6.変革の刻 (7)
――ふと、蹲っていた体勢から視線を上げてみれば、黒衣に縺れるようにヨシュアが剣を揮う絵図。一筋の剣閃が疾るが、手応えを感じなかったのか、黄櫨色の瞳が小さく見開かれた。
「……つまらぬな」
呟かれる、声。黒衣の腕が後方に流され、その手に集う闇の精霊たち。一瞬にして膨れ上がったそれが、ヨシュアに向けて放たれる。
「シェザード」
迫る黒光を捻りながらかわすと、ヨシュアは反動を利用した斬撃を繰り出す。受け止めたのは、冷酷に笑みを灯した口元の傍――二本の指の間だった。
「なに……っ!?」
「――そうか、貴様だったのか。あの女に纏わりつくように感じていた、不穏な影……。そう、確か――ヨシュアと呼ばれていたな」
「何の話だ!?」
「フッ、貴様は知る必要のないことだ」
不自然に歪められた、凄艶な表情。
空いている方の黒衣の腕が、スッと差し出された。そこに絡みつくような黒炎が現れ、歓喜の声を上げるように猛り狂う。
「――ヨシュア!」
放心状態だったスゼルナの面立ちに、ようやく意志が宿った。ともすれば脱力していく全身を奮い立たせ、駆け寄ろうとする彼女の眼前に見覚えのある短剣が、突き刺さる。
立ち止まる彼女に横手から衝撃波が見舞われ、一瞥した端に映る濃紺色。辛うじて回避したスゼルナの目が、その短剣に釘付けにされる。黒く変色した柄部分を捉えた視界が、一挙に滲んだ。
(エッ、ちゃん……っ)
再び襲う戦慄にグッと唇を噛みしめ、それらを押し殺すと顔を上げる。
広がっていた光景は――やけにゆっくりと刻が流れる一幕だった。
一枚絵のように、制止していた二人の男。貫くような一筋の黒閃が横切り、樺茶色の髪が大きく揺れ動く――その手から長剣が滑り落ちた。
スゼルナの金糸が何度も何度も横に振られ、届くはずのない指先が懸命に伸ばされる。
「やめて……っ、おじいちゃん、エッちゃん……。これ以上、誰も失いたくない……! お願い、お願いだから……っ!」
黒い炎がその残忍な顎を持ち上げ、捕捉した獲物へ牙を剥かんと咆哮を上げた。
「やめてぇええええ――っ!! ディアルクぅうううう――っ!!!」
悲痛な叫びが、スゼルナの喉を潰さんとばかりに発せられた。
美しいエメラルドに、酷薄な煌きが宿る。奏でられたのは、吐き捨てるような言の葉。
「消えろ……!」
瞬間。黒炎が放たれ、一瞬にして樺茶色の髪を、全てをその口腔へと呑み込んだ。
***
闇色の風が、金糸と黒糸を織り交ぜながら一挙に吹き上がる。
消える、消える――儚い、泡沫の夢たち。
最後に残されたのは、彼女にとっての大事な人々。
「おじいちゃん、村の、みんな……。ねえ、どこに、どこに行っちゃうの……?」
うわ言のように流れ落ちる言の葉。
疲労が濃く滲む顔立ちに、不意に差し込む寂寥の陰影。
「ヨシュア、エッちゃん……どうして? いや……っ私を、置いていかないで……っ」
消える、消える――儚い、泡沫の夢たち。
掌の温もりに頬をそっと撫でられ、ビクリ、と細い肩を弾ませた彼女の双眸に映える、愛してはならないのに愛してしまった男――。
「ディア、ルク……っ」
目の前の、細められた翠の瞳が、凄艶に彩られた面立ちが、見知らぬそれへと変わっていく。
彼女の二つのトパーズが恐怖を燻らせ始め、止め処なく溢れ滴る透明な軌跡。
「あなたは、誰? 私、どうなっちゃうの? 私が、消える……? やだ……っそんなのやだよ……っ。こわい、こわい……! だれか、たすけ――んっ」
震える口唇が、優しく覆われる。
陶酔が奏でられる中、最後の一片が、ゆっくりと彼女から抜け落ちていく。それに縋りつくように、彼女の手が虚空に伸ばされた。掴もうとした先には――美しい満月。
ドクン、胎内の鳴動に華奢な身体が撓んだ。弾みで唇の枷が外れ、白い喉が大きく仰け反り、吸い込まれる、息。瞬間――。
重なる、記憶の世界と現実の世界。
金糸が舞い、黄金の双眸の淵に溜まっていた無数の煌きが飛び散る。紅唇から、押し破るように響き出したのは――声も嗄れるくらいの絶叫。
「いやぁぁあああああああ――――っ!!!!」
スゼルナの内心で何かが弾け飛び、記憶の世界では、彼女の手に宿った光明が剣の形を模る。それを握り締め、前方を睨みつけた黄金の瞳に彩られたのは、憤怒。それに突き動かされるように、疾駆する。
見定めた先には――濃紺色と漆黒が、それぞれ舞い上がった。
現実の世界の彼女は――。一気に失った記憶の反動と衝撃で、薄れいく朦朧とした中を彷徨っていた。
「……愛している、スゼルナ」
囁かれたその言の葉は、甘く切なく彼女を包みこむ。誰の声かさえ、もう既に思い出せなくなりながら――スゼルナは、やがて緩々と意識を失った。