8.廻る歯車 (3)
と、やおら耳を掠める誰かの侵入音。スゼルナの視線がそちらに巡らされた。広がる濃紺色に、見知った面立ち。
「ラグル、さん……」
「ラグニツァール、なぜ貴様がここに……っ」
二人の声が、揃う。思わず顔を見合わせ、驚きを隠せないスゼルナに、ベルディアースはグッと彼女を押し離すと、一歩二歩、と前に進み出た。その足取りは、若干だが覚束ないもの。
「そう、か……。貴様が、元凶だったのか」
「……何のことでしょうか? わたしはただ、貴方がこの廃墟に向かわれたと聴きましたので、ご報告がてら寄らせて頂いただけですよ」
「フン……戯言を。俺の下からこの女を連れ去り、反乱の首謀者に仕立て上げ俺と戦わせる――いや、そもそも、この反乱自体が貴様の仕組んだことなのであろう? 遅々として我が軍の制圧が進まぬのも、貴様が絡んでいるゆえ。そう予測をつければ全てが繋がる。そう、俺を潰すための、貴様の画策にな……!」
冷ややかな台詞に、ラグニツァールは小さく笑みながら首を横に振った。
「潰すだなどとは、穏やかではありませんね、陛下。あれくらいの叛徒、貴方の御力の前ではただの塵でしたでしょう? わたしはただ、色恋沙汰に眩んでしまった貴方の目を、覚まして差し上げたかっただけですよ」
「なんだと……?」
「ちょうど、我が軍の情報を流してくれないか、とあちらから接触がありましたから、それを逆にちょっと利用させて貰っただけです。まあ、こちら側の指揮に任命されたのは、偶然の賜物だったわけですが、非常に動きやすい立場になりましたし、好都合でしたけれど。今頃、本物の首謀者は、わたしの部下たちが討ち取っているはずですよ。それをご報告しに参ったわけです」
藍色の瞳が翠の瞳を見据え、鋭く睥睨される。
「ですが、これでおわかりになったはずでしょう? どれだけ貴方が刻の力を用いて捻じ曲げようとしても、変えられない運命の歯車。変えたと思っても、こうして対峙してしまう宿命――。交わらないのならば、強大になる前に葬り去るのが、一番の良作だということが……!」
「ハッ、笑止。今回のことは、全て貴様が仕向けた事柄であろう? それを運命などと口にするとはな、片腹痛いものよ。――何様のつもりだ、ラグニツァール」
嘲りと共に黒衣から、突き出される掌。一点に集う、黒い粒子。
ベルディアースの黒髪が、ザワリと蠢いた。
「シェザード!」
放たれる、闇の精霊魔法。反動に、刻まれた裂傷が疼き、彼の表情が僅かな苦悶を滲ませ、その横を一筋流れ落ちる汗の玉。
黒い閃光が、貫いた。それを横に半歩移動しながら、かわすラグニツァール。タン、踏み込む音と共に、彼の手にした長剣が虚空に弧を描いた。
「ちっ」
ベルディアースから、苛立ちが吐き捨てられる。
指先を傷口に這わせながら眼光を鋭くする彼を庇うように、金色が揺らめいた。
ガキィン!劈いたのは、金属同士がぶつかり合う甲高い音。間近に迫った黄金の瞳に、藍色の瞳が満足げに細められた。
「接近に持ち込めば、きっと貴女が前に出てくると思っていましたよ」
「何がどうなっているのか、私にはよくわからないけれど……。あなたは、私を利用しただけなんだよね? ラグルさん」
「利用? まさか。わたしの筋書き通りに利用されたならば、貴女は既にあの城で暗殺者の刃の餌食になっていたか、この方の魔法で消し炭にされていますからね。つまりは、そんな価値すらもなかったってことですよ」
嘲るようなその物言いに、スゼルナは驚きを滲ませた。
グッと唇を噛みしめながら剣柄に力をこめると、振り絞るような声を発する。
