9.泡沫の契り ~エピローグ~
湯浴みを終え、用意されていた衣服に袖を通す。
フワリ――波打つような裾が揺れた。後ろ側は踵近くまで伸びたシルエット、それが緩くカーブを描き短いレースを織り交ぜながら、前面は膝上丈のショートラインのドレス。
もう一つ傍に置かれていたものを手に取った彼女は、眉根を寄せながら、不思議そうに小首を傾げた。
9.泡沫の契り
鏡合わせのようなダークレッドの輝きが、お互いの耳をそれぞれ彩る。そっと指を伸ばし触れ合えば、確かに感じるその存在。もし仮に離れることがあっても、また廻り逢える様に――繋がれた鎖、のような証。
静かな空間だった。若干の光明が幾つか存在するものの、重い闇夜が支配する薄暗い黒の世界。一際高く設けられた段差の上には、豪奢な玉座。悠然と腰を下ろし、片肘を腕置きへと据えた体勢の彼と、その両腿の間に割って入るように膝を立て、彼の両肩で身体を支えながら彼へと視線を注いでいる彼女。黒一色に塗りつぶされたその世界に、不釣合いな金色の波が煌く。
「ねえ、ディアルク」
「……?」
「あの人は――ラグルさんは、どうなったの?」
「……彼奴のことが気になるのか?」
スッと不機嫌さを醸し出すように細められた翠の瞳に、慌てた金髪が横に振られる。
「そ、そんなんじゃないよ! ただ――。利用されたとはいえ、あれから姿も見かけないし、どうしたんだろうなって思って……」
「フンッ。叛徒の行方など、俺が知るわけなかろう。上手く逃げおおせたのか、それとも空の藻屑と化したのか――どちらにしろ興味はないがな」
不意に長い指先が絡められたのは、彼女の白い頬。黄金の瞳が驚きに揺れ、僅かに身じろぎをしながら、彼女もまたその掌を包み込むように手を添える。と、彼のすんなりとした口元が動きを見せた。
「――俺と契りを交わせ、スゼルナ」
「え……っなに、突然……。契りって――結婚のこと?」
思わず頓狂な声が、彼女から飛び出す。彼の言葉を理解し困惑に揺れる黄金の瞳が、彼の妖艶な微笑を照らし出し、小刻みに震える唇が彼の名を零れ落とした。
「……本気? ううん、あなたが冗談を言うなんて思えないけど……。じゃあ、もしかして、ドレスと一緒に置いてあったこのベールは――そういう意味だったの?」
スゼルナの問いに、ベルディアースは無言のまま、漆黒のベールごと彼女の金糸を撫でる。その所作に、黄金の瞳が柔らかさを帯びたが、すぐに不安そうな光を灯す。
「――でも、昨日会ったばかりなんだよ? 私達」
「刻の長さなど関係ない。重要なのは、この世界でのおまえの地位の確立と――いや」
クスリ、と笑みが漏れ出し、切れ長の翠の瞳が色香を帯びる。
「芳醇な美酒に酔いしれさせて貰った、その礼とでも言っておこうか」
「お酒……? 私、そんなの贈った覚えなんてないよ?」
きょとんした表情でそう返す彼女に、彼は口角を更に吊り上げ弧を深く刻むと、露になっている彼女の首元、光沢のある黒に包まれた小ぶりな双丘の間、そして腹部へと順に指を這わせ、最後に、彼女の戸惑うトパーズの瞳を面白そうに覗きこんだ。
意味ありげに美しく輝くエメラルドに射抜かれ、彼女の白磁の肌が、見る間に薔薇色に染まっていく。熱を放ち始めた彼女の耳に溶けこむように響くのは、彼の愉悦に満ちた笑い声。
「初めて会った俺の腕の中で、あれほど激しく乱れたのだな、おまえは? ククッ……随分と淫乱なことだ」
「……! あ、あれは……っ!」
言葉に詰まり、彼女はこれ以上ないくらいに赤面しながら俯くと、今にも消え入りそうな声音で呟く。
