7.記憶の代償 (2)
薄暗い室内に差し込んだ光に晒され、凶刃が煌く。振り上げられたその下には、眠りに落ちたままの少女。その睫が、ピクンと揺れた。
「ん……?」
緩々と持ち上げた視界に鈍い輝きを映し、反射的に横へと身体を転がせば、ドスッ掠める物音に、スゼルナは表情を凍りつかせたまま、目を見開いた。
「なに……!?」
突然のことに困惑する思考がヒュン、続けざまに放たれた斬撃に霧散する。スゼルナは後方に身を捩らせ避けると、手の力だけで寝台から離れる。
舞い散る羽毛の中、ひっそりとその場に佇む影。上から下まで黒ずくめのその姿が、再び刃を閃かせながら、彼女へと肉迫した。
風を切る音が、断続的に放たれる。それらを全て、自分の身体が動くままに流れるような動作で捌いたスゼルナの爪先が、体勢の崩れた相手の隙を狙い、うなりを上げながら宙に軌跡を描いた。
ゴ……ッ痛烈な一撃に、黒ずくめが吹き飛ばされる。
「痛……っ」
素足に直に響いた衝撃に右の脚が悲鳴を上げ、スゼルナは思わず蹲りかけながら、目の端に映ったブーツを掴み手早く履くと、身を投げ出すように床を滑る。彼女がいた場所へと容赦なく振り下ろされる、銀の剣閃。
短く息を漏らしながら、スゼルナの眼がすぐさま左右へと動き回り、目当てのものを捉えるとそちらに駆け寄る。急いで扉を開け、部屋の外へと飛び出した彼女の前に広がったのは、見慣れない黒一色の廊下。
両脇を黒曜石で作られた柱が連なり、照明さえもまともにない、まるで闇へと回帰する沈没船のようなその場所――ひんやりと冷たい雰囲気に背筋が凍りつくが、グッと拳を握ると、彼女はその中を走り出した。
カンカンカン――不気味に響くのは、彼女が奏でる靴の音。
(今のは、誰? 私を、狙っていた……? どうし――えっ……?)
やおら、彼女の足が静止した。握っていた拳を、緩々と胸の前に移動しながら、黄金の瞳を揺らす。
「何も、思い出せない……? そんな、どうして? 私、私の名前は、スゼルナ……」
すんなりと記憶が応えてくれたのは、その四文字だけだった。どこの出身か、どうしてこんなところにいるのか、肉親や友人の有無さえも、どこかに置き去りにしてしまったかのように、何も情報が残されていなかった。
スゼルナは、両手を金糸に絡めながら、ふるふる、とかぶりを振る。と。
『――……ている、スゼルナ』
「え……?」
俄かに耳の奥へと侵入してきた低い囁き声に、スゼルナは弾かれたように慌てて辺りを見渡した。金色の双眸に映るのは、変わらない漆黒の闇。
気のせいにしては、深く深く刻まれたその甘く切ない響きに、戸惑いが浮かぶ。
「今の、声は……。……っ!」
不意に後方で気配を感じ、スゼルナは右前方へと低く跳躍した。片脚の軸を回転させ、すぐさま反撃の態勢に移る――身体が覚えている、自衛技術だった。
細身が、虚空を踊るように翻る。金色の眼光が鋭くなった瞬間、ガッ、轟く痛烈な打撃の衝撃と、金属が叩きつけられる甲高い音。
「ぐ……っ」
黒ずくめの奥から放たれる、呻き声。それに聴覚を攫われながら、スゼルナの指先が床に転がった長剣の柄へと伸びた。掴むと同時に、白光が斜めに疾る。空を凪いだだけに終わった刃を引き寄せ、重心をコントロールすると、距離を置こうとする相手の懐に素早く踏み込む。再び閃く、軌跡。刹那、その跡を辿るように鮮血が舞った。
返り血を浴びないよう後方へ飛び退るしなやかな体躯に、よろめく黒ずくめから幾本の短刀が投げられた。それは狙い違わず、スゼルナの着地するだろう位置へと疾駆する。
彼女の柄を握る手に力が籠められ、瞳の鋭さが増した。
「エフォード」
廊下に木霊する、凛とした声。ハッと意識がそちらに向いた途端、スゼルナの視界が紅蓮に染まった。それに包まれ、炭化していく短刀の群れ。
タッ、軽やかな音と共に彼女は床へと降り立った。何が起きたのか理解出来ずに呆然と凝視していた黄金の瞳から、紅色がフッと消失する。
後に留まっていたのは、暗闇に沈む静寂と濃紺色を身につけた一人の男の姿。
カラン、長剣が零れると同時に、彼女は脱力したようにその場に崩れ落ちた。はあ、と大きく息を吐き呼吸を整えると、強張った顔立ちのまま、少しだけ口元を緩める。
「誰だかわかりませんけど、ありがとう、ございました」
「…………」
無言のまま近づいてくる相手に、スゼルナはそちらを振り仰ぐと、次に浮かべたのは屈託のない笑顔。それに返されたのは、怪訝そうな表情。小首を傾げながら、もう一度礼を述べると、スッと手を差し伸べられる。
「いえ、お気になさらず。ちょうど、貴女が襲われている場面を目にしたものですから、つい。ですが、あなたの剣の腕は確かな様子。余計な手助けだったかもしれませんね」
「そんなことないです! 無我夢中だったし、自分でもどう剣を扱ったか、よくわからなくて……」
躊躇しながらも、彼の手を取り立ち上がるスゼルナ。
不安を覗かせる黄金の瞳に一つ頷きながら、彼の口元には微笑が浮かぶ。
「そう、ですか。貴女のお役に立てたのなら、本望ですよ。それよりも――覚えてらっしゃらないのですか? わたしのことを」
「……ごめんなさい。あなたは、私を知っているんですか? 私……、記憶がはっきりしていなくて、今は自分の名前くらいしか思い出せないんです」
顔を曇らせ、項垂れるスゼルナ。
そんな彼女を、冷ややかとも取れる眼差しが見つめる。それを、ゆっくりと下から上に這わせながら、やおら漏れたのは深い嘆息。
「やはり、あの方の刻を破壊する力――か」
「え?」
「こちらのことです。ところで、貴女はどうしてこんな所に? ここは、とても危険な地――さきほど、あなたも身を持って理解したとは思いますが、貴女のようなか弱い女性には、不釣合いな場所ですよ?」
「私にも、どうしてこうなったのか、全然わからなくて――。目が覚めたら、突然刃物を持った黒ずくめの人に襲われて、逃げる途中だったんです」
「……なるほど。仮に貴女が命を狙われる立場だったとしても、記憶がないのならば確かめる術がありませんね。ただ、襲われただけという可能性もある。ここは、そういう土地柄ですから。どちらにしろ、ここから離れた方が賢明でしょう。さあ、早く」
「で、でも、どこに行けばいいか……!」
「身を隠せそうな場所に、心当たりがあります。わたしが案内しましょう。こちらへ」
「は、はい!」
踵を返し歩き出す濃紺色の背に、弾かれたようにスゼルナも後を追う。しばらく進んだ辺りで、その背中が唐突にクルリと反転し、藍色の髪が円を描く。思わずスゼルナの足が止まった。
「申し遅れましたが、わたしの名はラグニツァール。ラグル、とでもお呼びください」
「私は、スゼルナです」
「では、改めて参りましょうか、スゼルナ」
端整な顔立ちがにこやかな笑みに覆われ、藍色の瞳がスッと細められる。それに首肯すると、スゼルナは彼から何歩か距離を置いてから、再び歩き始めた。