2.運命の邂逅 (1)
消える、消える――儚い、泡沫の夢たち。
2.運命の邂逅
「……奴らが、攻めてきた」
開口一番に告げられたのは、その言葉。
サッと、その場に緊張が疾る。村の奥に位置する村長の邸宅に併設されたホール、そこに集められた村人たちが知ったのは、衝撃の内容と村を守護する戦士団の長であるヨシュアを筆頭とする何名かの負傷。
ざわめきが伝染し、元々の不安も相まってか、あっという間に広がりを見せる。それを制するように、静かな威厳に満ちた声音が響き渡った。
「いつかはこの日が訪れるだろうことは、皆も知っておったであろう。闇の世界に身を置く魔族と魔物たち――。1000年の昔に我らが先祖、光の神オルティス様たちが封印を施され、一度は平和が訪れたこの世界を再び手中に――そう思っているのやもしれん。だが、恐れることは何もないはず。我らには、オルティス様の加護がある。戦士団も後れを取りはしたが、剣聖と謳われた血筋、まだまだ衰えてはおらん」
力強いその物言いは、周りに安堵と落ち着きを与えていく。だが、物陰で祖父の横顔を窺っていたスゼルナの表情は蒼白だった。
(ヨシュアが、怪我をしたの……?)
ヨシュア。オルトの村の戦士団を束ねるリーダーであり、スゼルナにとっては小さい頃から慣れ親しんだ、いわゆる幼馴染の一人だった。その彼が負傷し、この邸宅の一室で看護を受けているらしい。
腰に佩いた長剣、屈強なブレストプレートに身を包んだ、精悍な青年の笑顔が、脳裏に浮かぶ。彼女は身を翻すと、震える唇を噛みしめながら、慌てたようにその場を抜け出した。
緩々と開かれた扉から差し込む明かりが、窓脇に備え付けられた寝台に細い筋を刻む。光明が一瞬だが翳り、スルリと身を滑らせるように部屋の中へと入り込む影が一つ。彼女は足音を忍ばせながら、寝台の方へゆっくりと歩み寄った。
「ヨシュア……?」
確認をするように小さく呟くが返事はない。徐々に朧げだった輪郭が明確さを伴って視界に映る。彼は、仰向けに横たわっていた。血の気の引いた顔、カサカサに乾燥した唇、固く鎖された双眸、それはまるで――生を終え、ただ残されただけの肉塊のようで。
ドクン、と胸を撃つような衝撃。戸惑いながら伸ばされた指先に、微かな呼気が触れた瞬間、スゼルナは脱力したようにその場に崩れ落ちた。
「よかった、私の……気のせいだった」
一つ安堵の息を漏らし、寝台の端に手をかけ立ち上がると、改めて彼を覗き込む。確かに顔色は悪いが、よくよく見れば、掛け布が規則正しく上下している。怪我の具合はそこまで詳細に察することが出来ないものの、とりあえず命に別状はなさそうだった。
早とちりもいいところだね、と苦笑を浮かべると、スゼルナは彼を起こさないように細心の注意を払いながら、そっと部屋を出た。
オルトの村周辺には、鬱葱とした樹海が一面に広がっていた。どこまでも深奥へと続くその森は、ただ静かに、だが確かな存在感を持ってその場を支配していた。それはまるで村の存在を人目から避けるように、隠すように、そして護るように。
薄暗い中で、木の間から入射した月光に照らされた金色のみつあみが軽やかに跳ねる。
「ふぅ……」
右手で額の汗を拭うと、スゼルナの口から吐息が滑り落ちた。その手には、青々とした草の一株。
裂傷に効くもの、体力回復に有用とされるもの、各種病気に効能があるもの――彼女の周りには、それこそありとあらゆる種類の草花が生い茂っており、彼女はその中から実用性がありそうな薬草を選んでは摘み取っていた。
戦いに備えて、祖父が彼女に依頼したのは薬や包帯の確保。本来なら、家の周りで栽培している薬草だけで賄えるのだが、重傷を負ったヨシュアのこともあり、こっそりと森の奥へと踏み込んで効き目の強そうな薬草を探し回っていたのだ。
「これだけあれば十分だろうし、そろそろ村に戻ろうかな? 少しでもみんなの、ヨシュアの役に立つといいけど……。……? あれ、この臭いは……」
微かに鼻腔を突いてくる、嗅ぎ慣れないその独特な錆びた香りに、スゼルナの両の眉が顰められた。視線が、村へと続く道とは反対側に向けられる。その先には、滾々と湧き出る泉があったはず。
一瞬躊躇ったが、スゼルナは地面に置いてあった籠をギュッと握りしめると、そちらへ歩みを進め始めた。
チョロチョロチョロ、水の音が聞こえてくる。
次第に濃くなる錆びた香りに、嫌でも緊張が増していく。スゼルナの籠を持った手が、無意識に強まり――瞬間、視界が開けた。
岩陰から流れ落ちる水流、それを受け止め静かに横たわった泉。その周りを彩る草々。青と緑のコントラストが仄かな光明を得て、まるで幻想のように広がっていた。
小さく感嘆の声を上げながら、トパーズの瞳をゆっくり巡らしていた彼女の表情がある一点を捉えた途端ギクリ、と固まった。
泉の傍すぐ近くの大木に、誰かがよりかかるように倒れている。黒い衣服に包まれた中に、目にも鮮やかな紅――先ほどから感じて止まない、大量の錆びた香りの正体。
ドサッ手に持っていた籠が、支えを失い落下する。
「大丈夫ですか!?」
安否を確認しながら、慌ててスゼルナはそちらへ駆け寄った。徐々に倒れている者が明確になる――と、突然、彼女は立ち止まった。
「え……っ」
驚愕に、両瞳が見開かれていく。
「あなたは――」
知らず、呟かれる言葉。
優しい風が、音もなく吹き抜けていく。それに導かれるように、大木の根元から幾筋もの黒糸が舞い上がった。
「誰……?」
艶のある黒い髪、鎖されたままの双眸に歪められた端正な顔立ち、長身だろうその身を大木へと預けた黒衣の見知らぬ男――わからない、記憶の中にも存在しない。なのに、この残滓のような既視感は一体――黄金の瞳に戸惑いの色が浮かんだ。
「そ、そうだ。傷、傷の具合は――っ」
男のすぐ前方に両膝をつき、スゼルナは恐る恐る両手を彼へと伸ばすと、患部に障らぬよう慎重に彼の黒衣をそっと肌蹴させた。
微かに動きを見せる胸から腹部の辺りに刻まれた、斜めへと疾った斬撃痕。それらはいっそ鮮やかとも思えるほどで、相当な技を有していないと出来ないだろうと、容易に推測できた。
彼女の表情が、一瞬にして翳りを見せる。
「ひどい、怪我……」
遠目にも深手だとは感じていたが、間近で見るとその凄惨さは言葉を失うほどだった。
(魔法、治癒の精霊魔法は……)
考えて、スゼルナはすぐに否定の意味を込めて首を振った。
(駄目。私の能力じゃこんなに深い傷、完治は無理だ……。この人にも負担になってしまうかもしれない。それじゃあ――)
視線が注がれたのは、取り落としてしまった自分の籠。
スゼルナは自分の衣類の端を引きちぎり、傍を流れる泉の水へとそれを浸すと、そっと男の裂傷へと押し当てた。
「……っ」
男の口から、小さな呻き声が零れ落ちた。ビクリ、とスゼルナの肩が震え、その黄金の双眸が驚きに揺らめく。手を凍りつかせたまま、彼女はじっと様子を窺った。