「――あなた、だったから」
「ほお……?」
翠目が、スッと細められる。それを視界の端に捉えながら、彼女は右耳へと指を伸ばした。艶やかな黒糸の中で、その片割れが同じ煌きを放つ。
彼女の口元に、微笑が浮かんだ。
「――あなたになら、このまま流されてもいいかなって、そう思ったから。理屈なんてわからないよ? あなたのことを知っていたのか、それすらも思い出せないけど……。けどね、自分でも不思議なくらい、あの一瞬で、あなたにどんどん惹かれている私がいた。それに――……」
(声が、同じだったから……)
囁かれた言葉。記憶の片隅に残されていた言葉。いつどこで聞いたのか、全く覚えはなかったけれど。
「……ならば、迷う必要はないはずだ」
お互いがお互いの存在を瞳の中に映しこみながら、やおら彼の手が差し出したのは銀の杯。それに満たされた赤紫が、ユラリと揺らめく。
(まただ……。また、見たことのあるような光景――)
なぜだか既視感の疾るその場面に、掌が翳される――瞬間、彼の指が動きを見せた。同時に、宙を舞う鮮やかな紅色の残滓。それは、滑り落ちるようにグラスの中へと溶け消えていく。
(ちょっとだけ、怖い、な……)
ギュッと胸の前で握られていた彼女の片手が、彼に攫われる。不安に波打つトパーズの先で指を覆われ、無防備になる手の甲にそっと落とされる口付け。その行為に、彼女の緊張の糸がほぐれ始めた頃、彼のエメラルドの双眸が妖しく輝いた。
刹那、襲う激痛に彼女の唇から小さな悲鳴が零れる。黒の世界にくっきりと浮かび上がるその鮮やかな彩り。それはゆっくりと轍を刻みながら、彼女の手を這い伝い――赤紫の海と一つに混じりあう。
(あなたを信じてもいい……? これから先――何が起こったとしても、私の居場所はあなたの傍。ずっとずっと一緒だって……)
一呼吸の後にグラスに長い指先が絡められ、静かに唇がつけられる。彼の喉がそれを静かに飲み下すのを、まるで他人事のように眺めていた彼女の前に伸ばされる、その――二人の紅を内包した赤紫の杯。 緩々とそれを受け取ると、彼女は口元へと運んだ。
(あなたが好き。でも、どうしよう……。このままじゃ、気持ちが強すぎて――)
鼻腔を擽る独特なその香りに、僅かな眩暈に襲われる。彼女は吐息をつき目を瞑ると、両手で包んだその杯の中身を一気に呷った。
――黒のベールが、ユラリと揺れ動く。
口腔へと一瞬にして拡がる慣れない強い風味に、彼女の気管が過敏に反応を示した。咽ている内に、飲み干しきれなかった赤紫色が、筋となって彼女の唇の端から流れ落ちる。それは、あどけない彼女の面立ちに艶やかな華を添え――それに引き寄せられた彼の口唇の中へと吸いこまれた。
(あなたに全部、囚われてしまいそうだよ……)
間を置かずに重ねられる熱と甘美な陶酔に、意識さえも奪い去られる。閉じられた金の双眸から、溢れ零れる一粒の輝石。
偽りの――だが、本気の恋がゆっくりと、その甘い音色を奏で始めた。
第一幕、閉幕です。
ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました!
第二幕開幕は……、たぶん忘れられた頃に(笑)
嘘です。忘れられない内に、再開したいと思います。
どうしようもないほど煩悩と妄想が溢れまくった内容に、ただただ羞恥が込み上げてくるばかりですが、少しでも楽しんで頂けたのなら、これ以上ないほどに嬉しいです。
もしよろしければ、感想等お寄せくださいませ。
それではまた、第二幕以降もよろしくお願いします♪
2010/12/16 りんか・拝