8.廻る歯車 (1)
黄金の瞳が、不安げに揺れた。
淡い光が白磁の肌に弾かれ、胸元に薄らと刻まれた黒い文様を浮かび上がらせる。それには気づかないまま、ぴったりと肌に吸い付くような漆黒の衣服に膝までを覆い隠し、その上から薄手の長衣を羽織る。それに繋がったフードを、瞳と同じ色の髪を押し込むように被り、仮面を身につければ――全ての色が抜け落ち、モノクロの世界が彼女の前に広がった。
8.廻る歯車
玉座に腰かけ、仏頂面でその報告を受けたベルディアースは、ますます機嫌を損ねたように美しい眉を寄せた。
その様子に、玉座の前で畏っていた男は、一度身震いすると更に身を縮こませた。
「……続けろ」
「は、はっ……。せ、西方で起きた反乱ですが、周りの諸侯を巻き込みながら規模がどんどん膨れ上がり、前線で指揮を執っておられるラグニツァール卿が何とか抑えこんではいるものの、それもいつ突破されるかわからず――じ、時間の問題だと思われます」
恐る恐る言葉を選ぶように発する男に、ベルディアースはフンと鼻先で笑うと、翠の瞳をすぐ傍へと流した。両目を閉じたままにも関わらず、真っ直ぐ前方を威圧するような横顔を捉え、ベルディアースの口元が不敵に歪む。
「おまえはどう見る、バズ」
「僭越ながら――主よ、どうにも手際が良すぎるような気は致します。反乱が勃発したのは、つい先日。主が、オルトを滅亡させる直前だったかと記憶しているのですが、それにしては、我らの情報網を掻い潜り、かつ、この規模に膨れ上がるまでの根回しにしろ何にしろ、早すぎる。ということは――」
「俺に刃向かう叛徒が、この城にもいると? こちらの情報を流し、それに則した策を練り上げ随時展開する、か。反乱が勃発して、そろそろ一週間ほど経つ――未だに鎮圧できぬとは、凡愚どもよ――所詮は、その程度の力量か。フン、さすがに飽いてきたな。その叛徒とやら、まさかおまえではあるまいな? バズ」
「ご冗談を」
「フッ、まあよい。どちらにしろ、退屈しのぎにはなるか――ん……?」
俄かに騒がしくなった、玉座の間と廊下を隔てた大扉の辺りに、ベルディアースの切れ長の眼差しが向けられる。同時に、バタン、と勢いよく扉が開かれ、駆け込んでくる影が一つ。
「ほ、報告します! この城に敵の軍勢が――ぐわっ!!」
影を一刀の元に斬り捨て、開け放たれた入り口から雪崩れこむように大挙する、黒ずくめの集団。
それを捉えた翠光が、冷酷な切っ先と化す。
「下賎の輩どもに、みすみす侵入を許すとはな。揃いも揃って、役に立たぬ奴らよ」
ベルディアースから迸る、怒りにも似た魔力の奔流。立ち上がろうとする彼を諌めるように、スッと制止の手が入った。
「主が、手を下すほどでもない。ここは、私にお任せ願いましょう。主は、そのままユルリと見物でもなされば良い」
「ほお……。おまえが出るのか、バズ。ならば、つまらぬ余興は要らぬ。俺が欲するのは酔いしれるほどに甘美な、血の狂騒」
「御意」
玉座の上で悠然と脚を組み、片肘をつきながらその手の甲に頬を預けると、ベルディアースは空いた腕を緩々と持ち上げ、艶美な笑みを浮かべる。
それを合図に、恐怖の旋律が逆巻いた。
愉悦を湛え、目の前で繰り広げられる阿鼻叫喚の絵図を眺めていた翠の双眸が、横へ向けられた。それを受け止めたのは、振りかぶられた抜き身の刃。それを手に、雄叫びと共に突進してきたのは、先ほど震えながら報告を行っていた男。
玉座からそちらへ突き出される掌と、謳うように奏でられる死への誘い。
「シェザード」
闇の下位精霊たちが、彼の有する魔力に練り上げられ、凝縮する。瞬間、虚空を引き裂くように放たれる、黒光。直撃を受けた男が、高々と舞い上がった。悲鳴と共に落下した先で、何かが砕ける音がベルディアースの鼓膜を刺激し、彼の口唇が残忍な形に綻ぶ。
床へと這い蹲る男の背に、容赦なく叩き込まれる靴裏と、呻き声が続く。それを見下ろすのは、鎖された両の目。そして、遠くからでも伝わる、強大なプレッシャー。
「さて――とりあえずは、貴様が持ちうる情報を全て話せ」
「何も、知ら……ぎゃぁああ!」
強まる背中の圧迫に、男から苦悶の叫びが漏れた。
足を組みなおしながら、虫けらのように踏み潰されるその男を眺めていたベルディアースの眼光がスッと狭まる。
「誰がそのようなことを口にしろと言った? 俺に刃向かったのだ、それなりの覚悟はあろう? 貴様の下卑た命でも、最後に俺を楽しませることくらいは出来るやも知れぬ――バズ」
「御意」
メキィ、耳障りな音に、絶叫が重なるように劈く。
男の両手が力なく上げられ、か細い声が緩々と放たれ始める。
「……お、おれたちの任務は、邪王神ベルディアースを討ち取ること。上手くことが成せば、莫大な報酬が約束されている」
「フン。それくらい、貴様に言われずとも予測はついている」
「本隊が、魔王軍の戦力をほぼ一手に引き受け、別働隊がその任に当たることになっていた……。おれはこの城の兵になりすまし、別働隊を引き入れる準備と、依頼された通りの報告をする……。おれが知っているのは、そのくらいだ……」
「だから、どうした? その程度しか知らぬとは、所詮、ただの捨て駒か。ならば、貴様にもう用はない。消えろ」
真っ直ぐに突き出された黒衣の腕に、出現する黒い焔。それを目にした男の表情が、見る間に蒼白に変わっていく。
「ま、待ってくれ! わ、わかった。お、おれたちのリーダーは――首謀者は、ここからちょっと西に行った所にいる、と聞いたことがある……。昔、隠れ信徒たちが、ひっそりと刻の女神を祀っていた、あの場所だ……」
それまでは苛立ったように受け答えをしていたベルディアースの柳眉が、そこで初めてピクリと動いた。男の示した場所を、鸚鵡返しに呟く。
「ほお、それは面妖な。誰が首謀者なのかも知らずに、貴様らは俺に刃向かった、と? フッ、実に滑稽なことよ。欲に目が眩んだ、俗物どもが」
黒の外套が、宙に流された。
カツカツカツ、靴音を響かせ、全てが緋色の絨毯へと変わった床を、黒衣が滑るように移動する。
「主よ、どこに向かわれるおつもりか?」
「フン、この俗物どもを飼い慣らした首謀者とやらに、興味が湧いた。どんな輩か、この目で確かめてやる」
「供は?」
「必要ない」
「この者の処遇は?」
「好きにしろ」
「御意。残党の処理も、私にお任せを。お気をつけて」
再び歩み始めた黒衣の後ろで、拉げ押し潰される音と断末魔の叫び。
その二重奏を心地よく耳にしながら、ベルディアースは凄艶な微笑を面に張りつかせると、バサリ――黒の外套を翻らせた。