7.記憶の代償 (4)
開け放たれた両扉から、悠然と歩み始める黒衣の長身。緋色に染められ、金糸で縫い取りがされた天鵝絨の織物が敷かれた先には、一際高く設けられた豪奢な玉座。
彼が通り過ぎた両脇に、続々と現れる黒い影。それが徐々に連なり、彼が玉座へと腰を下ろした頃には、その数は三十近くに膨れ上がっていた。
「――報告を聴こうか」
片肘をつき、翠の視線を見下ろすように周りへ流す。
と、それに促されるように、一人の男が一歩前に進み出た。
「では、まず私めから。人間界への侵攻に関してですが、こちらの戦――」
「下がれ。次」
「北方での徴兵ですが、思った以上に集まらず、難航しており――」
「フン……そのような些事、貴様が何とかしろ」
「珍しいアルーンダイトという宝石を入手しましたが、どのように――」
「俺に相応しい代物に、仕上げてみせよ」
「では、本日の予定ですが、まずはノ……」
「全て、白紙に戻せ。気が乗らぬ」
若干苛ついた風な低音が、飛ばされる。
沈黙の落ちた、張り詰めたような緊張。それを破ったのは、玉座から最も近い所から上がった、重く響く声だった。
「――金色の髪をした娘を、城内で見かけた者が幾人かいたようですが、心当たりは? 主よ」
「さあ……知らぬな。だが、金色とは珍しい。その話が本当ならば、一度この目で見てみたいものよ」
「この城に、そのような色合いの持ち主はおりませんゆえ、記憶している者が何人かいたようです。信憑性はそれなりに高いかと。最後に目にした者が申すには、城門を抜け、逃げるように姿を眩ました、とのこと」
「ほお……」
ベルディアースの翠玉が、微かな剣呑さに鋭さを帯びる。
「いかがしますか?」
「捨て置け。俺の城から逃げ出すような腰抜けに、用はない」
フッと嘲笑を浮かべ徐に立ち上がると、緋色の絨毯の上に足を踏み出す。
黒い影たちが、一斉に低頭する。その間を通り抜けながら、ベルディアースはスッと姿を消した。
「逃げ出した、だと? この、俺から……!」
掌に顔を埋め、呻くような声音を漏らす。長い指と指の間からは、冷酷に光る鋭利な翠の刃。
と、その腕が横から伸びた手に攫われ、不意に覆われる唇。小さく驚きを滲ませた翠目が映したのは、欲して止まない金色の少女――ではなく、一人の女。
豊満さを強調するように広く開いた胸元、スリットから覗いた素足はスラッと細く、煽情的なもの。ベルディアースの秀麗な面から、全ての感情が消えた。
「……何のつもりだ」
ゆっくりと身体を離す女の双眸を冷たく見据え、ベルディアースはゾッとするほどに低い声音を投げつけた。
女はスッと眼差しに情炎を燻らせると、艶やかな笑みを口元に描く。
「おわかりのはずでしょう? いつものお誘いに」
「なに……?」
「邪王神様、オルトを滅亡させて以来、こちらには全くお顔を見せてくださらないんですもの。それまでは、あれほど強く熱く妾のことを可愛がってくださっていたのに」
「…………」
柳眉を僅かに跳ね上げ、目線を細める彼の黒衣に顔を寄せ、その温もりと強靭な胸板に嘆息しながら、女はうっとりとした眼差しで告げてくる。
「ああ、堪らない。この身体に、腕に包まれ何度も味わうあの快感。ねぇ、邪王神様。妾と楽しみましょう? いつもの様に妾を、貴方の世界へと誘って? 貴方が望むなら、今この場ででも――」
女の両手が、彼の腕から緩々と移動し指先に絡みつくと、はちきれんばかりに実った双丘の片割れへと導く。
生地越しに伝わる掌の感触に、女の身体が悦びに震えた。
「はっん……っ」
「…………」
「邪王神様、早く、早く妾を――っ」
伸ばされた両の腕がベルディアースの首元に回される――瞬間、恍惚としたその表情が彼の目の前で不自然に拉げ、そして弾け散った。鮮烈な緋色が、肉塊の破片が、僅かに饐えた臭いが混ざり合う。
目の前を冷徹に見下ろしながら――もう既に、女の顔さえも思い出せないが、彼の唇が嘲笑を刻む。
「……興味ない」
短く吐き捨て、何事もなかったかのように歩みだす。
――そしてこの日も、彼女の姿を捉えることは出来なかった。