7.記憶の代償 (1)
「……おまえの記憶が忘却の彼方に移ろうとも、何度でも我が虜にしてやる。今は全てを忘れ、睡魔に身を委ねるが良い。次に目覚めた時、再び紡いでやろう。俺とおまえだけの刻を――な」
涙に塗れ、疲労の影が濃く落ちた彼女へそっと口付けを落とす。額に、瞼に、鼻に、頬に、そして唇に。
意識を無くし脱力した華奢な身体を抱きかかえ、外套の中へ引き入れる。熱を帯びたままの温かな感触が衣越しにも伝わり、翠の瞳が細められた。
運命を捻じ曲げて手に入れたものは――泡沫に彩られた真の想いと、いつ煌くか知れない、内包された刃の切っ先。
7.記憶の代償
「邪王神陛下」
歩み寄る濃紺の色に、ベルディアースは足を止め、一瞥を投げる。その口元が、フッと嘲るように形を変えた。
「随分長いこと気を失っていたようだな、ラグニツァール。俺の身辺警護の任が、聞いて呆れる」
「申しわけございません。小娘と侮って仕掛けてしまった、わたしの落ち度です。それよりも、陛下――。その女、どうされるおつもりですか? まさかとは思いますが……」
「城に連れ帰る」
放たれた一言に濃紺色の男、ラグニツァールは大きく嘆息した。
「――貴方は、ご自分で何をなさろうとしているのか、おわかりでないはずがない。その女は、光神オルティスの末裔……。いえ、光剣ギルベディオンを操っていたことを鑑みれば、次代の光神――貴方に仇なす存在になることは、間違いない。貴方のお戯れはいつものことですが、慰み程度の女ならば、魔界にも多数侍らせていらっしゃるはず。お困りではないと思いますが?」
「フン……。あんな低俗な女どもに、もう用はない。全て処分しておけ」
「……本気で仰っているのですか? そのお言葉、裏を返せば――その女一人だけいれば事足りると、他は必要ないと受け取れますが?」
「…………」
無言で、黒衣が翻った。その背に、呻くような声が投げかけられる。
「――貴方は久遠の闇の継承者。が、同時に流れるのは、悠久を統べる刻の血筋。その血に囚われているだけなのですよ、貴方は……!」
不意に立ち止まり、後方へと流された切れ長の翠の光が鋭く睥睨される。艶やかな黒髪が、彼の感情に共鳴するかのように、ザワリと蠢いた。
「俺の両手が塞がっていたことを、幸運に思うが良い。さもなければ、今この場で跡形もなく塵にしてやったところだ、ラグニツァール……! 命が惜しくば、二度とその口で俺に盾突くな。不愉快だ……っ」
そう吐き捨て、ベルディアースはかき消えるように姿を消した。
残されたのは、唇を噛みしめた状態で硬直したラグニツァール。その藍色の瞳は、憤怒と憎悪に塗れていた。
調度品の少ない、広々とした部屋が彼の私室だった。一つしかない窓から差し込む薄暗い光明に、銀糸で織られた優美なレースカーテンが淡く照らされる。それに覆われた、アーチ状に上へとせり出した形状の天蓋が設けられた寝台。
その寝台に横たわった彼女の寝顔は、酷く安らかだった。寝汗一つかくこともなく、昏々と眠り続けているあどけないその顔立ち、それを囲う金色の髪へと順に手を伸ばしそっと触れてみれば、柔らかな感触が伝わってくる。
ベルディアースの翠目が、フッと和らいだ。
「まだ、目覚めぬのか」
手慰みのように彼女の髪に指先を絡めては、持ち上げる。サラサラと、指の間から滝のように零れていく金糸達が、宵闇に鮮やかな煌きを残す。金の海へと流れ落ちたそれを、再び掌で掬い――静かに口付ける。フワリ、鼻腔を擽られたのは、彼女の香り。
「なぜ――。おまえ、だったのだろうな……?」
誰にともなく呟かれる独白。美しい面が、微かな苦悶に揺れた。
感じる、彼女の小さな寝息。無意識に惹かれ――彼が身を乗り出すように彼女へと被さる。ギシィ、軋み音が響く中、長い黒糸が舞った。
鎖されたままの瞼に、頬に、そして――触れ合う唇。吐息が触れ合う距離で見下ろした先には、何も変わらない彼女。見止めた翠の双眸が、彼らしからぬ色を灯す。
「スゼルナ……」
紡いだのは、彼女の名。
その音色は甘く優しく――だがどこか、切なげだった。
ベルディアースが次に姿を現した先に、待ち受けるように濃紺色の男が佇んでいた。気にも留めず、その横を通り過ぎる黒衣。カツカツカツ、踵の音だけが響く中、ラグニツァールが身体を反転させた。
「お待ちください、陛下」
「……おまえに用はない。失せろ」
歩む速度は落とさないまま、ベルディアースはそう吐き捨てる。
彼の隣に移動し、同じように足を流しながら、ラグニツァールは目を伏せた。
「――先日のご無礼は、平にご容赦を。わたしも、度重なる戦いの連続に、精神的にも疲弊していたのだと思います。ですから、どうか――。それよりも、お耳に入れておかなければならないことがございます。前々から懸念されていた西方地域にて、どうやら動きがあったようです」
ラグニツァールの声を潜めた報告に、ベルディアースは鼻先で笑うと、翠の瞳を冷酷に煌かせた。
「屑どもの始末は、貴様に一任したはずだが? それでもまだ、俺の手を煩わせるつもりか?」
「ですが、今回は今までにないほどの反乱規模と予想されます。こちらもそれなりの対処は必要でしょう。まずは軍を纏め――いえ、オルトを壊滅させた時のように、貴方が前線で御業を振るってくだされば……」
「フン、どうでも良いな」
「陛下!」
ベルディアースの動きが徐々に緩慢になり、そして完全に停止した。それに倣い、ラグニツァールも足を止める。藍色の瞳に俄かに広がる、凄艶な美しい笑み――全てをとりこみ、全てを魅了する魔性のそれ。ラグニツァールの喉が、小さく音を立てた。
「……俺をこれ以上失望させるな、ラグニツァール」
カツカツカツ、踵の音が遠ざかる。
その間、ラグニツァールはただただ低頭したまま、その音色を耳にしていた。その頬を一筋汗が流れ落ちる。と、その口元がユルリと歪められた。