼の指先が緩々と上昇し、露になったままの鎖骨を掠め辿り着いた先は、首元。ググッ、と柔肌に食い込むように強まる拘束に、彼女の恍惚とした表情が俄かに苦悶を滲ませ始めた。
「な、にを……っ」
と。
「お探し致しました――、陛下」
突如として割り込んできたハスキーな声音に、ベルディアースの一瞥がそちらを捉える。
開かれた扉に佇んだ、肩にかかるくらいの、癖のないストレートな翠の髪に覆われた婀娜な美しい女。その顔立ちの中心には、翠の輝石。同じ光彩の二対の瞳が、虚空で静かに絡み合った。
彼女の翠玉には、見咎めるような色合い。
「……」
「先ほども申しましたように――例の件、お支度の方をお願い致します。あちらの方々を、随分と待たせておりますので」
「……興味ない、と言ったはずだが?」
「承服しかねます。これは年に一度の――いわば、貴方にとっては責務のようなものですから」
彼女の澱みない受け答えに、ベルディアースはフン、と鼻を鳴らした。
徐に、目の前の表情を強張らせたままの女を引き寄せ、耳元に唇を近づける。
「……命拾いをしたようだな」
囁かれたのは、ゾクリと全身を震わすほどに冷酷な、それでいて甘美に艶めく低い声色。
ラミルベイアの相貌が、一瞬にして硬直を見せる。
掴んでいた首ごと女を無造作に横へと放ると、ごほごほ、咽るように咳き込む彼女を尻目に、ベルディアースは黒衣を翻らせた。その背が、すぐさま同色の外套に覆われる。チラリ、と視線を這わせれば、翠髪の女。
一つ歎息を落とし、顎先で彼女を呼び寄せる。
「解っていような?」
「御意」
「――足取りを追跡しておけ。絶対に、逃すな」
「仰せのままに」
去り行く黒衣の背中に、彼女が深々と腰を折った直後。
ベルディアースの姿は、周りの風景に溶け込むようにかき消えた。
バサ、アッシュグレイの髪が、後ろへ振り払われ、大仰な吐息がつかれた。
マゼンタの瞳が憤怒に彩られ、視線の先の女を睨みつける。
「――一度ならず二度までも、お前に邪魔をされるとはね。恥知らずにも、程があること」
「恥知らず、だと? それはお前の方ではないのか、ラミルベイア」
翠の髪が揺れ、皮肉のような笑みを刻んだ紅唇が、言葉を継ぐ。
「あの御方は、つい先日正妃をお迎えになった――それは周知の事実のはず」
「ハッ。正妃ですって? あんな人間の小娘ごとき、誰が認めるものですか」
腕を組み、嘲笑を浮かべながら吐き捨てると、ラミルベイアの面が一転し、うっとりと夢見るようなものへと変わる。
「それに、あの方は妾を求めてくださった――。それは即ち、あの方を満足させられてはいないという、何よりの証拠でしょう?」
「本気でそう思っているのか? 私の目には、お前があの御方に命を刈り取られようとしている――そんな風にしか映らなかったがな」
「……!」
「むしろ、感謝して欲しいものだ。結果的に――とはいえ、助けてやったのだからな」
見開かれたマゼンタの瞳にそう言い残し、翠の髪の女は踵を返し、歩み去っていく。
一人残された女は、沸きあがる屈辱に両肩を小刻みに揺らしながら、ふと脳裏を過ぎった金色に、拍子抜けをしたような面立ちを浮かべる。それが緩やかに、高慢な色を灯し始めた。
「そうよ、元はといえば――」
眼差しが酷薄に歪み、ユラリ、と女の身体が仰け反る。
その思考の中で展開される、悦びの宴。主要なのは、怯えたようにこちらを見上げる二つの黄玉。
「アハハハハ、思い知るがいいわ……!」
そう言い放った唇が、ニィッと大きく残忍な弧を模った。