「あのとき私が襲われたのは、あなたがやったの? どうして、あんなことを……!」
それは、と応えたラグニツァールの口元から冷笑が零れ落ちた。
「貴女が、我々にとっての不具合そのものだからですよ。このまま生かしておいても、何一つ良い方向に転がる可能性はない。ですから、不具合は早急に消去しないと……ね!」
彼の剣に重圧がかけられ、困惑に瞳を揺らすスゼルナに覆い被さる。
片膝をつきながら防戦に回る剣が押し返され、彼女の喉首に薄らと紅の轍を刻んだ、刹那。
ラグニツァールが後退し、スゼルナの眼前を黒の刃が薙ぎ、彼女を黒の外套が覆う。フワリ、と柔らかく温かいその中に、香る懐かしい匂いに、スゼルナは思わず息を呑んだ。
「……貴様の好き勝手には、させぬ」
「陛下、まだわたしの邪魔をなさるおつもりですか!? その女は危険分子――早々に取り除くべき事柄なのですよ! 貴方も、おわかりのはず……! 今回は大した負傷にはなりませんでしたが、もしあの剣を所持していたとしたら――たとえ貴方といえど、無事では済みませんでしたよ!?」
「この女は、我がものだ。どう扱おうが、俺が決める。貴様にとやかく言われる筋合いはない!」
「貴方は――! 貴方は、御身に流れる血に囚われているだけなのですよ!! 貴方の生母、刻の女神エゼルティナ。彼女が生前愛したとされるのは、光神オルティス……。貴方の父君にその能力を見初められ、この地に連れ去られるまで彼女の傍には――!」
「黙れ! 俺は、俺でしかありえぬ! 運命、だと……? くだらぬ! そんなもの、俺がこの手で何度でも覆し、理さえも支配してくれる……! 全ては――俺の意思だ!!」
剥きだしの地肌より噴き出した黒炎が、ベルディアースを中心に渦巻いた。
それらが彼の前で、巨大な波のうねりを作り上げ、一気にラグニツァールの方へと押し寄せる。呑み込まれるほどの高さのそれに、ラグニツァールの顔に焦燥が落ちた。
大きく横に避け、朽ちた椅子たちの間に飛び込む彼に、上空よりの黒い影と閃光が見舞われた。
ギィン、ギィン、響く剣戟の音。
右手に速さを纏わせ、縦横無尽に剣閃が描かれる中、彼女の唇からは独白のような言葉が紡がれ始める。
「私には、やっぱりよくわからないけど――っ」
ギィイイン、一際甲高い音色に混じる、再び迫った黄金と藍色。
スゼルナの表情が、憂いを帯びながらほんの少しだけ――緩まった。
「もし、ね。もし、運命の導きによって、交わらずに何度も対峙することがあったとしても――。次にまた逢えるときが、必ずやってくるってことだよね? その時に――前とは違った選択を出来るかもしれない、そして最後には一番良い道を選べるかもしれないって思うのは、私の勝手な独りよがりなのかな……?」
「……馬鹿馬鹿しい。そんなのは、ただの絵空事――考えの甘い、理想に過ぎませんよ」
「そう、かもしれないね。でも――」
ギィン。俯き僅かに曇っていた表情が、凛としたそれに変わり、ラグニツァールの目を射抜く。
黄玉に宿っていたのは、真摯な想い。
「それでも私は、信じたい。いつか必ず、交わる刻が来るって。そうじゃないと、私がそんな立場だったらきっと――自分を、保てなくなりそうだから……っ」
「スゼルナ!」
後方からの呼び声にスゼルナはハッと我に返ると、手にした剣にグッと力を籠め、押し返される反動を利用して、高々と飛び上がった。
同時に、ビリリと振動する空気と、放電による青い花火の群れ。
「シェザルラード!!」
瞬間、彼女の真下を闇色の波動が突き抜けていった。